25. 菊花の宴 3
さすがにここまで来ておいて、手ぶらで引き返すのは悔しい。では、無理を承知で豆千世を突撃させるか、否か。
筆管を顎に当てて思案していると、豆千世が「チュリリ!」と元気よく鳴いた。もしや、それは……「行ける!」ってこと? その自信はどこから出てきたの?
私は筆の穂先で絵巻を軽く叩いた。すると、豆千世が境内にある池の近く、植え込みに向かって難なく飛んでいく。
「お……おぉ! すごい、突破できた!」
私が思っていた以上に、豆千世は高性能な式神だった!? ……と、感心するのはほどほどにして、私は耳をそばだてた。
紋子姫の父親を含めた三人――高位の貴族らしい男性三人組は、池のほとりに立って遠くを見つめながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「手応えはまずまず、といったところか」
「着実に術の精度は上がってきています。期待以上といってもいいのではないでしょうか」
「気持ちはわかるが、アレは瀬踏みにすぎんよ」
絵巻に顔を近づけて、根性で声色を聞き分ける。あー……この世界にヘッドホンかイヤホンがあったらよかったのに! 私の鼻息の荒さが、向こうには伝わらないのだけは救いだけど。
頬ずりしそうな勢いで絵巻に寄っていると、不意に三人の会話が途切れた。何があったのかと顔を引いて映像を注視すると、木の葉の隙間から三人の怪訝な表情が見えた。その視線の先には……人影?
三人の意識がそれている間に、豆千世を境内の塀へと移動させる。早めの退路確保、大事。そして、そこでようやく、新たな参加者の姿を捉えることができた。
その人物は、市女笠を被った女性だった。木の杖を持ってしゃなりしゃなりと歩くたびに、黒みがかった虫の垂れ衣が揺れた。どことなく、只者ではないオーラを纏っている。
市女笠の女性は男性三人組のもとへと近づき、ゆっくりと一礼した。仲間であるはずの男性三人組は、なぜか居心地が悪そうだ。
「つつがなく、事は進んでいます」
先に口を開いたのは女性のほうだった。よく通る声に反してうつむきがちで、その表情は読めない。女性は懐からいくつかの形代と木簡を取り出して、男性たちに渡した。
「例の『目障りな力を持つ女』に対して、特に敵意が向くように調整しましたわ。もちろん、妖異なぞ人に従えられるわけがありませんが……ある程度の方向性は作り出せたかと。おかげで、随分と苦労しましたよ」
どこか上機嫌に話すその内容から推測するに、腕利きの術者なのかもしれない。彼女は何もない片手をそのまま突き出していて、何かを催促しているようだ。
男性たちの一人が、袍の中から小さな袋を取り出し、その手の上にポイと落とす。
人に物を渡す仕草にしては失礼な態度のはずが、女性は嬉しそうに「たしかに、いただきました」と言って、袋の底を揉んでいる。小さく金属がぶつかる音がしたので、硬貨――金銭の類かな?
女性は袋をしまってから、こう言った。
「天命はすでに我らの手中にあり。主君の望むがままに、結果を引き寄せてみせましょう」
思わず震え上がるような、低く迫力のある声だった。山門の上で息を潜めていた豆千世も同じことを思ったのか、映像がわずかに揺れた。
天命を意のままに操るだなんて……いくらなんでも、荒唐無稽な話だ。原作ゲームでも、彼らがそんな力を持っていたなんて説明は出てこなかった。
なんとなく、ここに長居するのは危険な気がする。そう直感した私は、急いで豆千世に退却命令を出した。
「これは嫌な予感……というより、予言だよね」
私の愛する物語――『恋かし』を追うと決めた時点で、ある程度の覚悟はしていたけれど、やっぱりシリアスな展開には息が詰まる。それに、ここは私が生きる世界。紛れもない現実でもあるのだから、余計に悩ましい。
大きな溜息をついていると、どこからか足音が聞こえてきた。これは、豆千世が拾っている音ではなく……私の部屋に誰かが近づいている音だ!
「失礼いたします。靜子様は……ちゃんと部屋にいらっしゃいますね?」
それはもちろん、八重だった。突然に現れて何を言い出すかと思えば、抜き打ちの生存確認とは。八重は私の姿を見るなり、満足げに頷いた。
「いきなり、どうしたの……? 何かあった?」
乱れた袿を正す八重に、私はおそるおそる声をかけた。八重は簀子縁から中庭と空を眺め、しきりに周囲を警戒している。
「都中で地湧きが発生しているようなのです。どれも大した規模ではないそうですが、発生件数が多いとのことで……念のために、屋敷の内部を見て回っているのです」
その知らせを聞いても、私はあまり驚かなかった。むしろ、納得感すらあった。
強力な結界で守られている都より安全な場所はないと、誰もが信じ切っている。しかし、「天命をも手繰り寄せる」と豪語する相手に対して、今までの常識や処置がどこまで通用するのだろうか。
もはや事態は私たちの理解の範疇を超えて、今後の展望にも暗雲が垂れ込めている。部屋を立ち去る八重の背中を見送りながら、私は肩をすくめた。




