11. 幕間 1
〈――と、このようにして、巫女役である真日流ちゃんは勇敢に立ち上がり、見事に歌を詠み上げたのです! その姿といったら、心が洗われるような美しさで、思い返すと今でも感嘆の溜息が出ます。〉
山あいの村のさらに奥地。静かにそびえる霊峰――その山頂付近に、古ぼけた庵がひっそりと建っていた。
端から見ると住人がいるとは思えないあばら屋だが、それはただの錯覚にすぎない。いくつもの結界や罠が張られた先にある本物の庵は、外観から想像するよりもずっと広い。
そんな奇妙な庵の内部はというと、どことなく生活感は薄く、雑然とした書庫か作業場といった印象が強い。
最も開けた部屋の中央に、作業台らしき木製の机と腰掛けが一脚ずつ置かれていて、その上には渾天儀や護符といった陰陽術に関わる道具の他に、禎連京の地図や古文書の写しのような紙が散らばっている。
冊子や巻物が収められた大きな棚が壁際に並んでおり、栞か付箋が挟まれて不格好に厚みを帯びている書物も見える。
棚と棚のあいだ、小さな連子窓の向こう側では、さやさやと月雫草が儚げに揺れていた。
「ふふっ……この娘の見る『物語』は、まだ平穏か」
芯のある低い声のせいか、独り言にしては妙に響いた。
木や紙といったさまざまな形代が積まれた文机の片隅、青々とした木の葉の上に、少し丸みのある文字がぼんやりと浮かんでいる。
節くれ立った、しかし美しい指先が文字を優しく撫でた。それは筆だこや剣だこが染みついた男性的な手で、日常の鍛錬が垣間見える。
「とはいえ、綻びは確実に広がっている。……あまり、時間はないな」
億劫そうに呟きながら手に力が入ったようで、持っていた一枚の紙がくしゃりと音を立てた。規則的で整った文字列が、よれて傾いている。
そこには、とある事件に関する情報が記されていた。
十年前、帰郷中の貴人が乗っていた馬車が襲撃されたという、不幸な事件について。
宮中の書記官が作成する公的文書で、「山賊の襲撃により、死者多数」と記録されているこの事件には、不審な点がいくつもあった。
主犯格の山賊の行方、生存者についての情報など、いかにも重要な事柄が不自然に抜け落ちているのだ。
まるで、事件が風化して消え去ることを望まれているかのように、公表が制限されていた。
不意に戸口のほうから物音がした。何かが外から叩いているのか、薄い戸が振動している。
異変に気づいた人物が、素早く身を翻す。警戒することもなく戸を開けると、風を切って勢いよく一羽の鳥が侵入してきた。
「戻ったか、博参」
博参と呼ばれたそれは、すいと慣れたふうに机に飛び降り、悠長に羽を畳んでいる。これはハヤブサ――正確には、ハヤブサの姿をした式神だ。
博参は目の前に差し出された干し肉をあっという間に平らげる。それから、鉤型に曲がったくちばしをおもむろに開いて言った。
「なんだ、アイツはまだ帰ってきていないのか」
首をかしげながら、周囲を探る。そのもったいつけたような動きは実に人間臭く、実際の鳥類とは似ても似つかない。
文机の上で転がる筆と、普段よりほんの少し浮ついた声色や仕草。博参はそれらに目ざとく気がついて、状況を理解した。
「まったく……好きだねぇ、文通。ご主人にしてはよく続いているほうだ。そんなに好きなら、そのお姫様に会いに行こうとは思わないのかね?」
「どうだろうな。必要があれば会うだろうし、必要がなければ会わないだろうよ」
喉の奥を鳴らして笑う、飄々とした反応が返ってきたことで、博参はあきれたとばかりに頭を振る。
「へいへい、そうですか。まぁ、俺にとってはどうでもいい話だ。……そんで? ご主人は、また一人で出かけるつもりかい」
「ああ、霊脈内を移動していけば問題ないだろう」
その返事を聞いた途端、縞模様の羽をばたつかせて、博参が「キィキィ」と不機嫌そうに鳴いた。
「問題ある。そう言って何日も漂泊していたこと、もう忘れたのか。いいか、普通の人間は霊脈を移動手段には使わない。危険すぎるからな!」
気のない相づちを挟みながらも、外出の準備は着々と進んでいるようだ。絹の布擦れの音と軽い靴音、金属がぶつかり合う音が響く。
小さく溜息をついた博参が、それを恨めしそうに見つめている。
「せめて、アイツが戻るまでここに留まるか、俺がついていきたいくらいだが……」
「――博参」
低く通る声で名を呼ばれると、博参の動きが一瞬だけ停止した。そして、その緊張が弱まってきたところで、しぶしぶといった様子で話し出す。
「はぁ……アイツに会ったら、ご主人を追いかけるように言っておく」
ドンドンと二回、床を強く踏み鳴らす音がした。脚がすり減った机が小刻みに揺れる。
続いて、抑揚のない落ち着いた声による呪文が聞こえてきて、床の一部に水たまりのような小さな渦が生じはじめる。これこそが、大地を巡る霊力の流れ――霊脈への入り口だ。
「そうしてくれ。報告は後日、頼むよ」
生身の人間が霊脈に入ると、身体を構成する霊力が分解されて、溶ける。ほとんどの場合、それは死を意味するが、うまく制御して脱出することができれば、身体が再構築されて生還するのだという。
もちろん、果てしない運河を泳ぐようなもので、並大抵の技ではない。しかし、いとも簡単に霊脈を開き、何のためらいもなく霊脈に飛び込む特異な人物が、ここにはいた。
別れの挨拶なのか、博参が羽を広げて甲高く鳴いた。
視線の先には、ぽっかりと開いた霊脈へ続く穴。そこに足を踏み入れても落下するのではなく、次第に脚から膝へと、泥沼に沈んでいくように音もなく身体が溶けていく。
みるみるうちに全身が飲み込まれていき、ついに頭のてっぺんも見えなくなった。それと同時に渦は止み、霊脈への穴も消え失せる。
すっかり床は元通りになり、静まりかえった庵に残されたのは、一羽のハヤブサだけになった。
「あれでいて、焦っているのかねぇ。こっちもそろそろ、攻勢に転じたいものだが……さて」
そう呟いてから、博参がふわりと宙に浮かぶ。そして、連子窓をめがけて一直線に飛んでいった。
連子窓には何らかの術が施されているらしく、組子に行く手を阻まれることはなく、勢いそのままにすり抜ける。
庵から一歩でも外に出てみれば、背後にたたずんでいるのは、寒々しいあばら屋。
周辺に群生している月雫草を揺らしながら、博参は霧の中へと消えていった。




