第6話 憤怒(wrath.pcs)
――チン。
澄んだ音が、誰もいない街に響いた。
歩道も、建物も、街灯も、すべてがガラスでできている。交差点の向こうには、いくつもの景色が透けて重なり、どこまでが一本の道なのかさえ分からなかった。
「……ここが、紬ちゃんの心の中?」
夜坂めぐるが隣の少女に尋ねる。小嶋紬は、白く曇った建物を見つめたまま首を傾げた。
「……そう、なんですか?」
「一応、そういうことになりますね」
一条律は、白衣のポケットから黒い端末を取り出した。
街の奥で、学校のチャイムに似た音が鳴る。曇った壁の向こうに、制服姿の少女が現れた。紬と同じ顔をした少女は、一人きりの教室でプリントを数えている。
「……あれ、私……?」
少女が鞄に手を掛けたところで、教室の扉が開いた。
聞こえるはずの声が、届かない。
「では、そこに至るまでを見てみましょうか」
その光景へ至るまでに、紬にはいくつかの放課後があった。
*
数日前の放課後。教室には、まだ数人の生徒が残っていた。
椅子を引く音。部活動へ向かう足音。廊下を走っていった誰かが、先生に注意されている。
小嶋紬は自分の席で、教科書を鞄にしまっていた。筆箱を入れ、机の中に忘れ物がないか確かめる。最後に椅子を戻したところで、横から声がした。
「紬、ちょっといい?」
クラスメイトの女子生徒が、厚いプリントの束を抱えて立っていた。
「これ、明日の朝までに人数分に分けなきゃいけなくて。手伝ってもらってもいいかな? 私、これから部活なんだ。急にごめんね」
紬は相手の顔を見て、差し出された紙へ目を落とした。
「……うん。いいよ」
「ほんと? ありがとう! 助かる!」
生徒は分け方を説明し、もう一度礼を言って教室を出ていった。
紬は鞄を机の横へ戻し、椅子に座る。
一枚、二枚、三枚。
紙の端をそろえ、人数分ずつ重ねる。窓際では、残った生徒たちが週末の話をしていた。紬は会話に加わらず、間違えないように数え続けた。
やがて、教室から笑い声が消えた。
最後の一束を作り、指定された机に置く。照明を消して廊下に出ると、遠くで運動部の掛け声が聞こえた。紬は静かに扉を閉めた。
*
翌日の昼休み。
紬は窓から少し離れた席で、文庫本を開いていた。向こうでは数人の生徒が机を寄せ、楽しそうに話している。紬は一人でページをめくっていたが、そのことを特別、気にしている様子はなかった。
「紬、ノート借りてもいい? 昨日の授業、途中で書きそびれちゃって」
声を掛けられ、紬は本を閉じた。
「……うん。いいよ」
「ありがとう! すぐ返すね」
生徒は窓際の友人たちのもとへ戻り、ほどなくして約束どおりノートを返しに来た。
「助かった! ありがとね」
「……うん」
紬は小さく手を振り、再び本を開いた。どこまで読んだのか、少しだけページを戻す。
*
さらに数日後の放課後。
紬は教室の時計を見て、鞄のファスナーを閉じた。
今日は帰り道のペットショップへ寄るつもりだった。小動物が餌をかじるところや、眠っているところをただ眺める。誰かと話さなくても過ごせる、紬の好きな時間だった。
椅子から立ったところで、入り口から顔がのぞいた。
「紬、まだ帰ってない?」
「……うん。今から」
「あっ、そっか。ごめん、机を並べ直すの、ちょっと手伝ってくれないかな? 明日の準備でさ」
生徒が教室の後ろを指さす。壁際に寄せられた机が何台かあった。
「……うん。いいよ」
「ありがとう! 一人だと時間かかりそうだったんだ」
紬は鞄を置いた。二人で机を運び、列を整える。最後の一台を押すと、机の脚が床を軽くこすった。
「よし、できた! 紬、助かったよ」
「……うん。お疲れさま」
「紬もね。また明日!」
「……また明日」
クラスメイトが去ったあと、紬は鞄を持った。時計の針は、帰ろうとしたときより進んでいた。
ペットショップには、まだ間に合う。
*
自動ドアが開き、店内の暖かい空気が頬に触れた。
紬は小動物のケージが並ぶ一角へ向かい、いつもの場所にしゃがみ込んだ。
「……こんにちは」
小さな動物が鼻を動かし、餌の入った器に顔を寄せる。紬はガラス越しに、その様子を眺めていた。
「……ごめんね。今日は遅くなっちゃった……」
動物は気にした様子もなく、餌をかじり続けた。
しばらくすると、閉店が近いことを知らせる放送が流れた。
「……そっか」
紬はもう一度ケージをのぞく。
「……また来るね」
店を出ると、外は夕暮れだった。
歩き出そうとしたとき。
『……うん。いいよ』
紬は振り返った。
けれど、そこには誰もいない。
「……?」
店内放送の聞き間違いだろうか。
そのとき、少し離れた場所で電子音が鳴った。
――ピッ。
白衣を羽織った男が、黒い端末を見下ろしていた。その隣には、一人の女性が立っている。
「……一条先生? 何か見つかったんですか?」
女性の問いに、男が画面を傾けた。
[SYSTEM LOG]
ERROR DETECTED
PROCESS : wrath.pcs
STATUS : 無限ループ
PATIENT : 小嶋紬
男――一条律は、顔を上げた。夕暮れの歩道に、鞄を持った少女がいる。
「……ええ。少し、お話を伺いましょうか」
紬は背後から声を掛けられ、立ち止まった。
「小嶋紬さん、ですね?」
「……はい。あの、何か……?」
「突然すみません。私は一条律。こちらは助手の夜坂めぐるです」
めぐるも軽く頭を下げる。
「こんばんは、紬ちゃん」
「……こんばんは」
紬は二人を見比べた。律は通行の邪魔にならないよう歩道の端へ寄り、言った。
「学校帰りに申し訳ありません。少し、お時間をいただけますか。もちろん、嫌なら断って構いません」
「……私に、何の話ですか?」
めぐるが、紬の視線に合わせて声を掛けた。
「知らない人に急に話しかけられたら、びっくりするよね。何か手伝ってほしくて来たわけじゃないんだ。紬ちゃんの話を聞きたくて」
紬は鞄の持ち手を握り直した。
「……長く、かかりますか?」
「分かりません」
めぐるが思わず律を見る。
「一条先生、そこはもう少し……」
「分からないものを、短いと約束するわけにもいかないでしょう」
二人のやり取りを見て、紬が少し笑った。
「……少しなら」
律は礼を言い、端末を紬にも見えるようにした。
「最近、もう帰ろうと思っていたのに、気づくと何かを引き受けている。そんなことはありませんか?」
「……ありますけど。でも、別に……大したことじゃないです」
「大したことかどうかは、君が決めていい。ただ、ここに気になる反応が出ています」
画面の『wrath.pcs』という文字を、紬は読もうとした。
「……これ、何ですか?」
「精神制御システム――PCSの記録です。心の中で身についた考え方や行動の仕組み、とでも思ってください」
律は画面を戻した。
「私には君の心が何でも分かるわけではありません。何が起きているか、君自身の経験を一緒に見て確かめたいんです」
「……見る?」
紬がめぐるを見る。
「私も前に、一条先生と一緒に見たことがあるよ。自分でも気づいてなかったことを」
紬は店の看板へ目をやった。閉店の準備をする店員が、ガラス越しに見えた。
「……今日は、もう帰るつもりだったんですけど」
「それなら、今日はここまでにしますか?」
律は端末を下げた。
紬はすぐには答えなかった。今日の学校で、机を並べたことを思い出す。
「……ちょっとだけ、気になります」
「では、君がやめたいと思ったら、そこで言ってください」
律が尋ねる。
「今日は本当は、学校を出たらどこへ行く予定だったんですか?」
「……ここです。ペットショップ」
紬は小さくうなずいた。
端末に光が走る。
[SYSTEM LOG]
PROCESS : wrath.pcs
PATIENT : 小嶋紬
STATUS : 同期中
「……何か、起きるんですか?」
「少し、景色が変わります」
紬の返事を待ってから、律は画面に触れた。
[SYSTEM LOG]
PROCESS : wrath.pcs
STATUS : 接続確立
「では――行きましょうか」
パチン――。
指が鳴る。横断歩道を渡る人々も、交差点の車も、動きを止めた。アスファルトの色が薄れ、電柱や看板が透明な破片になって剥がれていく。
「……え?」
めぐるが紬のそばへ寄った。
「私たちも一緒だから」
最後に夕暮れの空が、薄いガラスのように砕けた。
――チン。
最初に聞いた、あの澄んだ音がした。
ガラスの街だ。透明な歩道の向こうに、制服姿の少女がいる。教室の机に向かって、プリントを一枚ずつ数えていた。
紬はもう一人の自分へ近づいた。
「……あのときの、私」
扉が開く。
『紬、ちょっといい?』
『……うん。いいよ』
少女は鞄を置き、紙を数え始める。
――チン。
また鞄を持つ。また、扉が開く。
『紬、ちょっといい?』
『……うん。いいよ』
さっきと同じ姿勢で、少女が椅子に座った。
めぐるが足を止める。
「……今、繰り返した?」
「ええ。ただし、実際に同じ日が二度あったわけではありません」
律は、通りの両側に並ぶ建物を示した。片方には昼休みの教室が映り、紬が本を閉じてノートを渡している。もう片方では、二人の少女が机を運んでいた。いずれも、ついさっきまでは別の日の出来事だった。
透明な建物が、音もなく重なる。
プリントの束と、閉じかけた文庫本と、動かしかけた机。それらが一つの教室に積み上がり、もう一人の紬の周りを囲んでいく。
『紬、お願いしてもいい?』
『……うん。いいよ』
紬は、自分の鞄が床へ戻されるのを見た。
「……もう、終わったのに」
少女がプリントを数え終える。鞄を持つ。扉が開く。
『紬、ちょっといい?』
「……また?」
紬は思わずガラスに手をついた。
――ピシッ。
指の下に細いひびが走った。紬は慌てて手を離した。
「……ごめんなさい」
「紬ちゃん、まだ何も壊してないよ」
めぐるが言う。だが紬は、自分が触れた場所を見つめていた。
教室の少女が、もう一度答える。
『……うん。いいよ』
――ピシッ。
今度は三人から離れた建物にも、亀裂が走った。誰の手も触れていない。
めぐるが透明な歩道をのぞき込む。
「一条先生。あの下……」
ガラスが幾重にも重なった、さらに下。黒ずんだ奥底で、赤いものがゆっくり動いていた。
紬の目は、そこに吸い寄せられる。
「……何、あれ」
律は端末をかざした。赤い光に沿って細い線が走ったかと思うと、画面が一瞬だけ乱れる。白衣の袖口からのぞく右手にも、ごく小さなノイズが走った。
「……一条先生?」
めぐるが顔を上げる。律は端末の表示を戻した。
「今は、こちらを見ましょう」
紬は二人の様子に気づかず、教室の中の自分へ視線を戻していた。
「……あの子、いつ帰れるんですか」
律が尋ねる。
「君なら、何と言ってあげたいですか?」
「……もう、帰っていいよって」
紬は、小さな声で続けた。
「……やること、終わったから」
少女が鞄を持ち上げる。
『紬、ちょっといい?』
『……うん。いいよ』
その返事を聞いた瞬間、紬は目を伏せた。
「……私、自分で、いいよって言ってるんですよね」
「ええ」
「……じゃあ、誰にも文句、言えないです」
律は、すぐには答えなかった。
「小嶋さん。あの日、ペットショップに寄りたかったことは、覚えていますね?」
「……はい」
「机を並べるとき、それを忘れたんですか?」
紬は首を横に振った。
「……覚えてました。でも、そんなの……私の都合だから」
ガラスの向こうで、ペットショップの自動ドアが開く。ケージの前へしゃがみ込む、もう一人の紬が見えた。
『……ごめんね。今日は遅くなっちゃった……』
その先も少女の唇は動いている。しかし、何を話しているのかは聞こえない。餌をかじる音だけが、やけにはっきり響いた。
律が画面を操作する。声は戻らなかった。
「……何を話したか、覚えていますか?」
「……学校のこと、です」
「どんなことを?」
「……普通の、つまらないこと」
紬はケージの前の自分から目をそらした。
律はそれ以上聞かず、再び教室へ向き直った。
「君はあの子たちのことが嫌いですか?」
「……いいえ。みんな、ちゃんとお礼も言ってくれるし」
「そうですね。私たちもそれを見ました」
紬はほっとしたようにうなずく。
「……じゃあ、どうして、こんなことになってるんですか?」
言い終わると、紬自身が驚いた顔をした。
律は答える代わりに、教室の少女を指さす。
「君はあの子に『もう帰っていい』と言った。でも、あの子はまた引き受ける。そのたびに、あの下の赤い光が強くなっている」
紬は足元を見た。
赤いものは、ゆっくりと流れていた。ひびの下を通り過ぎ、別の建物の底へ消えていく。濁ったガラス越しでも、その光が絶えず動いていることだけは分かった。
「……私、怒ってるんですか?」
口にした途端、紬が首を振る。
「……違う。別に、怒るようなことじゃ……」
ペットショップの建物から、かすかな声が漏れた。
『……今日くらい、自分でやってくれればよかったのに』
紬が、はっと息をのむ。
『……私だって、早く帰りたかったのに』
「……そんなこと、言ってない……」
もう一人の自分は、ケージの前で膝を抱えていた。声はすぐに途切れ、再び唇の動きだけが残った。
紬は、目を合わせないままつぶやく。
「……だって、あの子が悪いわけじゃないし」
「誰が悪いかを、私はまだ聞いていませんよ」
律の声は穏やかだった。
「君が何を感じたかを聞いています」
紬は答えなかった。ガラスの奥で、あの教室の扉がまた開く。
『紬、ちょっといい?』
少女は、いつもの小さな笑みを浮かべた。
『……うん。いいよ』
――ピシッ。
赤い光が、ひびの奥でひときわ強くなった。
「……私が、いいよって言ったんだから」
紬の声が震えた。
「……あとから嫌だったとか、思っちゃだめなんです」
めぐるは、彼女の横にしゃがんだ。
「そう思うようになったのには、何かあったのかな」
紬は長く黙っていた。やがて、透明な歩道の向こうに、小さな人影が浮かび上がる。
ランドセルを背負った少女がいる。その前にもう一人、誰かが立っている。顔は曇って見えず、声も聞こえない。
「……小学生のとき、友達に怒っちゃったことが、あって」
紬は人影を見つめた。
「……何で怒ったのか、覚えてないです。何を言ったかも……」
二つの人影が離れていった。小さな紬だけが、広い教室のような空間に残る。
「……そのあと、気まずくなって。ほかに一緒にいる子も、あんまりいなかったから……一人になっちゃって」
紬は鞄の持ち手を握るように、両手を重ねた。
「……ああいうの、もう嫌なんです。だから、怒らなければ大丈夫だって」
律が聞いた。
「それからは、腹が立たなくなりましたか?」
紬は、小さくうなずきかけた。
『……なんで、私ばっかり……』
ペットショップの奥から聞こえた声に、紬は顔をこわばらせる。
律は少女を見た。
「怒らなくなったのではなく、怒っていることを誰にも見せないようにした。自分にも、ですか」
紬は答えられなかった。
ガラスの下で赤い光が渦を巻く。繰り返される教室の扉の音が、次第に重くなる。
律の端末に、記録が現れた。
' --- ERROR LOG: system.wrath.pcs ---
' INFINITE_LOOP_DETECTED
Do
Call [頼みごとを引き受ける]
Call [自分の予定を後回しにする]
Call [怒りが生まれる]
Call [怒った自分を否定する]
Call [嫌われないために次も引き受ける]
Loop
めぐるは画面を見つめた。
「手伝ってること自体が、バグなんですか?」
「いいえ。手伝うと決めること自体は、本人の選択です」
律は、繰り返される四行目を示す。
「問題は、君が感じた怒りを、君自身が許せないことのようですね」
ガラスの向こうで、ペットショップの少女がつぶやく。
『……私が悪い。私が、いいよって言ったんだから』
紬は両手で耳を塞いだ。
「……聞きたくない……」
めぐるは立ち上がり、紬の前へ回った。
「今は聞かなくてもいいよ」
紬の指が、耳に当てられたまま止まる。
「……でも、そうしたら、また……」
めぐるは、ケージの前の少女に目を向けた。
「紬ちゃんが決めよう。続きを聞くのか、ここでやめるのか」
紬はしばらく動かなかった。
少しして、耳を塞いでいた手を下ろした。
「……聞きます」
声は、かすれていた。
「……あの子、私なので」
律が端末を下げる。三人はペットショップの建物へ向かった。
近づくにつれ、建物のガラスが白く曇った。ケージの前の少女は、自分の膝を見つめている。
『……今日も、手伝ってきたんだ』
その声は、今度こそはっきり聞こえた。
『……机並べるだけだったんだけどさ。あの子、ちゃんと「ありがとう」って言ってくれたんだよ』
少女は顔を上げ、小さな動物を見た。
『……悪い子じゃないの、分かってる』
餌をかじる音がする。
『……でも、私が帰るところ、見えてたじゃん』
紬の肩がわずかに動いた。
『……なんで、そのタイミングで頼むかな。まだ教室にほかの子もいたじゃん』
少女は、ケージのガラスに映る自分の顔を見た。
『……私に頼めば断らないって、思ってるんでしょ』
――ピシッ。
ペットショップの壁に、細いひびが走る。
「……違う……」
紬が首を振った。
「……あの子が、そんなこと考えてるかなんて、分かんないのに……」
律はガラスに目を向けたまま言った。
「ええ。これは相手の本心ではなく、君がそう考えた、という記録です」
紬は唇をかみ、もう一人の自分の声を聞いた。
『……あーあ。頼みやすいって、何なんだろ。私、便利な人なの?』
ケージの小さな動物は、何も知らずに餌を食べ続けている。
『……私だって、面倒くさいんだけど』
紬が目を見開いた。
『……プリント分けるのも、机動かすのも、別に好きじゃないし』
少女の声が少し大きくなる。
『……ノートだって、自分でちゃんと取ればいいじゃん。私だって本読んでたのに、なんで私が手を止めなきゃいけないの』
昼休みの教室が、隣のガラスに映った。
ノートを借りた生徒は、約束どおり返しに来た。笑って礼を言い、友人たちのもとへ戻っていった。その普通の光景が、紬にはかえって苦しかった。
「……もう、やだ……」
紬は顔を覆った。
「……あの子たち、私に意地悪なんかしてないのに……」
もう一人の紬の声は続いた。
『……私ばっかり、いいよって言わなきゃいけないの?』
ガラスに映る少女は、困ったように笑った。
『……言わなきゃいけないわけじゃ、ないのにね』
その笑みが、教室で頼みごとを引き受けたときの表情と重なった。
『……なんで、私、また言っちゃうんだろ』
少女は膝を抱えた。
『……なんで、あの子にまで腹立ててるんだろ。あの子、ありがとうって言ってくれたのに』
紬はゆっくり顔を上げた。
そこには、誰かを責める言葉だけでなく、それを口にした自分へ向ける言葉もあった。
『……こんなの、誰にも言えないよ』
少女がケージのガラスを見つめる。
『……あの子たちのこと、嫌いじゃないのに』
紬の目から、涙が落ちた。
「……嫌いじゃ、ないです」
めぐるが隣に立つ。
「うん」
「……助けたいときだって、あるんです。ほんとに……」
紬は言葉を切り、深く息を吸った。
「……でも、今日は、放っといてほしかった」
その言葉と同時に、少女の肩がわずかに下がった。
律は端末を閉じた。
「君は、手伝ったことをなかったことにしたいですか?」
「……そこまでは、思ってません」
「では、あの子たちを嫌いになった?」
「……違います」
紬は涙を拭った。
「……でも、腹が立ったんです」
しばらく、その言葉のあとが続かなかった。
「……私、腹、立ててたんだ……」
――ゴゴゴ……。
足元の奥で、何かが低くうなった。
透明だった歩道の下に、太い赤い流れが姿を現す。幾重ものガラスの底を、真っ赤なマグマが流れていた。ひびから光が漏れ、教室の壁に赤い線を描く。
紬は、動けずにそれを見つめた。
「……あんなに、いっぱい……」
律は彼女の横に立った。
「一度の怒りが、あの量になったわけではないのでしょうね」
ガラスの下では、マグマが絶えず流れていた。プリントを数えた日も、ノートを渡した日も、机を並べた日も。それぞれの出来事で飲み込んだものが、そこへ流れ込んでいるようだった。
紬はペットショップの少女を見た。
「……ごめんね」
もう一人の自分に向けた言葉だった。
「……ずっと、嫌だったんだね」
少女が顔を上げる。
「……私、そういうこと、考えちゃう自分が嫌で……」
言いかけて、紬は首を振った。
「……今も、ちょっと嫌だなって思う。でも、考えたことは、本当だから……」
少女は、やがてケージの前から立ち上がった。
――チン。
ガラスの街に澄んだ音が鳴る。教室で繰り返されていた紙を数える音が、ふっと途切れた。
めぐるが顔を上げた。
「……止まった?」
その直後、教室の扉がまた開いた。
『紬、ちょっといい?』
少女が振り向く。
『……うん。いいよ』
鞄は、また床へ戻された。
「……あっ」
紬が、一歩踏み出す。
律は端末を開いたまま、黙っていた。
紬は、自分の足元を見た。
「……気づいたのに、戻っちゃった……」
その声に、律が答える。
「気づくことと、そのあと何を選ぶかは、別ですから」
紬は、もう一人の自分の背中を見つめた。
「……どうすれば、あの子、帰れるんだろ……」
律は答えず、紬が教室へ向かうのを待った。
ガラスの中では、少女がプリントをそろえながら、ときどき扉のほうを見ていた。
「……あの子は、帰りたいんです」
紬が言った。
「……でも、嫌われたくもない」
めぐるがうなずく。
「うん。どっちもあるんだね」
「……それで、帰りたいって言ったら、相手が困るかもしれなくて……」
紬は、教室の少女が動かす紙の束を見た。
「……やっぱり、いいよって言ったほうが、楽なんです。その場では」
律は、静かに尋ねた。
「その場では?」
「……帰ってから、面倒だったなって思って……また、そんな自分が嫌になって……」
紬は、もう一度マグマを見る。
「……ああ、そっか」
口元を押さえた。
「……怒っちゃだめだと思ってるから、次も、何もなかったみたいに……」
律はうなずいた。
「君の返事を変える前に、君が感じたことを、君自身がどう扱うか。そこを考えてみましょう」
紬は教室の少女へ向き直った。
「……私、今日は、帰りたい」
その声を聞いて、もう一人の紬が鞄を持った。さっきまで同じ動きを繰り返していた手が、プリントから離れる。
「……あのとき、こんなことは……」
「ええ。ここからは過去の再生ではありません。今の君が、別の返事をしたらどうなるかを、この教室で試しているんです」
律は、扉の前のクラスメイトへ目を向けた。
「相手の返事も、君の中にある予想です。実際にそう答えるかは、まだ分かりません」
紬はうなずき、鞄を持った少女を見た。
『……ごめん。今日は帰りたいんだ』
クラスメイトは少し驚いた顔をしたが、うなずいた。
『あ、そっか。急にごめんね。ほかの子にも聞いてみるよ』
少女は鞄を抱え直した。
めぐるが、ほっと息を吐く。
「……言えたね」
だが、少女は廊下に出たところで足を止めた。
『……嫌な顔、しなかったかな』
手が、教室の扉へ伸びる。
『……せっかく頼んでくれたのに。やっぱり手伝ったほうが……』
少女が戻ろうとすると、扉が透明になった。
――チン。
景色が巻き戻る。開いたばかりの扉に、クラスメイトが立っていた。
『紬、ちょっといい?』
「……今、帰れたのに……」
紬はその場で立ち尽くした。
断る言葉を覚えても、断った自分を許せなければ、少女は同じところへ戻ってしまう。
紬は、ガラスに映る自分の顔を見た。
学校で見せていた小さな笑みと、ケージの前で眉を寄せていた顔。その二つが重なったまま、消えなかった。
「……小嶋さん」
律の声がした。
「今、断ったあとのことを考えて、何が一番怖かったですか?」
紬は唇を結んだ。
「……嫌われること、です。次の日から、話しかけてもらえなくなったら……」
子どもの頃の、離れていく人影を思い出したのだろう。紬の目が、教室の端へ向く。
「……じゃあ、やっぱり、手伝うしか……」
言いかけて、紬は口を閉じた。
めぐるは隣で待っている。律も、彼女の答えを急かさなかった。
「……でも……」
紬は、ゆっくり言葉を探した。
「……このままずっと、いいよって言ってたら……私、また、あの子たちに腹が立つと思います」
透明な教室の中で、もう一人の紬が顔を上げる。
「……そのあと、そんな自分のことが嫌になって……また、いいよって……」
紬は自分の手を見つめた。
「……嫌われたくなくてやってるのに、私の中では、どんどん嫌な気持ちが増えてる」
めぐるが静かにうなずいた。
律は端末を紬へ向けた。画面には、同じ処理がまだ繰り返されている。
「君が怒ったこと自体を、なかったことにする必要はありますか?」
紬はペットショップを振り返る。ケージの前で、もう一人の自分が黙って座っていた。
「……ありません」
答えたあと、紬は少しだけ不安そうになった。
「……でも、あの子が悪いって決まったわけでも、ないですよね」
「ええ。そう考えたのは君ですが、それが相手の考えと同じとは限りません」
律は教室を指した。
「相手がどう思っているか、今は分からない。君が腹を立てたことは、確かにあった。両方を、そのままにしておけますか?」
紬は赤い光を見た。
ガラスの下でマグマが流れている。ひびは残り、熱も消えていない。以前なら、あの光を見つけた時点で、誰かに謝りたくなっていたかもしれない。
「……うん」
紬は、自分に聞かせるようにうなずいた。
「……今日は、面倒だなって思った。それも、本当」
教室の中の少女が、紙の束から手を離す。
「……でも、友達のことは、嫌いじゃない。それも、本当」
少女が、鞄を持ち上げた。
「……断ったら、嫌われるかもしれない。怖いのも、まだ……」
紬は一度、息を吸った。
「……それでも、今日は帰りたいです」
教室の扉が開く。
『紬、ちょっといい?』
少女は振り向いた。いつものように口元を緩めかけて、言葉を止める。
『……ごめんね。今日は、寄りたいところがあるんだ』
扉の向こうのクラスメイトは、何か返事をしたようだった。けれどその言葉は、ガラスに吸い込まれて聞こえない。
紬は少女と一緒に、その顔を見た。
「……何て、思われたんだろう」
胸の奥が、またざわつく。
「……嫌だったかな……」
めぐるが、紬の手にそっと触れた。
「まだ分からないね」
「……はい」
律も、うなずいた。
「『嫌われていない』と、私が保証することはできません。明日、話してみなければ分からないこともあるでしょう」
紬は少女のほうを見た。
扉の前で、もう一人の自分が立ち止まっている。
『……戻ったほうが、いいかな』
紬の足も止まった。
教室の外へ出ようとした少女は、鞄を抱え直している。今なら、引き返せる。さっきと同じように「やっぱり手伝う」と言えば、少なくとも今この瞬間は安心できるかもしれない。
紬は少女へ向かって、小さく声を掛けた。
「……怖いよね」
少女が顔を上げた。
「……私も、怖い。でも……」
ガラスの下のマグマを見つめる。
「……また、腹が立つかもしれない。帰ってから、後悔もすると思う。だからって……そのたびに、私の気持ちがなかったことになるのは、嫌だ」
紬は、扉の向こうへ一歩踏み出した。
「……今日は、帰ろう」
もう一人の紬も、ゆっくり歩き出す。
教室の扉が閉まった。
――チン。
いつもの音がした。だが、扉は元の位置へ戻らない。
めぐるが、長く息を吐いた。
「……進めたね」
「……はい」
紬はまだ、少し不安そうだった。けれど教室に戻ろうとはしなかった。
律の端末で、繰り返されていた文字が止まった。
' --- ERROR LOG: system.wrath.pcs ---
Do
Call [頼みごとを引き受ける]
Call [自分の予定を後回しにする]
Call [怒りが生まれる]
Select Case [怒りを認めたあと、何を選ぶか]
Case [怒った自分を否定する]
Call [次も自分の気持ちを無視する]
Case [怒りは認めても、不安を消すために引き受け直す]
Call [次も自分の気持ちを無視する]
Case [怒っている自分を認める]
Exit Do
End Select
Loop
紬は、最後の行をじっと見つめた。
「……これ……」
「選ぶのは、君です」
律は端末を差し出したが、自分では画面に触れなかった。
「怒りを消すための選択ではありません。その怒りを認めたまま、次にどうするかを自分で考えるための選択です」
紬は、画面から目を離し、二人を見た。
「……手伝いたい日も、あると思います」
「ええ」
「……今日は、無理だなって日も」
めぐるが笑った。
「うん」
紬は指を伸ばした。
「……私、これを選びます」
小さな指先が、選択肢に触れる。
[PCS SYSTEM]
Exit Do
[SYSTEM LOG]
PROCESS : wrath.pcs
UNLOOP_SUCCESS: wrath.pcs
――チン。
教室の窓が開いた。夕方の風が、机の上のプリントを一枚だけ揺らす。もう一人の紬は校庭を見つめてから振り返り、ガラスの向こうへ溶けるように消えていった。
教室も、ペットショップも、少しずつ輪郭を失う。
ただ、足元を流れるマグマだけは、消えなかった。
「……あれは、残るんですね」
紬がつぶやく。
「ええ。これから先も、腹が立つことはあるでしょうから」
「……また、嫌なこと、思っちゃうかもしれないです」
「思ったことをすべて相手にぶつける必要はありません。ですが、思ったという事実まで、君自身が責め続ける必要もない」
紬は、赤い流れをもう一度見下ろした。
「……難しそうです」
「ええ。今日から何もかも上手にできる、という話ではありませんから」
めぐるが苦笑する。
「一条先生、そこはもう少し励ましてあげてもいいんじゃないですか?」
「簡単だと言って、明日困るのは小嶋さんですよ」
紬は二人を見て、少し笑った。
「……たぶん、明日も、怖いと思います」
律は端末の接続を解除した。
「そのときは、そのときの君が考えればいい」
紬は、小さくうなずいた。
ガラスの街が、夕暮れの光へほどけていった。
*
車の走る音が、戻ってきた。
紬が目を開ける。目の前にはペットショップの看板があり、信号待ちの人たちが横断歩道を渡っている。
「……戻った?」
「ええ。お帰りなさい」
律は黒い端末をしまった。めぐるが紬の顔をのぞき込む。
「気分はどう?」
「……ちょっと、変な感じです」
「そっか」
店内では、店員が閉店の準備をしていた。小動物のケージも、さっきと同じ場所に並んでいる。
紬は窓の向こうを見つめた。
「……また、会いに来ます」
小さく笑う。
「……今度は、もうちょっと早く」
それから二人に向き直り、頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「こちらこそ。話してくれてありがとう、紬ちゃん」
紬は歩き出しかけて、振り返った。
「……私、次も、すぐには断れないかもしれません」
律はうなずいた。
「手伝いたいと思ったなら、手伝っていいんですよ。ただ、君自身はどうしたいかも、聞いてあげてください」
「……はい」
めぐるは診療所の名前と住所、連絡先が印刷されたカードを差し出した。
「また話したくなったら、ここに連絡してね」
「……ありがとうございます」
紬はカードを確かめ、鞄の内ポケットへしまった。
紬が交差点を渡っていく。めぐるは、その背中が人波に紛れるまで見送った。
「……一条先生」
めぐるが声を掛けた。
律は端末を取り出していた。画面には、紬の記録が残っている。
[SYSTEM LOG]
PATIENT : 小嶋紬
PROCESS : wrath.pcs
UNLOOP_SUCCESS: wrath.pcs
律が記録を閉じようとしたとき、右手の輪郭が、ふっと揺らいだ。
――ザザッ。
指先から黒い粒子がこぼれ、白衣の袖口に触れる前に消える。
「……先生!」
めぐるが腕に手を伸ばす。律は、彼女にも見えるよう端末を傾けた。
[SYSTEM LOG]
DEBUGGER STATUS : 破損
MEMORY INTEGRITY : 低下
「……また、出てるじゃないですか」
めぐるの声が硬くなる。
「紬ちゃんのところでも、何回か止まりかけてましたよね」
「よく見ていますね」
「茶化さないでください」
律は口を閉じた。
めぐるは、さっきまで紬がいた歩道を見た。
「紬ちゃんには、自分の気持ちを無視しないでって言ったじゃないですか。先生は、自分の異常をどう思ってるんですか?」
律の指が、端末の縁で止まった。
「……放っておいていい状態では、ないでしょうね」
「だったら、今日はもう帰りましょう。調べるのは、それからにしてください」
少しの間、車の音だけが二人の間を通り過ぎた。
「……そうですね」
めぐるが驚いた顔をする。
「……もっと反論されると思いました」
「君は、私が何と言っても帰らせるつもりでしょう」
「……はい」
「それでは、議論になりませんね」
律は端末をしまって歩き出した。めぐるは隣に並ぶ。
「明日は、新しい患者さんのところへ行ったりしないですよね?」
「今のところ、予定はありません」
「……『今のところ』が、気になるんですけど」
律は答えず、交差点の信号を見上げた。
めぐるには、その沈黙がいつもより少し長く感じられた。
*
翌日の放課後。
紬は、教科書を鞄にしまった。
今日はペットショップへ寄ろうと思っている。昨日は、あまり長くいられなかった。いつものケージの前で、もう少しだけ過ごしたかった。
「紬、ちょっといい?」
クラスメイトが、プリントの束を抱えて立っていた。
「これ、人数分に分けるの、手伝ってもらえないかな? 急にごめん」
紬は相手の顔を見た。
いつもなら、ここで「いいよ」と言っていた。今日も、その言葉が喉まで出かかる。
けれど紬は、鞄の持ち手を握ったまま、少しだけ考えた。
帰りたい。
ペットショップへ行きたい。
それから――正直、今はプリントを分けるのが面倒くさい。
最後の言葉が浮かんだ瞬間、紬は思わず目を伏せた。
昨日のガラスの街がよぎる。地下のマグマは、あのまま流れているのだろうか。
「……えっと」
「ん?」
クラスメイトが首を傾げる。
「……ごめんね。今日は、寄りたいところがあって。だから、今日は手伝えない」
「あ、そっか。分かった! ほかの子にも聞いてみるね」
「……うん。ごめんね」
「大丈夫。じゃあ、また明日!」
「……また明日」
生徒が教室を出ていった。
紬は、しばらくその背中を見送った。
嫌な気持ちにさせたかもしれない。明日、気まずくなるかもしれない。今から追いかけて「やっぱり手伝う」と言えば、安心できるだろうか。
鞄の持ち手を握り直す。
「……今日は、帰ろう」
小さく言って、廊下へ出た。
階段を下りる途中でも、心配は消えなかった。それでも、足は止まらない。
校門を抜ける。夕方の風が頬に触れた。
紬は、少しだけ歩幅を速めた。
*
デバッグの翌日の夜。
明かりを落とした部屋で、律は一人、机に向かっていた。
黒い端末の画面には、紬の記録がある。
[SYSTEM LOG]
PATIENT : 小嶋紬
PROCESS : wrath.pcs
UNLOOP_SUCCESS: wrath.pcs
律は、その記録を閉じた。
紬は自分で選んだ。それは変わらない。
問題は、自分の右手に起きた異常だった。
端末に触れる。指先の輪郭が、わずかに揺らいだ。痛みはない。今のところ、動かしにくさも感じない。
だが、別の記録を開いた瞬間、画面が暗転した。
閉じたはずの警告が、勝手に表示される。
[SYSTEM LOG]
DEBUGGER STATUS : 破損
MEMORY INTEGRITY : 低下
律の指が止まった。警告を閉じても、右手の揺らぎは収まらない。
かつて、端末の前で一人、限界までログを追っていた背中が脳裏をよぎった。
「……先生……」
誰もいない部屋に、その声だけが落ちる。
異常の原因は、まだ分からない。あの頃の記録に、今の自分が見落としているものはないだろうか。
律は机の引き出しを開けた。
そこには、古い記録が一冊しまわれていた。取り出した表紙に、名前が記されている。
神楽坂鏡花。
律は、しばらくその文字を見つめていた。
『これからどう生きるかも――お前自身が決めろ』
かつて聞いた声が、記憶の奥からよみがえる。
端末が、机の上で一度だけ震えた。
――ザザッ。
律は古い記録の表紙をめくった。紙の匂いに重なって、記憶の中の病院の廊下が、静かによみがえった。




