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第5話 暴食(gluttony.pcs)

午前七時三十二分。


枕元でスマートフォンが震えた。


佐々木結衣は、目を開けるより先に手を伸ばした。


画面を点ける。


通知。


《LIKE ×3》


「……ん」


寝ぼけた顔のまま、ほんの少しだけ口元が緩む。


昨日の夜に投稿した写真だった。


淡いブルーのウィッグ。


白いブラウス。


胸元には、自分で少しだけ手を加えた銀色の飾り。


次のイベントで出す予定のコスプレ衣装を、試しに合わせて撮ったものだ。


三件。


結衣は画面を下へ引っ張った。


更新。


何も増えない。


もう一度。


更新。


変わらない。


「……まあ、朝だし」


スマートフォンを伏せる。


ベッドから起き上がり、洗面台へ向かった。


鏡の前で髪をまとめる。


薄くファンデーションを塗り、目元を整える。


鏡を覗き込みながら、少し首を傾げた。


悪くはない。


別に、嫌いな顔でもない。


ただ――。


「……なんか足りない」


何が足りないのかは、自分でも分からなかった。


リップを一本手に取り、塗る。


少し考えて、別の色に変えた。


その方が今日の服には合う気がした。


「こっちかな」


それだけは、すぐに決められた。



九時前。


専門学校へ向かう途中、結衣は駅前のショーウィンドウで足を止めた。


春物の淡いクリーム色のトップス。


袖口が少しだけ膨らんでいて、胸元には細いリボンがついている。


「かわいい……」


思わず声が漏れた。


こういう服、好きだな。


値札を見る。


少し高い。


買えなくはない。


でも、今月はコスプレ用のカラコンも買いたい。


結衣はしばらく眺めたあと、スマートフォンを取り出した。


写真を一枚。


《これ着てみたい♡》


投稿。


数十秒後。


《LIKE ×4》


一分。


《LIKE ×9》


「早っ」


もう一度見る。


《LIKE ×17》


コメントまでついた。


《絶対似合う!》


《結衣ちゃんこういうの似合いそう》


《着たところ見たい》


結衣はもう一度、ショーウィンドウの服を見た。


さっきまで少し高いと思っていた値札が、急に気にならなくなる。


「……帰り、まだあったら見てみよ」


小さく呟いて、学校へ向かった。



結衣が通っているのは、ブライダル系の専門学校だった。


その日の午前は、模擬挙式のコーディネート実習。


四人一組で、架空の新郎新婦に合わせた式場装飾を考える。


机の上には、造花、クロス、リボン、キャンドル、カタログ。


友人の沙耶が、白いバラを束ねながら言った。


「やっぱ結婚式って白じゃない? 白で統一した方が綺麗かな」


「うーん」


結衣は資料を見る。


今回設定されている新婦のプロフィール。


二十三歳。


好きな季節は春。


好きな色は黄色。


趣味は旅行。


結衣は白い花束の横に置かれていた、小さな黄色の花を一本取った。


「これ、ちょっと入れない?」


「黄色?」


「うん。全部白だと綺麗だけど……この人、黄色好きって書いてあるし」


白い花の隙間に、黄色を差し込む。


少し離れて見る。


もう一本。


「このくらい」


沙耶が首を傾げる。


「……あ、いい」


隣にいた真帆も覗き込んだ。


「ほんとだ。なんか急にその人の結婚式っぽくなった」


「でしょ?」


結衣は笑った。


「いや、結衣こういうの上手いよね」


「え?」


「なんかさ、ちょっと変えるだけでいい感じにするやつ」


「そう?」


「そうだよ」


結衣はもう一度花束を見る。


白の中に、黄色。


確かにその方がいいと思った。


でも、それだけだった。


「別に……プロフィール見たら普通に思いつかない?」


「その普通が出てこないんだけど」


「そうかなあ」


結衣は笑って、次の作業へ移った。



休憩時間。


沙耶がスマートフォンの通販画面を見せてきた。


「ねえ結衣、今度これ着ようと思うんだけど、どっちがいい?」


黒とベージュのワンピース。


結衣は一秒だけ見る。


「沙耶ならベージュ」


「即答じゃん」


「黒も似合うけど、沙耶肌明るいからこっちの方が絶対かわいい。あとピアス、前つけてたゴールドのやつ」


「あー、あれ?」


「うん。髪も下ろすよりまとめた方がいいと思う」


沙耶が笑った。


「もう全部決めてもらお」


「やめてよ」


「結衣に聞くと楽なんだもん」


その言葉に、結衣も笑った。


何も特別なことをした感覚はなかった。


似合うと思ったから、そう言っただけ。


ただそれだけだった。



昼休み。


三人で学校近くのカフェへ入った。


運ばれてきたのは、苺とクリームを何層にも重ねた春限定のパフェ。


「待って待って、まだ食べないで」


結衣がスマートフォンを構える。


「出た、結衣カメラマン」


「ちょっとだけ」


パフェを窓際へ寄せる。


正面から一枚。


少し上から一枚。


「真帆、そのスプーン持って」


「こう?」


「もうちょい右」


「細かっ」


「はい、そのまま」


シャッター。


結衣は写真を確認した。


「あ、これいい」


本当に、そう思った。


光が柔らかく入っている。


苺の赤も綺麗に出た。


「送って」


「あとで送る」


結衣はそのまま写真を投稿した。


《春限定いちごパフェ♡》


スマートフォンを置く。


「いただきます」


一口。


苺の酸味。


そのあとから、クリームの甘さ。


「……あ、これ好きかも」


「でしょ? ここ美味しいよね」


沙耶が笑う。


結衣も頷いた。


その瞬間。


スマートフォンが光った。


視線が落ちる。


《LIKE ×8》


指が止まった。


八。


昨日のランチ写真は、同じくらいの時間で十五だった。


結衣はもう一度画面を更新した。


変わらない。


「結衣?」


「ん?」


「どうしたの?」


「なんでもない」


スマートフォンを伏せる。


もう一口食べる。


さっきまで分かっていた苺の酸味が、少し遠くなった。



「見てー」


真帆が嬉しそうにスマートフォンを見せてきた。


さっき結衣が撮った写真。


真帆が自分のアカウントに載せていた。


《LIKE ×21》


「めっちゃ伸びてる」


「ほんとだ。よかったじゃん」


結衣は笑った。


それは嘘ではなかった。


真帆が嬉しそうなら、自分も嬉しい。


写真を撮ったのも結衣だ。


綺麗に撮れたと思っている。


なのに。


自分の画面を見る。


《LIKE ×11》


胸の奥に、小さなものが引っかかった。


――私の写真だって、かわいく撮れたのに。


そう思った直後、結衣は自分でその考えを押し込めた。


何考えてるんだろ。


真帆は友達なのに。


「結衣の写真のおかげだわ」


真帆が言った。


「そんなことないって」


結衣は笑う。


「誰が撮っても一緒だよ」


口にしてから、パフェを一口食べた。


今度は、ほとんど味が分からなかった。



放課後。


駅前を通る。


朝見た店。


あのクリーム色の服は、まだあった。


結衣は店内へ入り、鏡の前で服を身体に合わせてみる。


「……かわいい」


やっぱり好きだと思った。


店員が声をかける。


「お似合いですよ」


「あ、ありがとうございます」


鏡を見る。


その瞬間、スマートフォンが震えた。


朝の投稿。


《LIKE ×24》


結衣の指が止まる。


二十四。


コメントも増えている。


《絶対買うべき》


《着てる写真見たい》


《似合いそう!》


結衣はもう一度鏡を見る。


さっきまで、


自分がかわいいと思っていた服。


なのに今は、


みんながかわいいと言ってくれた服に見えた。


「……これ、ください」



帰宅後。


机の上には、今日買った服。


未開封のコスメ。


次のコスプレで使うウィッグ。


アクセサリー。


写真用の小物。


結衣は椅子に座り、スマートフォンを眺めていた。


過去の投稿。


五十六。


四十八。


四十二。


三十一。


二十四。


数字が、少しずつ下がっている。


「……なんで?」


指が画面を下へ滑る。


少し前のコスプレ写真。


《LIKE ×183》


その前。


《LIKE ×246》


有名なキャラクターをやった時の写真。


《LIKE ×391》


結衣の指が止まった。


三百九十一。


その時は嬉しかった。


本当に嬉しかった。


衣装も好きだった。


キャラクターも好きだった。


メイクも何度も練習した。


自分なりに頑張った写真だった。


だから反応が増えていくのを見て、


――見つけてもらえた。


そう思った。


でも今。


今日の自分は二十四。


結衣は無意識に、鏡を見た。


そこには、


制服でも。


衣装でも。


加工された写真でもない。


部屋着姿の佐々木結衣がいた。


「……」


何も浮かばない。


かわいい。


かわいくない。


好き。


嫌い。


どれでもない。


結衣は鏡から目を逸らした。


再び画面を見る。


《最近投稿少なくない?》


《昔のコスプレの方が好き》


《最近ちょっと普通》


《もっと映えるの見たい》


胸の奥がざわつく。


もっと。


結衣は写真フォルダを開いた。


今日のパフェ。


買ったばかりの服。


学校で作った花束。


沙耶。


真帆。


自分の顔。


何かないか。


何か。


見てもらえるもの。


「……もっと」


指が動く。


写真を選ぶ。


加工する。


明るさを上げる。


肌を整える。


輪郭を少しだけ細くする。


目をほんの少し大きくする。


投稿。


更新。


更新。


更新。


数字が一つ増える。


胸のざわつきが、少しだけ消える。


結衣は息を吐いた。


それから、もう一度画面を下へ引っ張った。


更新。


「……もっと見てもらわなきゃ」


誰に言うでもなく呟いた。


机の上には、


今日、自分でかわいいと思った服が置いてある。


その隣には、


自分が似合うと思って選んだ小物がある。


学校では、


誰かの魅力を見つけることができた。


誰かに似合う色も分かった。


誰かの写真を綺麗に撮ることもできた。


けれど。


スマートフォンの黒い画面に一瞬だけ映った自分自身を、


結衣は見なかった。


「もっと、かわいいって言ってもらわなきゃ」


画面が更新される。


《LIKE ×25》


結衣は、ようやく少しだけ笑った。


「人間というのは、不思議な生き物ですね」


診察室。


一条律は、黒い端末を眺めながら呟いた。


「お腹がいっぱいなのに、まだ食べる」


夜坂めぐるが隣から画面を覗き込む。


「……暴食だからですか?」


「ええ」


律は指を動かす。


空中に一人の少女の精神ログが浮かび上がった。


[SYSTEM LOG]

ERROR DETECTED

PROCESS : gluttony.pcs

STATUS : 未解析

PATIENT : 佐々木結衣

その下を、大量の数字が流れていく。


<<LIKE +1>>


<<LIKE +1>>


<<LIKE +1>>


<<LIKE +1>>


「ただし、今回食べるのは食物ではありません」


律が画面を軽く叩く。


「承認です」


「承認……」


「誰かに認めてもらうことで、自分の存在を確認する」


めぐるは眉を寄せた。


「でも……それって、普通のことじゃないですか?」


「もちろん」


律は頷いた。


「人間は誰かと繋がりたい生き物です」


「認めてもらえれば嬉しい」


「必要とされれば安心する」


「それ自体は、正常な機能です」


律の指が止まる。


画面に赤い文字が浮かんだ。


<<ERROR: 満腹機能未検出>>


「問題は――」


律が言う。


「満腹になる機能がないことです」


めぐるの表情が変わる。


「……満腹に?」


「百でも」


<<LIKE ×100>>


「千でも」


<<LIKE ×1,000>>


「一万でも」


<<LIKE ×10,000>>


数字が増え続ける。


「満たされたという信号が返ってこない」


律は画面を閉じた。


「だから、また食べる」


「もっと」


「もっと」


「もっと――」


その言葉に、めぐるの顔が曇った。


律は横目で彼女を見る。


「……どうしました?」


「いえ」


めぐるは首を振る。


「なんでもありません」


律はそれ以上聞かなかった。


「行きましょう」


「はい」


律が端末を閉じた。


*


翌日。


専門学校からの帰り道、結衣は駅前のカフェでスマートフォンを見つめていた。


画面を更新する。


反応は増えない。


一瞬だけ、画面の数字が滲んだ。

《もっと》

「……え?」

瞬きをする。

次の瞬間には、いつもの表示へ戻っていた。

「……疲れてるのかな」

「……もう一枚、撮ろうかな」


「その前に、一つ伺っても?」


顔を上げると、白衣の男が立っていた。その隣には、一人の女性。


「……誰ですか?」


「一条律です。こちらは夜坂めぐる」


律は黒い端末を取り出した。


「今のあなたは、何を待っていたんです?」


「……別に。通知ですけど」


「通知が来たら?」


「嬉しい、です」


「では、来なかったら?」


結衣の指が、画面の上で止まった。


「……私、何か変なことしたのかなって」


端末に細い線が現れ、結衣の声に合わせて揺れ始める。


<<PCS SYSTEM>>

<<CONNECTING...>>

<<PCS NEURAL LINK>>

<<SYNC ESTABLISHED>>


律は画面を確認した。


「佐々木さん」


「……はい」


「見ますか?」


「え?」


「あなたが、何を繰り返しているのか」


結衣は黙った。


手の中のスマートフォンを見る。


画面には、更新しても増えない数字。


「……見たら、分かるんですか?」


「少なくとも」


律は答えた。


「今よりは」


結衣はしばらく画面を見つめた。


そして、スマートフォンを伏せる。


「……お願いします」


律が右手を掲げた。


「では、確認しましょう」


パチン――。


指が鳴った瞬間、カフェの話し声が途切れた。


テーブルの輪郭が、無数の光る数字へほどけていく。


「え……?」


足元が消える。


視界が白く弾けた。


「……っ」


結衣は思わず目を閉じた。


恐る恐る、瞼を開く。


「……え?」


さっきまでいたカフェは、どこにもなかった。


三人が立っていたのは、巨大なカフェだった。


どこまでも続く白い床。


ピンク色のネオン。


ガラス張りの壁。


壁一面に並ぶ巨大なモニター。


誰もが憧れる「映える世界」。


しかし。


客はいない。


店員もいない。


音楽も流れていない。


「……何、ここ」


結衣が周囲を見回す。


「さっきのカフェは……?」


一歩、後ずさる。


「一条先生、これ……何なんですか?」


律は黒い端末へ視線を落とした。


「あなたの内側です」


「……私の?」


ただ。


巨大なテーブルの上だけに、ありとあらゆるものが並べられていた。


色鮮やかなスイーツ。


高級料理。


ブランド品。


化粧品。


そして――


「LIKE」


「LOVE」


「COMMENT」


と書かれた、奇妙な形の菓子。


「……何、これ」


結衣の顔が引きつる。


めぐるも、その異様な光景を見つめていた。


その時。


結衣の右手が、勝手に動いた。


「……え?」


ハート型の菓子を掴む。


「ちょっと……」


止めようとしても、止まらない。


「待って。何で……?」


指が菓子を口元へ運ぶ。


「やめ――」


口へ入る。


噛む。


飲み込む。


すると――


胸の中央に開いた透明な穴へ、光が吸い込まれていった。


「……っ!」


結衣が胸を押さえる。


けれど。


もう片方の手が、次の菓子へ伸びていた。


「何で……」


涙が滲む。


「何で、止まらないの……?」


律は、その姿を静かに見ていた。


「それが、あなたが繰り返している処理です」


「私が……?」


また一つ。


手が伸びる。


「もっと……」


結衣自身の口から、言葉が漏れた。


「……え?」


本人が、一番驚いていた。


「もっと……」


もう一度。


今度は、自分の声だとはっきり分かった。


「違う……私、こんなの……」


それでも。


手は止まらなかった。


もう一つ。


また一つ。


食べても。


食べても。


穴は埋まらない。


「どうして……」


結衣の手が震える。


「どうして満たされないの……?」


その瞬間。


巨大なモニターが一斉に点灯した。


<<NEW POST>>


結衣が顔を上げる。


「……!」


<<♡ 12>>


「来た……」


<<♡ 48>>


「もっと……」


<<♡ 203>>


「もっと……!」


<<♡ 1,204>>


「もっと!」


数字が増えていく。


結衣は笑う。


けれど。


胸の穴は、さらに大きくなる。


そして。


モニターの奥から声が響き始めた。


「次は?」


「次の投稿は?」


「もっと見せて」


「次は何?」


「まだ?」


「もう飽きた」


「もっと」


「もっと」


「もっと――」


結衣は耳を塞ぐ。


「嫌……!」


「もうやめて……!」


しかし。


手にはスマートフォン。


自分自身が手放せない。


投稿する。


確認する。


更新する。


投稿する。


確認する。


更新する。


<<LIKE +3>>


「少ない」


<<LIKE +7>>


「もっと」


<<LIKE +18>>


「まだ足りない」


<<LIKE +42>>


「もっと……!」


結衣は泣きながら投稿を続ける。


「誰か……」


「誰か私を見て……」


「お願い……」


めぐるが一歩前へ出た。


「結衣さん!」


結衣が顔を上げる。


「もうやめてください!」


「……え?」


「そんなに苦しそうなのに、どうして続けるんですか!」


「だって……」


結衣の声が震える。


「投稿しないと……」


「誰にも見てもらえなくなる」


「見てもらえなくなったら……」


唇が震えた。


「私なんて……何なのか、分からなくなるから……」


めぐるの表情が変わった。


「……何なのか?」


結衣は胸の穴を押さえる。


「友達のことなら分かるの」


「沙耶にはこれが似合うとか」


「真帆はこういうところがかわいいとか」


「この人には、この色が合うとか……」


「なのに」


自分の胸元を見る。


「私のことになると……分かんない」


「佐々木結衣って、何なんだろうって」


声が掠れた。


「だから……」


スマートフォンを握り締める。


「誰かに見つけてほしい」


めぐるが静かに言った。


「誰かに、『あなたはここにいる』って言ってほしい?」


結衣の目から涙が落ちる。


「……そうだよ」


「ずっと……そうだった」


「いいえ」


律の声が、静かに割って入った。


結衣が顔を上げる。


「あなたは、最初からこうだったわけではない」


律が黒い端末を操作する。


空間を埋め尽くしていた通知音が、一斉に止まった。


巨大なモニターも。


テーブルの上のハートも。


光る数字も。


すべてが暗転する。


そして。


一枚だけ、写真が浮かび上がった。


淡いブルーのウィッグ。


白いブラウス。


銀色の飾り。


結衣の瞳が大きく開いた。


「……これ」


律は何も言わない。


写真が、ゆっくりと記憶へ変わっていく。


――まだ、数字を見るたびに胸が苦しくなる前。


鏡の前で、結衣はウィッグを指先で整えていた。


「……よし」


少し離れる。


また近づく。


右側を直す。


「んー……」


机の上には、メイク道具。


カラコン。


安全ピン。


両面テープ。


衣装の余った布。


昨日の夜まで調整していた小物。


どれも完璧ではない。


衣装だって、市販のものへ少し手を加えただけだった。


メイクも、何度も失敗した。


それでも。


鏡の中に立っている自分を見た瞬間。


結衣は笑った。


「……いいじゃん」


好きなキャラクターだった。


人気があるからではない。


そのキャラクターの表情が好きだった。


衣装が好きだった。


強がっているくせに、時々ひどく寂しそうなところも好きだった。


だから、やってみたかった。


ただ、それだけだった。


スマートフォンを三脚に固定する。


タイマーを設定。


十秒。


位置につく。


一枚。


「違うな」


撮り直す。


二枚。


「目線、こっちじゃない」


撮り直す。


何度目か。


結衣の指が止まった。


「……あ」


画面の中の自分。


よく見ればウィッグは少し浮いている。


衣装にも小さな皺がある。


それでも。


光。


表情。


目線。


全部が、うまく重なっていた。


結衣は写真を少し離して見る。


そして。


「これ……好き」


誰かに見せる前に。


そう思った。


少しだけ明るさを調整する。


色味を整える。


余計な部分を切り取る。


投稿画面を開いた。


《ずっとやりたかった子。やっとできた》


投稿。


<<POST COMPLETE>>


「よし」


スマートフォンを置く。


その時の結衣は、すぐに数字を確認しなかった。


もう一枚撮ろうか。


次はどんなポーズにしようか。


そんなことを考えていた。


数分後。


スマートフォンが震えた。


<<LIKE ×27>>


「……あれ?」


更新。


<<LIKE ×43>>


「え?」


また震える。


<<COMMENT>>


《めちゃくちゃ似合ってます!》


<<COMMENT>>


《このキャラ好きなので嬉しい》


<<COMMENT>>


《表情すごく好きです》


結衣の口元が緩む。


「……やった」


十分後。


<<LIKE ×81>>


<<LIKE ×104>>


「百……?」


知らない名前が通知欄に並び始める。


《雰囲気めっちゃ合ってる》


《初めて見たけど好き》


《フォローしました!》


《もっと写真見たい》


結衣の指が止まった。


――初めて見た。


今日まで自分のことを知らなかった人。


その人が今、自分の写真を見ている。


何万人もいる人の中で。


自分の写真のところで、指を止めた。


結衣は胸元を押さえた。


「……見つけてくれた」


<<LIKE ×173>>


<<LIKE ×211>>


通知は止まらない。


沙耶からメッセージが届く。


《結衣、めっちゃ伸びてない!?》


《なんかすごいことになってる》


《だってこれ普通に良いもん》


《ほんと?》


《本人が一番分かってないやつ》


結衣は笑った。


《でも嬉しい》


送信。


<<LIKE ×286>>


<<LIKE ×314>>


《もっと写真見たい》


また、その言葉が目に入った。


「……私の?」


自分の写真を。


もっと見たい。


結衣は何度も画面を更新した。


<<LIKE ×352>>


<<LIKE ×379>>


<<LIKE ×388>>


そして。


<<LIKE ×391>>


数字が止まった。


結衣は、しばらく画面を見つめていた。


三百九十一。


その数字の向こうに。


三百九十一回、自分のところで誰かの指が止まったような気がした。


三百九十一回、自分を見てもらえたような気がした。


結衣はスマートフォンを胸に抱く。


「……見つけてもらえた」


その声には。


まだ焦りも。


渇きも。


恐怖もなかった。


ただ、嬉しかった。


本当に。


嬉しかった。


しばらくして、結衣はベッドの横に置いていた衣装の資料へ手を伸ばした。


「あ、この子もやりたいな」


ページをめくる。


「こっちなら、目尻もうちょっと変えた方がいいかな」


鏡を見る。


「メイク、もっと練習しよ」


少し考えて。


笑った。


「……楽しかったな」


またやりたい。


もっと上手くなりたい。


もっと好きなものを形にしたい。


この時の「もっと」は。


まだ、数字へ向けられたものではなかった。


――記憶が止まった。


巨大なカフェへ、静寂が戻る。


結衣は、宙に浮かんだ昔の自分を見つめていた。


「……私、笑ってる」


「ええ」


律が答える。


「投稿する前から」


結衣が振り返る。


「この時のあなたは、誰かの評価を待っていません」


写真の中の結衣が、もう一度笑う。


『これ……好き』


律はその言葉を指した。


「先に、あなた自身の『好き』があった」


結衣の目が揺れる。


「そのあとで、誰かも好きだと言ってくれた」


「だから嬉しかった」


「当然でしょう」


「……でも」


結衣は、浮かぶ数字を見る。


<<LIKE ×391>>


「この数字が……嬉しかった」


「ええ」


律は否定しなかった。


「それも事実です」


結衣が顔を上げる。


「好きなものを好きだと言った」


「それを誰かが見つけた」


「誰かも好きだと言ってくれた」


「嬉しくない方がおかしい」


めぐるが、ゆっくりと昔の結衣を見る。


律の指が止まる。


「問題は、その後です」


<<LIKE ×391>>


数字が揺れた。


<<LIKE ×500>>


結衣が息を呑む。


<<LIKE ×1,000>>


<<LIKE ×10,000>>


巨大な数字が、空間いっぱいに膨れ上がる。


同時に。


結衣の胸の穴が、それらを吸い込み始めた。


五百。


千。


一万。


吸い込む。


けれど。


穴は閉じない。


むしろ、少しずつ大きくなる。


画面に赤い文字が走った。


<<ERROR: 満腹機能未検出>>


「……なんで?」


結衣は胸を押さえる。


「三百九十一で、あんなに嬉しかったのに」


律は数字を見上げた。


「あなたは、あの日の幸福をもう一度得ようとした」


「だから、また投稿した」


「また見つけてもらおうとした」


結衣は黙って聞いている。


「ですが、いつの間にか――」


律が三百九十一という数字に触れる。


「幸福そのものではなく」


数字が砕け、無数のハートへ変わる。


「その時、そこに表示されていた数字を食べ始めた」


結衣の瞳が揺れた。


「……数字を?」


「あなたが食べているものは、承認です」


律が言う。


「ですが」


黒い端末に、別の表示が浮かぶ。


<<ROOT CAUSE ANALYSIS>>


「空腹の正体は、承認不足ではない」


結衣が息を止める。


「あなたは、自分が何者なのか分からない」


「だから、自分を見るための鏡を――他人に預けた」


「……鏡?」


結衣が、手の中のスマートフォンを見る。


画面には、笑っている自分。


<<LIKE +100>>


「……これが、私?」


数字が落ちる。


<<LIKE -70>>


笑っていた自分の顔が、歪んだ。


「……違ったの?」


結衣の指が震える。


「じゃあ……本当の私は、どれなの?」


律が端末を操作する。


[SYSTEM LOG]


PROCESS : gluttony.pcs

STATUS : 無限ループ


Do

Call [私は何者か分からない]

Call [誰かに見つけてもらう]

Call [反応から「これが私」と確認する]

Call [一時的に安心する]

Call [数字が減る]

Call [「違ったの?」と自己像が揺らぐ]

Call [もう一度「私」を探す]

Call [もっと反応を求める]

Loop


文字列が空中へ浮かぶ。


ゆっくりと。


輪を描く。


最後の「もっと反応を求める」が。


最初の「私は何者か分からない」へつながった。


結衣は、その輪を見つめる。


「……これ」


声が震える。


「私……ずっと、自分を探してたの?」


律は答える。


「ええ」


一拍。


「他人の目の中で」


「……っ」


結衣の目から、また涙が落ちた。


輪の中では。


私は何者か分からない


という文字へ、何度も何度も戻っていく。


結衣が、小さく呟く。


「だから……終わらなかったんだ」


数字だけが、まだ回り続けている。


律は輪を見た。


「これが、あなたの環状の感情劇です」


結衣は言葉を失った。


しばらくして。


視線を落とす。


床に、今日の記憶が映った。


ブライダル実習。


白い花束の中へ、黄色の花を一本差し込む自分。


『このくらい』


沙耶が笑う。


『結衣こういうの上手いよね』


場面が変わる。


『沙耶ならベージュ』


『即答じゃん』


また変わる。


カフェ。


パフェを撮る自分。


『あ、これいい』


一口食べる。


『……あ、これ好きかも』


そして。


<<LIKE ×8>>


結衣の顔から、味が消える。


「……」


さらに。


朝に見つけたクリーム色の服。


『かわいい……』


自分でそう言った。


なのに。


<<LIKE ×17>>


<<絶対似合う!>>


反応を見てから、買うことを決めた。


結衣が唇を噛む。


「私……ちゃんと好きだったんだ」


律は答えない。


「服も」


「パフェも」


「コスプレも」


結衣は昔の写真を見る。


「ちゃんと、自分で好きって思えてた」


声が震えた。


「なのに……いつから?」


写真が次々と切り替わる。


好きなキャラクター。


人気のキャラクター。


反応が多かった写真。


反応が少なかった写真。


「好きなキャラをやりたい、だったのに」


「どのキャラなら見てもらえるかなって考えるようになった」


「かわいいって思った服も」


「私が好きかより、みんなが好きかを先に見るようになった」


「おいしかったパフェも」


「いいねが少ないだけで、味が分からなくなった」


結衣の目から涙が落ちる。


「みんなが『いいね』って言ってくれる私を……作ってた」


めぐるは黙って聞いていた。


結衣の前に、昼休みの光景が浮かぶ。


真帆が嬉しそうにスマートフォンを見せている。


『めっちゃ伸びてる』


結衣も笑っている。


『ほんとだ。よかったじゃん』


「……嬉しかったんです」


結衣が言う。


「真帆が嬉しそうで」


「本当に、私も嬉しかった」


胸の穴が、鈍く脈打つ。


「でも同時に」


顔を歪める。


「私より、反応が来なければいいのにって……ちょっと思った」


両手で顔を覆う。


「最低だよね」


「友達なのに」


「その考えを、なかったことにしたかったんですね」


律が言う。


結衣は小さく頷く。


「だって……そんな自分、嫌だもん」


「ですが」


律は、真帆と笑う結衣の記憶を指す。


「友人を祝福したい気持ちも本物です」


次に、伏せられたスマートフォンを指す。


「自分も見てもらいたい気持ちも、本物です」


結衣が顔を上げる。


「……両方?」


「あるものを、ないことにはできません」


めぐるが静かに息を吐いた。


「……私も」


結衣が見る。


「私も、似たようなことしてました」


「人には『無理しないで』って言えるのに、自分のことだけは守る相手に入れてなかった」


めぐるは少し苦く笑う。


「私が引き受ければ」


「迷惑をかける側にならないって思ってた」


結衣の目に驚きが浮かぶ。


「……同じ?」


「形は違いますけど」


めぐるは頷いた。


「自分をどう扱うかを、自分以外のものに預けてたところは」


「たぶん」


「一条先生」


結衣が小さく呼ぶ。


「じゃあ……私が悪かったの?」


「何がです?」


「見てほしいって思ったこと」


「いいねが嬉しかったこと」


「三百九十一を、何回も見返したこと」


律は首を横に振った。


「いいえ」


結衣が目を見開く。


「誰かに見てもらいたい」


「認めてもらえれば嬉しい」


「それは正常な機能です」


律は、最初の写真をもう一度表示した。


「この三百九十一も、間違いではない」


結衣の頬を涙が伝う。


「では何が……」


律の視線が、結衣の胸の穴へ落ちる。


「あなたは、自分を見るための鏡を」


スマートフォンを指す。


「他人に預けすぎた」


数字が鏡のように結衣の顔を映す。


<<LIKE ×391>>


笑っている結衣。


<<LIKE ×24>>


不安そうな結衣。


<<LIKE ×8>>


鏡の中の顔が、もう分からない。


「……全部、私なのに」


結衣が呟いた。


「数字が違うだけで……私まで違って見える」


律が端末を閉じる。


「だから、満腹にならない」


輪の中心に赤い文字が浮かぶ。


<<ERROR: 満腹機能未検出>>


結衣は、その文字を見つめた。


「……数字を食べても、私の答えにはならない」


律は何も言わなかった。


結衣は震える声で尋ねる。


「……じゃあ、この穴はどうすれば埋まるの?」


律は答えない。


代わりに、めぐるが言った。


「もしかしたら……」


結衣を見る。


「埋めなくてもいいんじゃないですか?」


「……え?」


「寂しい時は、寂しい」


「誰かに認めてほしい時は、認めてほしい」


「そういう気持ちがあることまで、消さなくていい」


めぐるは微笑んだ。


「ただ」


「それを埋めるために、自分を壊さなくてもいい」


結衣は黙っていた。


やがて。


ゆっくりとスマートフォンを見た。


画面には大量の投稿。


そこにいるのは――


誰かに見せるために作った自分。


結衣は一番新しい投稿を開いた。


「……これ」


削除。


<<DELETE POST>>


モニターが一つ消えた。


「これも」


<<DELETE POST>>


また一つ。


「これも……」


<<DELETE POST>>


次々と消えていく。


「私、本当はこんなに投稿したかったわけじゃなかった」


一つ。


「誰かに見てほしかっただけ」


一つ。


「私がここにいるって……」


一つ。


「誰かに気づいてほしかった」


最後の投稿。


結衣は、それをじっと見つめる。


そこには満面の笑みを浮かべる自分。


「……この顔」


指が止まる。


「私、笑ってない」


そして。


削除。


<<DELETE POST>>


巨大なモニターが、すべて消えた。


暗闇。


静寂。


結衣はスマートフォンを握り締める。


手が震える。


「……怖い」


めぐるが隣に立つ。


「はい」


「でも……」


結衣は電源ボタンを見る。


「これを切ったら、本当に何もなくなる気がする」


「……」


「誰にも見られない私なんて」


「空っぽだから」


めぐるは首を横に振る。


「空っぽじゃないですよ」


結衣が見る。


「今まで誰かに見せるために使ってた時間も」


「好きだったものも」


「嫌だったことも」


「全部、あなたのものです」


結衣の目から涙が溢れる。


「……私のもの」


「はい」


「誰にも見せなくても?」


「はい」


「誰にも褒められなくても?」


「はい」


「……それでも?」


めぐるは笑う。


「それでもです」


結衣は目を閉じた。


そして。


スマートフォンの電源を切る。


カチッ。


世界から光が消えた。


胸に開いていた穴へ、淡い光が差し込んだ。

けれど、穴はまだそこにあった。


「……これで、いいのかな」


結衣は暗くなったスマートフォンを見つめた。


「もう投稿しなければ、解決すると思いますか?」


律が尋ねた。


結衣はすぐには答えられなかった。


「……分かりません。また、誰かに見てほしくなるかもしれない」


「ええ」


「また、いいねの数を気にするかもしれない」


「そうでしょうね」


結衣は俯いた。


「……じゃあ、どうしたら」


「それを決めるのは、あなたです」


律は端末を操作した。


巨大なモニターに、先ほどの環状の感情劇が浮かび上がる。


私は何者か分からない。


誰かに見つけてもらう。


反応から「これが私」と確認する。


一時的に安心する。


数字が減る。


「違ったの?」と自己像が揺らぐ。


もう一度「私」を探す。


もっと反応を求める。


そして、最初の問いへ戻る。


「あなたは、もう一度この処理へ戻ることもできます」


律は結衣を見た。


「ですが、ほかの選択もできる」


結衣の目が、モニターへ向いた。


そこに、新しい処理が表示される。


Do

Select Case [反応が欲しくなった私が選ぶ行動]


Case [数字が増えるまで投稿を繰り返す]

Call [承認を求め続ける]


Case [反応がない自分には価値がないと決める]

Call [自己否定]


Case [私の答えを、私が決める]

Exit Do


End Select

Loop


その時、画面が激しく乱れた。


<<ERROR>>

<<ERROR>>

<<ERROR>>


律の端末がフリーズした。


「……?」


律が画面を操作する。


反応がない。


その右手が震える。


指先が、一瞬だけ黒いノイズへ変わった。


「先生……?」


めぐるが律を見る。


律は右手を見つめる。


そして。


ゆっくりと袖の中へ隠した。


「端末の不具合ですよ」


「でも……」


「今は患者を見てください」


いつもの声。


いつもの表情。


しかし。


その声だけが、ほんの僅かに掠れていた。


結衣は、モニターに残った最後の選択肢を見つめた。


「……見てほしいって思うのは、やめられないかもしれない」


めぐるが頷く。


「それでいいと思います」


「でも……見てもらえないからって、私まで空っぽだって決めたくない」


結衣は、まだ震えている自分の手を見た。


「誰かに『いいね』って言われなくても……」


涙を拭う。


「私が私を……」


一度、息を吸う。


「『これでいい』って思いたい」


モニターの最後の選択肢が、静かに点灯した。


結衣は顔を上げる。


「……また投稿する日があっても、数字だけで私を決めるのは、やめたい」


その言葉に応えるように、モニターの表示が切り替わった。

[PCS SYSTEM]

Exit Do

[SYSTEM LOG]

UNLOOP_SUCCESS: gluttony.pcs


回り続けていた文字列が、止まった。


巨大なモニターに映る数字も、動かなくなる。


結衣は胸に手を当てた。


穴は、まだそこにあった。


けれど、もう数字を吸い込み続けてはいない。


「……消えないんだ」


結衣が呟く。


めぐるは、その隣に立った。


「寂しくなる日も、あると思います」


結衣は小さく頷いた。


「……うん」


もう一度、胸に手を当てる。


穴の奥に、柔らかな光が差し込んでいた。


「でも、今は……もう一つ食べなくてもいい」


その言葉とともに、巨大なカフェが静かにほどけ始めた。


ガラスが光の粒へ変わる。


ネオンが消える。


「LIKE」や「LOVE」と書かれた菓子も、次々と形を失っていく。


最後に残ったのは、何も映していないモニターだった。


結衣はそれを見上げた。


誰にも見られていない。


それでも、自分はここにいる。


世界が白く染まった。


朝。


カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいる。


結衣はベッドの上で目を覚ました。


しばらく天井を見る。


そして。


机の上に置かれたスマートフォンへ視線を向ける。


手を伸ばす。


しかし。


途中で止めた。


代わりに窓へ向かう。


カーテンを開く。


窓を開ける。


朝の風が部屋へ入り込んできた。


「……静か」


通知の音はない。


誰かから褒められることもない。


誰かから評価されることもない。


結衣は、椅子に掛けてあった春物の服を見た。


店先で、かわいいと思った服。


十七件の「いいね」を見て、買った服。


そっと手に取り、袖を広げてみる。


「……やっぱり、かわいい」


声に出してから、少しだけ笑った。


誰かに見せたくなった。


写真を撮って、投稿したら。


そう考えた自分にも、気づいた。


けれど、今はスマートフォンを取りに戻らなかった。


服を鏡の前で合わせてみる。


「……うん。好き」


窓から入る風が、袖を小さく揺らした。


結衣は、もう一度笑った。


「……悪くないかも」


診察室へ戻る廊下。


めぐるは律の隣を歩いていた。


「先生」


「なんです?」


「結衣さん、SNSを全部やめる必要はないですよね」


「もちろんです」


律は答える。


「SNSは悪ではありません」


「誰かと繋がることも」


「誰かに認めてもらうことも」


「人間にとって必要な機能です」


めぐるが頷く。


「でも……」


律は歩みを止めた。


「自分の価値を、他人の指先に預けてはいけない」


「……はい」


その時だった。


律の端末が突然ブラックアウトした。


「……?」


律が画面を叩く。


反応がない。


「先生?」


数秒後。


画面が復旧する。


しかし。


そこに表示されていたのは、見慣れたシステムログではなかった。


<<SYSTEM INTEGRITY: 28%>>


<<STATUS: 危険>>


<<MEMORY: 破損進行中>>


めぐるの顔が強張る。


「……28%?」


律は答えない。


「神崎詩織さんの時より……」


めぐるが画面を見る。


「明らかに進んでる」


沈黙。


「先生」


めぐるの声が強くなる。


「先生自身に、何か起きてるんですよね?」


律はしばらく彼女を見つめる。


そして。


いつもの笑顔を浮かべた。


「さあ?」


「先生!」


「患者は救われました」


律は歩き出す。


「今は、それで十分でしょう」


「誤魔化さないでください!」


めぐるが追いかける。


「待ってください!」


律は振り返らない。


その右手が――


また震えた。


今度は、隠しきれないほど大きく。


律は左手で右手を押さえ込む。


そして。


掠れた声で呟いた。


「……まだ、足りない」


「……何が?」


めぐるが律を見る。


律は答えない。


黒い端末だけが、暗い廊下の中で点滅していた。


<<DEBUG LOG>>


<<TARGET:

患者>>


<<RESULT:

成功>>


<<RESOURCE CONSUMED:

不明>>


<<SYSTEM INTEGRITY:

28%>>


<<WARNING:

デバッガー依存を検出>>


律は画面を閉じる。


その瞳の奥に――


一瞬だけ、深い空洞が見えた。


診察室。


めぐるは一人、部屋に残っていた。


「……先生」


返事はない。


机の上には、律が置き忘れた黒い端末。


めぐるは、それを見つめる。


これまで救ってきた患者たち。


夜坂めぐる。


咲良葵。


日向凛。


神崎詩織。


そして、佐々木結衣。


みんな、何かを抱えてここへ来た。


そして。


みんな、救われて帰っていった。


なのに。


先生だけが。


少しずつ壊れている。


「……先生のバグって」


めぐるが端末へ手を伸ばす。


「一体、なんなんだろう……」


指先が画面へ触れる。


その瞬間。


<<ACCESS: 拒否>>


<<DEBUGGER CORE>>


<<WARNING: 閲覧禁止>>


めぐるの手が止まる。


「……?」


画面が一度、暗くなる。


そして。


一瞬だけ。


別のログが浮かび上がった。


[SYSTEM LOG]

NEXT TARGET : 小嶋紬

PROCESS : wrath.pcs

STATUS : 未解析


「……憤怒?」


めぐるが息を呑む。


だが。


その下には、本来存在するはずのない文字列が続いていた。


<<WARNING: UNKNOWN PROCESS DETECTED>>


<<ROOT ACCESS:

一条律>>


<<STATUS:

破損>>


めぐるの瞳が揺れる。


「……先生?」


画面が暗転する。


<<DEBUGGER CORE: 警告>>


<<NEXT PATIENT: 小嶋紬>>


――第5話・完――


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