第8話 過去編『救う者のバグ』
――トントン、トントン、トントン。
街の片隅、静かな路地裏に佇む古民家。
診療所の看板が掲げられたその建物の台所で、規則正しい包丁の音が朝の静寂に響いていた。
「……よし、味付けはこんなところかな」
十五歳の一条律は、おたまですくった味噌汁を小皿に取り、慎重に毒見をした。
煮干しと昆布の出汁。豆腐とワカメ、薄切りにした根菜。律は手早くお盆に茶碗と味噌汁、香ばしく焼き上げた焼き魚を並べると、奥の雑然とした診察室へと足を踏み入れた。
診察室は相変わらず惨状を極めていた。
足の踏み場もないほど散らかった書類や専門書。その中心で、白衣姿の神楽坂鏡花がデスクに突っ伏して微動だにしていなかった。
律はため息をつきながらお盆を脇のスペースに置き、足元に転がっていた空き缶を拾い上げる。
「……先生。朝ご飯できましたよ。それと、この空き缶捨てますね」
「……触るなガキ……」
デスクから掠れた声が返ってきた。鏡花が億劫そうに頭を持ち上げる。
ボサボサの黒髪に、隈の浮き出た目。
「捨てないでくださいって、これ全部空ですよ。昨日から何缶飲んだんですか」
「おい、その缶の配置にも意味があるんだよ。左からカフェイン濃度の順に並べてんだ。勝手に動かすな」
「嘘ばっかり。ただ飲み散らかしてるだけじゃないですか。ほら、ご飯冷めますよ」
律が缶をまとめてゴミ箱へ放り込むと、鏡花は「ちっ、不機嫌な掃除機が来た」と悪態をつきながらポケットを探った。取り出したのはイチゴ味の棒付き飴だ。
慣れた手つきでフィルムを剥がし、口に放り込む。そしてカラカラと歯に当てて鳴らしながら、律が運んできたお盆に手を伸ばした。
「また飴食べたままご飯食べるんですか。味覚がバカになりますよ」
「うるせぇ。脳をフル回転させた後は糖分補給が要るんだよ。味覚のデバッグだ」
「絶対違います。ただの不摂生です」
「あ?」
鏡花がガラ悪く眉をひそめると、律は小さく肩をすくめた。
鏡花は味噌汁をひと口すすると、フンと鼻を鳴らす。
「……まあ、味は悪くねぇ。……で? お前、いつまでうちの飯炊き係やってるつもりだ」
「え?」
「実家にもどらねぇのかって訊いてんだよ。母親が死んで、家も遺産も全部お前の持ち物になったんだろ。あんな立派な家と口座があるなら、一生遊んで暮らせるんじゃねぇのか」
鏡花は焼き魚の身を雑にほぐしながら、淡々と言い放った。
律は一瞬、手を止めたが、すぐに穏やかな表情で答えた。
「……お金の心配がないのは、母さんに感謝してます。将来、僕が大学に行くための学費だって十分すぎるくらいありますし……」
「へっ、ガキのくせに資産家かよ。生意気だな」
「そうじゃなくて……あの家に一人でいると、まだ母さんのこと……あの『apathy.pcs』の時のことばかり考えちゃうんです。だから、心の整理がつくまでは……ここにいさせてください。家賃代わりに、ご飯掃除は全部僕がやりますから」
律がまっすぐ見つめ返すと、鏡花はつまらなそうに鼻を鳴らし、飴をガリッと噛み砕いた。
「ハッ。勝手にしろ。ただし、タダ飯食わせるほど私は甘くねぇぞ。学費があるなら将来は私の診療所に高額な研修費でも払ってもらうからな」
「それ、ただの集金じゃないですか」
「当たり前だ。……ほら、食ったら仕事だ。今日はお前に現場のオペを打たせる」
「え……僕が、ですか!?」
「当たり前だ。いつまでも客気分でいられると思うな」
鏡花はそう言うと、豪快にご飯を口にかけこんだ。
律は驚きつつも、自分の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
ふと、鏡花がご飯を口に含んだまま、珍しそうに律の顔を覗き込んでくる。
「あ?」
「え……な、なんですか? 僕の顔に何か付いてますか?」
「いや。……お前、笑うんだな」
「っ……」
言われてハッとする。
あの事件以来、自分は二度と笑うことなんてないと思っていた。胸の奥に冷たい鉄の塊が詰まったような感覚が、一生消えないのだと信じ込んでいたのだ。
それが今、このずぼらで口の悪い女の前で、拍子抜けするくらいあっさりと笑っていた。
「……先生のせいですよ」
「ハッ、人のせいにするなガキ。ほら、とっとと片付けて準備しろ!」
「はい!」
律は元気に返事をすると、手早く食器を片付け始めた。
ドライで、粗暴で、けれどどこまでも温かい日常。
ここが自分の新しい「居場所」なのだと、律は疑っていなかった。
*
その日の午後、診療所の重い扉がカランと音を立てて開いた。
訪れたのは、営業職をしているという三十代の男性・高瀬だった。
彼は激しく痩せこけ、目の周りには濃い隈を作り、怯えたような視線で診察室を見回していた。
「神楽坂先生……もう、限界なんです。夜になると、上司や取引先の怒声が頭の中で鳴りやまなくて……自分はなんて無価値な人間なんだろうって、そればかり考えてしまって……」
高瀬は診察台の端に浅く腰掛け、震える手で何度も膝を擦っていた。
「……具体的に、どんな風に聴こえる?」
鏡花はデスクに肘をつき、飴をカラカラと鳴らしながら淡問する。
「『お前みたいな使えない奴、代わりはいくらでもいる』『お前のせいでチームの成績が上がらない』って……仕事中も、家に帰って布団に入ってからも、ずっと耳元でループするんです。……僕、もう消えてしまいたくて……」
高瀬の声が絞り出すように細くなる。
鏡花は短く息を吐くと、あごで診察台を指し示した。
「横になれ。PCS繋いでログ見るぞ」
高瀬が診察台に横たわると、鏡花は古びた端末を起動した。
[SYSTEM LOG]
PATIENT : 高瀬
STATUS : 同期中
モニタには、上司からの叱責と、それに反応して乱れる思考ログが浮かび上がる。
「……先生、見てください」
律は画面の一部を指差し、身を乗り出した。
「この人、『自分が役に立たないから怒られるんだ』と思い込んでる。……僕と同じです。本当は誰かに認めてほしいのに、自分を責めることでしか自分を保てなくなってる!」
「……」
「僕に潜らせてください! 『あなたは悪くない、一生懸命やってる』って言ってあげれば、この人は絶対に救われます!」
律が振り返った瞬間――襟首を強めに掴まれ、乱暴に画面から引き剥がされた。
「――ハッ、最悪の落第点だな」
冷や水どころか、氷水を浴びせかけられたような声だった。
「な……なんでですか!? 僕はただ、この人の苦しみを理解して――」
「お前は患者を見てない」
鏡花は不機嫌そうに舌打ちした。
「お前は患者のログを通して、自分自身を見てるだけだ。自分の過去を患者に重ねて、『あの時の自分』を救おうとしてやがる」
「っ……!」
「同情するなとは言ってねぇ」
鏡花はモニタを指差した。
「自分の感情で、患者の答えを先に決めるなって言ってんだよ」
「……答えを……?」
「『あなたは悪くない』『一生懸命やってる』――それはお前の答えだ」
鏡花の目が細くなる。
「デバッガーが探すのは、消すべき感情じゃねぇ」
「本人が無意識に何を繰り返してるのか――その処理だ」
「最後に何を選ぶかは、本人に返せ」
律は息を呑んだ。
鏡花は高瀬へ視線を戻した。
「高瀬。もう一度訊く」
「本当に苦しいのは、怒られることか?」
「え……」
高瀬の呼吸が止まる。
「怒られるのも……怖いです。でも……」
震える手が、膝の上で強く握られた。
「期待に応えられない自分になるのが……一番、怖いのかもしれません」
端末の波形が大きく揺れた。
[SYSTEM LOG]
STATUS : 接続確立
鏡花は右手を掲げた。
――パチン。
周囲の音が遠のき、モニタの向こうで景色が歪む。
映し出されたのは、暗雲と冷たい雨が吹き荒れる、高瀬の精神世界だった。
そこに降り立った鏡花は、頭を抱えて蹲る高瀬へと歩み寄る。
『来ないでくれ! 僕がダメなやつだから……僕が全部悪いんだ!』
『失敗したら、次に何をする?』
『……え?』
『上司に怒られた。仕事で失敗した。そこまでは事実だ』
鏡花は端末を開いた。
' --- ERROR LOG: system.self_value ---
' INFINITE_LOOP_DETECTED
Do
Call [失敗]
Call [期待に応えられない]
Call [自己否定]
Call [失敗への恐怖]
Loop
『お前は失敗するたびに、「期待に応えられない」へ進んで、最後には「自分には価値がない」まで戻ってる』
高瀬の肩が震えた。
『……だって、結果を出せなかったら……僕なんて……』
『結果を出せなかったお前と、お前という人間全部は――同じものか?』
『……え?』
『上司に怒られた。それは事実だ』
『仕事で失敗した。それも事実だ』
鏡花は高瀬をまっすぐ見た。
『だから、お前そのものに価値がない――それも事実か?』
高瀬は答えられなかった。
雨音だけが、長く続いた。
やがて。
『……僕は』
高瀬が震える息を吐いた。
『失敗するたびに、自分全部を駄目だって決めるのを……やめたいです』
鏡花は何も言わなかった。
ただ、口の中の飴を一度転がした。
[PCS SYSTEM]
Exit Do
[SYSTEM LOG]
UNLOOP_SUCCESS
精神世界の雨が、少しずつ弱まっていく。
すべてが晴れたわけではない。
それでも、厚い雲の切れ間から細い光が差し込んでいた。
意識を取り戻した高瀬が、診察台の上ではっと目を開けた。
疲れ切った顔は、まだそのままだった。
明日になれば、また上司の言葉を思い出すかもしれない。
「……また失敗したら、自分を責めると思います」
高瀬はゆっくり息を吐いた。
「でも……それだけで、自分全部が駄目だって決めなくてもいいんですね」
鏡花は飴を転がした。
「さあな」
「それを決めるのは、お前だ」
高瀬はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
そう言って帰っていく高瀬の背中を見送りながら、律は自分の未熟さに拳を握りしめた。
同時に、ダイブから復帰してあくびを噛み殺す鏡花が、あまりにも巨大な存在に見えた。
(……すごい。先生は、答えを押しつけなかった。あの人が自分で気づくところまで、ずっと見てた……)
「おいガキ」
「は、はい!」
「言ったろ。患者のログにお前自身を混ぜるな。見るのは、本人が何を繰り返してるかだ。……まあ、第一歩としちゃ上出来だ」
「……! はい!」
律の目に映る鏡花は、決して揺らぐことのない「絶対の救世主」であり、目指すべき完璧な師匠だった。
少なくとも――十五歳の律には、そう見えていた。
*
高瀬の件が解決してから、三年の月日が流れていた。
15歳でこの古民家に転がり込んだ律は18歳となり、高校生活の全てをこの診療所で過ごした。
鏡花からデバッガーとしての観察眼や脳神経科学の基礎を徹底的に叩き込まれながら、律は猛勉強を重ねた。母の残してくれた遺産のおかげで金銭的な不自由はなく、ただひたすらに「鏡花のような救い手になる」という目標だけが、律の足を前へ進ませていた。
そして今春――律のもとに、第一志望であった医科大学の合格通知が届いていた。
「……ふう」
深夜二時。律は自分の部屋で合格通知書を綺麗にファイルに収めると、小さく息を吐いた。
春とはいえ、夜の空気はまだ冷え込む。律は一階の台所で温かいほうじ茶を二つ淹れ、お盆に乗せて診察室へと向かった。
(先生、今日もきっとろくに寝ないで作業してるな……合格のこと、ちゃんと改めてお礼言えてなかったし)
「これからは、僕も同じ立場に立てる。いつか先生の背中を支えられるデバッガーになるんだ」
そんな希望と誇らしさで胸を満たしながら、律は診察室のドアを軽く叩いた。
「先生、ほうじ茶淹れましたよ。……入りますね」
返事を待たずに静かにドアを開けた律は、しかし、その場で足を止めた。
部屋の中は、今まで見たこともないような冷たい異様な空気で満ちていた。
青白いモニタ光だけが部屋を照らし、そこには無数の不気味なノイズログが明滅している。
そして――デスクの前で端末に噛みつくように向かう鏡花の背中。
その肩は激しく上下し、白衣の上からでも分かるほど細く震えていた。
「……先生……?」
律がお盆を近くの棚に置き、数歩近づいた時、ディスプレイに表示されているログのタイトルが目に入った。
律の息が止まる。
そのデータファイルは、律が15歳でここに来た頃からずっと、診察室の「開かずのアーカイブ」に格納されていたものだった。
「これ……3年前からずっとある、あの患者さんのログ……?」
律は息を呑んで画面を覗き込んだ。
高瀬の時に見せられた綺麗な青いデータラインなど、そこには一切存在しない。
何層にも重なったトラウマ、強迫観念、自己否定のノイズが黒い巨大な渦となって画面を覆い尽くしている。そしてその下には、過去3年間に渡って鏡花が幾度となく潜り、修復を試みては弾き返された痕跡――数千行に及ぶ赤字の『REJECTED(修正拒絶)』エラーが並んでいた。
「……クソが……なんで届かねぇ……! なんでそこから出てこねぇんだよ……!!」
鏡花が低く、擦り切れた声で吐き捨てる。
デスクの上には、噛み砕かれた飴の破片と、無数の空き缶。彼女の顔は土気色で、隈は黒く落ちくぼみ、瞳からは生気が完全に失われていた。
「先生、それ……ずっと一人で抱えてたんですか……? 3年間も……!?」
律の問いかけに、鏡花は弾かれたように振り向いた。
その凄まじい眼光に、律は思わず足がすくむ。
「……なんだガキ。まだ起きてたのか」
「……どうして言ってくれなかったんですか! 僕、もう18です。もうすぐ医大にも通うし、ログの読み解きだって先生に教わって……! 僕も手伝います。その患者さんのデータを分担して解析すれば――」
「引っ込んでろ!!!」
雷鳴のような怒声が診察室に響き渡った。
鏡花はデスクを思い切り殴りつけ、ガタガタと音を立てて立ち上がる。
「なめんじゃねぇぞ、ガキが!! 医大の合格通知が一枚届いたくらいで、気取ってんじゃねぇ!!」
「っ……! でも、先生はもう限界じゃないですか! 3年もこんなバグと戦って……!」
「戦う? ハッ、お前に何が分かる!!」
鏡花は自虐的な笑いを浮かべ、自分の頭を乱暴に掻きむしった。
「これはな……認知の歪みなんて生易しいもんじゃねぇんだよ。自責と憎悪が何層にも重なって結晶化した……『重積エラー』だ。どんなロジックで解こうとしても、患者自身が『救われること』を拒絶してやがる!!」
「救われるのを……拒絶……?」
「そうだ!! 私がどんだけ手を伸ばしても、どんな言葉を投げかけても! こいつは深層で自分を壊し続けることを選んでんだよ! ……解けば解くほど、新しいノイズを生み出しやがる……! 私のデバッグが……私の存在自体が、患者を追い詰めてんだよ!!」
鏡花の手が、白衣の胸元を強く握り締める。
「救う者」として完璧であり続けようとした彼女の矜持。
どんな深いバグも解き明かしてみせるというプロとしての誇り。
その全てが、この3年間、届かない不条理な現実によって惨めに踏みにじられ、削り取られ続けていたのだ。
律の合格を祝う陰で、鏡花はたった一人で、この終わりのない地獄に引きずり込まれていた。
「……先生……僕……」
律は震える手を伸ばそうとした。自分を暗闇から救い出してくれた、大好きな師匠を抱きしめるために。
だが――
「触るな!!」
鏡花の手が、律の手を苛烈に振り払った。
パンッ、と乾いた音が室内に響く。
「お前に見せる顔じゃねぇんだよ……!! さっさと部屋に戻れ!! 二度とこのログに近づくな!!」
背中を向け、デスクに突っ伏す鏡花。
振り払われた律の手には、痛いほどの熱と、冷や汗が残っていた。
かつて雨の中で実家のドアを閉ざされた時の感覚が、重なって蘇る。
律はそれ以上、一言も発することができなかった。
(僕じゃ……届かない。先生の本当の苦しみには……まだ何も届かないんだ……)
律は唇を噛み締め、静かに診察室のドアを閉めた。
それが、崩壊へのカウントダウンだとも知らずに。




