30. 幕間 3
「――八重よ、そこにいるか」
「はい。ここに」
空に白く丸い月が昇りかけた、木枯らしが吹く、ある晩のこと。
靜子の父である|永原基光《ながはら の もとみつ》は、主殿の簀子縁に呼びつけた八重に向かって短く声をかけた。
「では、屋敷の現状と今後の予定をご報告いたします」
家長の基光がこの部屋で寝泊まりをするのは、多くても週に二日か三日ほど。ほとんどは内裏で過ごしているので、屋敷に戻ったときはこうしてまとまった報告を受けるのが習慣となっている。
鬼灯石に照らされた冊子に目を通しつつ、八重からの報告を聞いていた基光は、眉間に皺を寄せて溜息をついた。
「それよりも、だ。靜子はどうしていた?」
「はい。星祭り以降、靜子様は元通り……屋敷を出た形跡はありません。たまに庭に出て、鳥型の式神とたわむれているようですが、大抵は自室で絵巻を眺めていますね」
「……そうか」
普段から、基光の言葉数は少ない。それは実直で慎重な性格の表れでもあるし、深く考え込んでしまう癖もあった。ゆえに、気心の知れた相手でなければ、その真意を推し量ることはできない。
靜子の女房である八重は、屋敷における家人たちの取りまとめ役というわけではなかったが、それでも数少ない古参の一人であり、勝手知ったる仲であった。ずばり、基光が八重を呼ぶときは、靜子に関する話をしたいのだ。
「ですが先日、『外出したい日がある』とおっしゃっていました」
「……今、なんと」
「靜子様が自ら申し出たのです。『新嘗祭の前日に出かけたい』と」
聞き間違えなどではなかったようだ。基光は再び溜息をついた。大きな肩幅がみるみるうちにしぼんでいく。
星祭りの日に起きた愛娘の家出は一時の気の迷い、魔が差したのだろうと解釈しつつあった基光にとっては、今日の報告では最も気がかりな話だった。
「しかし、予想どおりの展開ではないですか? 靜子様はどんどん変わって……明るくなっているのです。それを私たちが無理に引き留めようとするのは、得策とは思えません」
「では、八重は賛成なのか。地湧きが多発する今の禎連京へ、靜子を放り出すことに」
「その懸念は理解できますし、基光様の決定には従います。ですが、それ以上に私は、靜子様の意思を尊重したいのです」
基光のかすかに怒気を含んだ口調にも臆さず、八重は真っ向から言葉を返す。ここ最近の二人のやり取りは、いつも同じような展開をたどっていた。
やれやれと肩を落とす基光と、口をつぐむ八重。二人とも、靜子の話題となるとつい熱がこもってしまうのだ。しばしの沈黙が流れて、空気と頭を冷やしていく。
「外出の理由は、なんと言っていた」
「いたって真面目な様子で、『大切な友人たちを助けたい』とおっしゃっていましたね」
「……友人なぞ、いたのか」
「きっと、式神を通じて交流を持ったのでしょう。ごく自然なことです。なんでも、そのご友人の一人が屋敷まで迎えに来てくれるのだそうです」
数年前、基光は「遊び相手が欲しいのなら用意する」と、靜子に言ったことがあった。意を決しての発言だったのだが、靜子からはやんわりと拒否された上に、そのやり取りをあとから知った八重からも「無神経だ」とたしなめられた。
いかに貴族の娘といえども、靜子を取り巻く環境はどこかいびつだ。こんな環境を維持できているのは、ひとえに靜子自身の意思によるところが大きい。
呪われた姫と呼ばれても、同年代の子供と交流がなくても、靜子は不満を漏らさなかった。自分がそうさせているのだと、基光にも少なからず罪悪感はあったが、当の本人が現状に抵抗する気が全くなかったのだ。
そんな小さな箱庭に一石を投じたのが、「彼の者」による式神の術。意外にも、靜子が式神を使いこなしていることも、影響しているのだろう。
「『彼の者』に師事を依頼したのは、靜子に簡単な護身術を学ばせるためであったのだが……それが、こんなにも変化をもたらすとはな」
「靜子様が『師匠』と呼んでいるお方ですね。いったい、どんな人物なのですか?」
基光は口をつぐんだ。ここで語って聞かせるほど、「彼の者」についての情報を持ち合わせていない。それでも、八重が相手ならば、素直な感想をもらえる良い機会だ。
そう考えた基光は居住まいを正し、声量を落として話し出す。
「実は……私も数回しか会ったことがない。しかも、相手は顔を隠していた」
「基光様ともあろう方が、そんな怪しげな人物を信用するなんて」
あからさまに元気がなくなった八重を見て、基光は苦笑した。思い起こせば、あのときの自分はいつもより冷静さを欠いていたのかもしれない、と。
「最初の出会いは数年前のこと。自らを『天命から弾かれた存在』と称する彼の者は、例の大禍刻について調べていると言って、私に接触してきたのだ」
「由子様が逝去された、十年前の……あの大禍刻ですか」
「あの事故について知りたいのは私とて同じ。私は自分の情報を与えると同時に、彼の者に約束を持ちかけた」
「……なるほど。それが靜子様への師事、ということですね」
「正確には『私の願いを一つ、聞き入れてほしい』と頼んだだけだ。それが二年ほど前に、靜子が求める『陰陽術の教師役』として達成されたわけだ」
謎は多いが、約束を違えるような不誠実な人物ではない。それが彼の者に対する、基光の評価だった。
対する八重は険しい顔つきで考え込んでいた。静かに思考を整理しようとするも、やがて諦めたように小さな溜息をついた。
久しぶりに、その名を口にした気がする。靜子の母親、基光の妻、八重の前主人――「由子」。
生前、屋敷での明るく朗らかなあの笑顔を思い出そうとすると、不思議と靜子に重なって見えてくる。
懐かしそうに目を細めて、八重はゆっくりと語り出す。
「庭先で式神を使役する靜子様のお姿を見ていると……かつての由子様を思い出します」
「たしかに、どことなく声も似てきた。……あぁ。もしも、由子が愛娘の現状を知ったなら、なんと言っただろうか」
「活発なお方でしたからね。靜子様の行動を、力強く後押ししたことでしょう」
基光は声を押し殺すように笑った。唐突で悲しい離別になってしまったけれど、由子との明るく楽しい思い出も、この胸のなかにたくさん残っている。
「向こう見ずな由子のことだ。『責任は父様が取るから』なんて、勝手なことを言ってな」
「ふふ……光景が目に浮かびますね」
しめやかな雰囲気が二人を包んだ。夜空を昇る月が都を冷たく照らす。
美しい思い出は過去にすぎない。しかし、苦しい時間を乗り越える力になる。そうして生き残った者ができるのは、未来に関することだけだ。
基光は深呼吸をする。その目に宿っていた憂いや迷いは、いつしか消えていた。
「――わかった。靜子の外出を許可する。ただし、その友人とやらの身元を明らかにした上で、懸守を肌身離さず持ち歩くこと。そう伝えてくれ」
うつむいていた八重がぱっと頭を上げる。その顔には若干の戸惑いがあった。
「それは……基光様ご本人がお伝えしたほうが、よろしいのではないでしょうか」
「いや、面と向かって話すとなると、どうも感情的になってしまうでな。……口論にでもなったら、立ち直れそうにない」
「口論になるかはともかく、本音を交わすことは大切ですよ。私から見れば、基光様も靜子様も内省ばかりして……お互いにもっと、素直な気持ちを打ち明けてほしいです」
「う、む……なかなか難しい話だが……善処しよう」
ようやく前向きになった基光の言葉を聞いて、八重の薄い唇が弧を描く。そして、そのまま深々と頭を下げた。
信じて背中を押す。この単純かつ困難な選択が、現状における最適解であると、八重は心から信じているのだ。
まもなく、八重は去った。やがて屋敷の明かりは消えて、皆が寝静まった。
そんななかで基光はひとり、簀子縁に立って南中に浮かぶ月を見上げていた。
基光の頬には一筋の涙が流れていた。辺りに人はいないが、それでも息を止めてこみ上げる嗚咽を押し殺す。
――由子。寂しくも誇らしい娘の成長を、彼女と笑いながら分かち合いたかった。
冷えた涙を袖でぬぐい、基光は静かに部屋の奥へと姿を消した。




