第9話 過去編『届かなかった手』
それから、どれくらい経っただろう。
自室へ戻った律は、眠ることができなかった。
先ほど振り払われた右手が、まだ熱を持っている。
『二度とこのログに近づくな』
鏡花の声が、何度も頭の中で繰り返されていた。
律はベッドの端に腰掛けたまま、診療所の静けさに耳を澄ませた。
「……先生」
何かがおかしい。
いつもなら深夜まで聞こえているはずのキーボードの音も。
空き缶を転がす音も。
飴を噛み砕く音も。
何も聞こえない。
律は立ち上がった。
階段を駆け下りる。
「先生!」
診察室の扉を開ける。
冷え切った空気。
端末から吐き出される電子ノイズ。
デスクの上には、折り目のついた医学部の合格通知書。
そして――。
鏡花は、デスク前のパイプ椅子に身体を預けたまま、動かなかった。
「……先生?」
返事がない。
律は駆け寄り、肩へ触れる。
「先生! 聞こえますか!」
それでも、鏡花は目を開けなかった。
デスクのPCS端末だけが、不気味な赤い警告を明滅させている。
[SYSTEM LOG]
ERROR DETECTED
PROCESS : lust.pcs
STATUS : 臨界/オーバーフロー
PATIENT : 神楽坂鏡花
十五歳でこの診療所に拾われ、鏡花の背中を追い続けてきた三年間。
『自分の感情で、患者の答えを先に決めるな』
『本人が無意識に何を繰り返してるのか――その処理を見ろ』
鏡花が教えてくれた言葉が、頭をよぎる。
だが今は、問いかけても返事すらない。
律は震える手で救急要請を入れた。
その間にも、PCS端末の波形だけは激しく乱れ続けていた。
「先生……聞こえますか」
返事はない。
それでも、端末の波形には微かな意識反応が残っていた。
[SYSTEM LOG]
PROCESS : lust.pcs
STATUS : 緊急同期
「……僕が行きます。先生が僕を見つけてくれたみたいに……今度は僕が、先生を見つける」
律は鏡花の手に触れた。
端末の波形が激しく乱れる。
「先生。僕です。一条律です。……聞こえるなら、戻ってきてください」
[SYSTEM LOG]
STATUS : 接続確立
律は震える右手を掲げた。
――パチン。
その瞬間。
診察室の音が遠のき、現実の輪郭がノイズに侵食される。
視界が歪み、律の意識は鏡花の精神深層――PCS空間へと沈み込んでいった。
――キィン、と耳を刺す高音のノイズ。
次の瞬間、律の足に伝わってきたのは、どこか懐かしい木床の感触だった。
「……ここは……」
律が目を開けると、そこには見慣れた「神楽坂診療所」の風景が広がっていた。
使い込まれた木製のデスク、足の踏み場もないほど積み上げられた専門書、古びたパイプ椅子。
だが、決定的に狂っていた。
空間全体が、濃密で甘ったるい、気分の悪くなるような香調のノイズで満ちている。
壁紙はどす黒く変質し、空気そのものが湿り気を帯びてねっとりと肌にまとわりつく。
視界の端々で、赤黒いノイズコードが血管のように蠢いていた。
『あぁ……先生……神楽坂先生……』
『救ってください……私だけを見て……私で満たして……』
『先生のせいだ……私をこんなにしたのは先生だ……愛して……愛してよ……!』
空間の破片から、どろどろとした無数の「声」が漏れ聞こえてくる。
それは、鏡花が3年間抱え続け、最期に崩壊したあの重積患者の――歪んだ依存と過剰な愛着、そして性愛のノイズデータだった。
「……これが、患者から感染したノイズ……。先生は、こんなものとずっと一人で戦ってたのか……」
律は胃の奥が絞られるような不快感に耐えながら、診察室の奥へと足を進めた。
散乱する書類の向こう。
暗がりの中のパイプ椅子に、白衣を羽織ったひとりの女性が座っていた。
ボサボサの黒髪。痩せこけた頬。
口元には、イチゴ味の棒付き飴がカラカラと音を立てて転がっている。
「……先生」
律が呼びかけると、その人影――鏡花の深層心理が、ゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳は、律の知る神楽坂鏡花のものではなかった。
生気を失った濁った瞳の奥で、粘着質な赤黒い光がゆらゆらと揺れている。
「……あ……?」
鏡花のかすれた声が、湿った空間に響いた。
「……なんだ、ガキ……。なんで……ここにいる……」
「先生を連れ戻しに来ました」
律はまっすぐに鏡花を見つめ、一歩踏み出した。
「帰りましょう、先生。現実の診療所に。……僕と一緒に」
「ハッ……」
鏡花の口から、自虐的な乾いた笑いが漏れた。
彼女は飴をガリッと噛み砕くと、ポケットから新しい飴を取り出そうとして、手元を滑らせて床に撒き散らした。
「戻る……? どこにだ……。私の現実なんて……もうどこにもねぇよ……」
「あります! 1階の台所も、診察室も、僕が全部綺麗にして待ってます! 大学の合格通知だって……先生にちゃんと見せてない!」
「やめろ……!!」
鏡花が突如、絶叫した。
その叫びに同調するように、周囲の空間がぐにゃりと歪み、赤黒いノイズが激しく泡立つ。
「見せるな……! 私にそんな光を見せるんじゃねぇ!!」
「先生……!?」
「お前がそこに立つだけで……お前がまっすぐ私を見るだけで……! 頭の中が狂いそうになるんだよ……!!」
鏡花は頭を激しく抱え込み、苦痛に顔を歪めた。
その白衣の隙間から、ドクドクと不気味な黒いノイズが溢れ出していく。
「あいつの……あの患者のノイズが……私の中で渦巻いてる……。『愛してくれ』『救ってくれ』『私で満たせ』って……!! それが……成長したお前に対する私の……私自身の汚い感情と混ざり合って……!!」
「僕に対する……感情……?」
律が問うと、鏡花は血の走った瞳で律を睨みつけた。
そこには、恐ろしいほどの拒絶と、それ以上に深い、狂おしいまでの苦悶が浮かんでいた。
「そうだ!! 私はお前を……ただの『救ったガキ』として見られなくなってるんだよ!!」
「ただの『救ったガキ』として見られなくなってる……?」
律はその言葉の重みに足をとめ、息を呑んだ。
空間を埋め尽くす甘ったるく歪んだ匂いが、喉の奥を刺すように迫ってくる。
鏡花は激しく肩を上下させ、白衣の胸元をぐしゃぐしゃに掴みしめていた。
その痩せた指先は白く強張り、今にも皮膚を突き破らんばかりに震えている。
「15歳のお前を拾った時は……ただの壊れかけた哀れなガキだった」
鏡花の声が、掠れた悲鳴のように空間に落ちる。
「飯を食わせて、ログの読み方を教えて、医大を目指して必死に机に向かうお前の背中を見て……私は、親の真似事みたいな温かい満足感を覚えていた。……だが、3年だ。お前は背が伸びて、声が低くなって、私の手なんて必要ないくらいに大人になっちまった」
「先生……」
「そこに……あの重積患者の『色欲ノイズ』が入り込んだんだよ!!」
鏡花が突如、傍らのデスクを力任せに殴りつけた。
ガタガタと音を立てて書類が舞い散り、赤黒いノイズが火花のように飛び散る。
「救ってくれ、愛してくれ、私だけを抱きしめてくれ――あいつが最期まで私に叩きつけてきた歪んだ性愛と依存のエラーコードが、私の中に残っていた『お前を愛おしいと思う感情』に、べったりと毒のようにへばりついた!!」
鏡花は血の滲むような瞳で律を凝視した。
その顔には、破綻したデバッガーとしての恥辱と、一人の女性としての狂おしい苦悶が混ざり合っていた。
「お前が成長して綺麗になればなるほど……お前が真っ直ぐな瞳で『先生』と呼ぶたびに、頭の中で声が聞こえるんだよ!! 『この男で満たされろ』『お前が育てた男を、自分のものにしてしまえ』ってな……!!」
「……っ」
「恐ろしかったよ……! お前に触れる手が、指導のための手なのか、それとも汚い欲望から伸びる手なのか……自分でも分からなくなる! お前が夜遅くまで勉強している姿を陰から見つめている時、自分がどんな目でお前を見ているのか自覚するたびに、反吐が出そうだった……!!」
鏡花は両手で顔を覆い、膝から床へと崩れ落ちた。
散らばったイチゴ飴の粒の上に白衣が広がり、黒いノイズが彼女の身体を縛り上げるように巻きついていく。
「お前は……私の光だった。親に捨てられ、傷ついて、それでも懸命に立ち上がろうとする……私の誇りだったんだ。……それを……私自身の汚い狂気(色欲)で泥塗れにするなんて……できるわけねぇだろ……!!」
「だから……僕を突き放したんですか」
律はゆっくりと、けれど確かな足取りで崩れ落ちた鏡花へと歩み寄った。
「僕を拒絶して……一人で鍵を閉めて……全部抱え込んで消えようとしたのは……僕を守るためだったんですか……!?」
「来るなと言っている!!」
鏡花が顔を跳ね上げ、手を振るった。
その手から放たれた衝撃波のようなノイズデータが律の頬をかすめ、赤い切り傷のようなエラーを刻む。
だが、律は足を止めなかった。
「僕を見てください、神楽坂鏡花!!」
律は叫び、鏡花の目前で膝をついた。
拒絶しようと伸びてきた鏡花の、冷たく震える両手を――律は容赦なく、力強く握りしめた。
「ひっ……! 離せ……! 触るな、ガキ……ノイズが……お前に感染する……!」
「感染なんてしない!! 僕は子供じゃない、先生が3年間かけて育ててくれた、一人の人間だ!!」
手と手が重なった瞬間、過剰な情念と依存のコードがバチバチと音を立てて律の腕を駆け上がる。
吐き気を催すほどの過剰な愛着、狂気的な依存、性的な執着のノイズが律の脳内に直接流れ込んでくる。
「くっ……あぁぁぁ……っ!!」
律は歯を食いしばり、視界が真っ赤に染まるほどの痛みに耐えた。
鏡花がどんな地獄を、どれほどの恐ろしさを抱えてこの3年間を過ごしてきたのか。その波動が、ダイレクトに心臓を打つ。
「分かったろ……!? これが私の中にある『色欲』だ!! お前を破滅させる汚いバグなんだよ!! さっさと手を放して、自分の世界へ帰れ!!」
鏡花が狂おしく叫び、手を振り払おうと暴れる。
だが、律はその手を決して放さなかった。握り返す力に、己の3年間の全てを込めて。
「違います……! 先生、あなたは間違っている!!」
律は激しいノイズの嵐の中で、真っ直ぐに鏡花の瞳を射抜いた。
「これは……先生の感情なんかじゃない!!」
律は叫んだ。
「この気持ち悪い欲望は、あの患者のノイズです! 先生の本当の感情は――」
「――決めるな」
鏡花の低い声が、律の言葉を切った。
「……え?」
「それは……お前の答えだ」
律の息が止まる。
いつか、自分に向けられた言葉だった。
『自分の感情で、患者の答えを先に決めるな』
鏡花は震える胸元を握りしめた。
「患者のノイズが入り込んだのは事実だ。あいつの依存も、性愛も、『私だけを見ろ』って声も……確かに私の中へ残った」
「だったら――」
「でもな」
鏡花は顔を歪めた。
「それに引っ張られて、お前を手放したくないと思ったのは私だ」
「お前に必要とされていたいと思ったのも」
「大人になって、私の手から離れていくのが怖いと思ったのも」
「そんな自分を汚いって思って、お前を遠ざけたのも――全部、私だ」
「……先生……」
律の手から力が抜ける。
救いたい。
だから、綺麗な鏡花だけを残そうとした。
醜く見えるものを、全部「患者のノイズ」にして切り離そうとした。
それは――鏡花が最も戒めていたことだった。
「僕は……先生の答えを、僕が決めようとしてた……」
鏡花は何も答えなかった。
代わりに、空間の奥で赤黒いコードが浮かび上がる。
' --- ERROR LOG: system.lust.pcs ---
' INFINITE_LOOP_DETECTED
Do
Call [誰かを救う]
Call [必要とされる]
Call [手放したくない]
Call [自己嫌悪]
Call [拒絶]
Call [孤独]
Loop
律はコードを見上げた。
「……救うことで、必要とされる」
「必要とされたら、手放したくなくなる」
「手放したくない自分を嫌って、遠ざける」
「一人になって……また、誰かを救おうとする……」
鏡花が乾いた笑いを漏らした。
「ハッ……ようやく患者を見たな、ガキ」
「先生」
律はもう一度、鏡花の手を握った。
今度は、何かを消すためではない。
「それも先生の感情です」
「怖いのも、手放したくないのも、僕を大事に思ってくれたのも……全部」
鏡花の瞳が揺れる。
「でも、それだけが先生の全部じゃない」
「僕は……先生に、ここから何を選びたいのか聞きたい」
長い沈黙が落ちた。
赤黒いノイズが、一瞬だけ弱まる。
鏡花は唇を震わせた。
「……分からねぇ」
「え……?」
「三年間、何度潜っても……何度コードを追っても……私は、自分で選べる出口を見つけられなかった」
「先生、だったら一緒に――」
「今の私には……その出口が、見えねぇんだよ……」
その言葉と同時に、空間が激しく軋んだ。
一瞬薄くなった赤黒いノイズが、再び鏡花の周囲へ巻きついていく。
[SYSTEM LOG]
PROCESS : lust.pcs
STATUS : ループ継続
「違う……! まだ、選べます! 先生は――」
鏡花は、ひどく穏やかな声で言った。
「私を綺麗にしてから救おうとしなくていい」
「私は……こんな感情を持ったままの私を、自分で認められなかった」
「だったら今から――!」
「……遅ぇんだ」
律の表情が凍りつく。
鏡花は苦しそうに笑った。
「現実の私が、もうどこまで持つか分からねぇ」
「お前が来る前に……私は、自分で生きる方を手放そうとした」
「……っ」
「PCSが私を殺すんじゃねぇ」
「私が……先に、現実でそうしちまった」
「嫌だ……」
律の声が震える。
「嫌です。戻ってください。救急車も呼びました。まだ間に合います」
「……そうだな」
鏡花は小さく笑った。
「だったら最後まで、諦めるな」
「先生……!」
「ただし、一つだけ覚えとけ」
鏡花の身体が、光の粒子に混じって少しずつ薄れていく。
「今の私に出口が見えないからって……それを世界の答えにするな」
「人の心を、勝手に『解けない』って決めるな」
律は息を呑んだ。
「先生……!」
「……いい医者に……なれよ、律」
その声を最後に、鏡花の姿は白いノイズへ溶けた。
絶叫とともに、視界が真っ白な光に包み込まれた。
絶叫とともに、視界が真っ白な光に包み込まれた。
*
*
ハッと意識を引き戻され、律は現実の診察室で目覚めた。
「はぁ……っ、はぁ……っ、先生……! 先生……!!」
律はPCS端末の前から弾かれたように立ち上がり、デスクの向こうにいる鏡花へ駆け寄った。
「先生!! 目を開けてください!!」
反応はない。
律は呼びかけ続けた。
何度も。
何度も。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてきた。
救急隊が診療所へ駆け込み、律は鏡花から引き離された。
処置の声。
機材の音。
短く飛び交う指示。
律には、そのどれも意味のないノイズにしか聞こえなかった。
その夜。
搬送先の病院で、鏡花の死亡が確認された。
鏡花が律を診察室から追い出したあと、自ら命を絶とうとする行動を取っていたこと。
律が異変に気づいた時には、すでに身体の状態が極めて危険だったこと。
医師から告げられた事実は、それだけだった。
PCSへの接続が鏡花を死なせたわけではない。
律のデバッグが、彼女の身体を壊したわけでもない。
それでも――。
十八歳の律には、そんな切り分けはできなかった。
デスクの上に残された、医学部の合格通知書。
十五歳でこの場所に拾われてからの三年間。
味噌汁の湯気。
イチゴ味の飴。
「お前は患者を見てない」と叱られた声。
そのすべてが、戻らない現実の前で塗り潰されていく。
(僕が……見つけられなかった)
(先生が、そこから抜け出すための出口を……僕は見つけられなかった)
そして、その痛みはやがて一つの答えへ変わった。
(色欲は……解けない)
(一度囚われたら……どこにも出口なんてないんだ)
それは世界の真理ではなかった。
だが、十八歳の一条律には――そうとしか思えなかった。
この夜、律の心には、
「lust.pcs=出口のない環状の感情劇」
という誤った確信が、消えない傷として刻み込まれた。
そしてその傷は数年後。
大人になった一条律自身を、同じ環状の感情劇へと引きずり込むことになる。
(第9話・了 / 過去編 完)




