第4話 高慢(pride.pcs)
畳を打つ乾いた音が、広い和室に響いた。
県内の高校が集まる合同練習会。五組の選手が横一列に並び、読み手の声に耳を澄ませている。
パンッ!
一枚の札が畳の外へ弾け飛んだ。
「ありがとうございました」
神崎詩織は相手と礼を交わし、散った札を拾い集めた。自分の試合は終わった。だが、視線はすぐ隣の畳へ移る。
一年生の後輩が、まだ戦っていた。
読み手の声が落ちる。後輩の目が迷った、その一瞬。相手の手が先に伸びた。
「あ……」
昨日も取られた札だった。配置も確認した。どこで反応を始めるか、繰り返し説明した。
――何回言えば分かるの?
詩織は膝の上で指を握り、言葉を飲み込んだ。
試合を終えた後輩が戻ってくる。
「さっきの札、前にも言ったよね」
「……はい。位置は分かってたんですけど、反応が遅れて」
「次は、読みが入る前に位置を確認して。苦手なら、その札だけでも家で反応練習した方がいいと思う」
「はい」
後輩は真っすぐ頷いた。それから、気持ちを立て直すように笑った。
「次はちゃんと取ります。任せてください」
「……任せられない」
自分の声が聞こえた。
後輩の笑顔が消える。近くで片づけをしていた部員たちも手を止めた。
「……あ」
違う。そう言いたかったわけじゃない。
なのに、確かに思ってしまった。自分の方が分かっている。練習している。強い。だから、あの子に任せるのは怖い、と。
「……ごめん。ちょっと、頭冷やしてくる」
詩織は顔を上げられないまま、和室を出た。
建物の外には午後の風が吹いていた。軒下の壁に背を預け、目を閉じる。
「……最低」
言ってしまった直後の後輩の顔が、まぶたの裏に残っていた。
一緒に札を並べた。放課後、部室の鍵を閉めるまで付き合ってくれた日もあった。今日だって、取れなかった札を悔しがっていた。その全部を知っているのに、口から出たのは「任せられない」だった。
本当は、すぐに引き返すべきなのかもしれない。謝るべきなのかもしれない。
けれど、何を謝ればいいのだろう。言い方だけ? それとも、言葉にしてしまった本心まで?
「……そんなつもりじゃなかった、なんて」
誰も聞いていない軒下で、詩織は呟いた。
あの後輩がミスをするたび、目で追っていたことは否定できない。自分が負けた試合以上に、その子が落とした札を思い出してしまう。かといって仲間に負けてほしいわけでは、決してなかった。
「勝ちたいんだよ、私たちで……」
声にしてみても、後輩の表情は消えなかった。
仲間なのに。後輩なのに。みんなで全国へ行きたいのに。
――私がもっとちゃんと教えればいい。
――私がもっと強くなればいい。
その時だった。
建物の中から――パンッ!
札を払う乾いた音が響いた。
詩織は反射的に振り返る。
けれど、和室の扉は閉じたままだった。
読み手の声も、札を取る音も聞こえない。
「……今の、何?」
足元を見る。
畳などないはずの軒下に、一枚だけ札が落ちているように見えた。
『任せられない』
そう読めた気がした。
瞬きをする。
札は消えていた。
代わりに、少し離れた場所で黒い画面が光った。
[SYSTEM LOG]
ERROR DETECTED
PROCESS : pride.pcs
PATIENT : 神崎詩織
STATUS : ループ形成完了
「……一人で団体戦をするつもりですか」
顔を上げると、白衣の男が黒い端末を手に立っていた。その隣には若い女性がいる。
「誰ですか」
「一条律です。精神科医をしています」
「精神科医?」
詩織の眉が寄る。
「私、別に病気じゃありませんけど」
「そうでしょうね」
一条は淡々と答えた。
そして、建物の中へ視線を向ける。
「ただ――」
一拍。
「『任せられない』とは、随分はっきり言いましたね」
詩織の表情が固まった。
「……聞いてたんですか」
「ええ」
「……あれは」
詩織は視線を逸らした。
「言い方が悪かっただけです」
一条は何も言わない。
その沈黙が、妙に腹立たしかった。
「ちゃんと練習してる子なんです。私だって、それは分かってます」
「では、なぜ任せられない?」
「……ミスが多いからです」
「だから?」
「だから……」
詩織は唇を噛んだ。
「私がもっとちゃんと教えればいい。それだけです」
一条が黒い端末へ目を落とす。
「また、あなたがやるんですか」
「……何も知らないくせに」
「ええ。知りません」
一条は端末から顔を上げた。
「だから調べます」
そして尋ねる。
「あなたが負けたら、何がなくなるんです?」
「負けたら悔しいです。次に勝つために練習します。それだけです」
「それだけなら、今こうはなっていない」
「……私はもっと強くなればいいだけです」
男の隣にいた女性が、わずかに目を伏せた。
「……私も、最初そう思ってたから」
「何がですか」
「自分がもっと頑張ればいいって」
「めぐる」
一条が短く呼ぶ。夜坂めぐるは口をつぐんだ。
「では、確認しましょう」
一条が黒い端末を詩織へ向けた。
画面に、細い線が一本ずつ浮かび上がる。先ほどの問いに答える詩織の声に合わせて、線は揺れ、やがて一つに重なった。
<<PCS SYSTEM>>
<<CONNECTING...>>
<<PCS NEURAL LINK>>
<<SYNC ESTABLISHED>>
一条が右手を掲げる。
「……え?」
パチン――。
指が鳴った瞬間、風が止まった。
遠くの車の音も、建物の中の読み手の声も、札を払う音も途切れる。
壁も、床も、空も、黒いデータの粒子へほどけていった。
「接続しました」
次の瞬間、詩織の足元には畳があった。
「……は?」
詩織は息を呑んだ。
どこまでも続く畳。
無数の百人一首の札。
天井も、壁もない。
さっきまでいた合同練習会の建物は、跡形もなく消えている。
「ちょっと待って……」
詩織は勢いよく振り返った。
「ここ、どこなんですか?」
「あなたの中です」
一条が答える。
「……意味分かんない」
詩織は周囲を見回した。
読み手も、対戦相手も、仲間もいない。
「戻してください。今すぐ」
「戻ることはできます」
「じゃあ――」
「その前に」
一条は畳の中央へ視線を向けた。
「あれを見てください」
詩織も、つられるように振り向く。
そこに。
もう一人の神崎詩織が座っていた。
『もっと速く』
パンッ!
「……私?」
『まだ足りない』
パンッ!
札を取るたび、空いた場所に新しい札が現れた。
勝っても終わらない。
詩織は一歩、後ずさった。
「……何なの、これ」
「……一人しかいない」
めぐるが呟く。
「ええ。それなのに、団体戦を続けている」
一条が答えた。
もう一人の詩織は、札を取るたびに一瞬だけ顔を上げた。誰かを探すように左右を見て、何もない畳へ視線を戻す。
『もっと速く』
手が飛ぶ。
『次は、絶対に』
新しい札が並ぶ。
「勝ってるのに……」
めぐるの言葉に、詩織が反射的に言い返した。
「一勝じゃ足りないんです。団体戦は五人で戦うから」
「でも、ここにはあなたしかいないですよね」
「それは……」
詩織が左右を見る。練習会で、後輩が試合を続けていた畳はどこにもない。自分の知らない札の配置も、相手の癖も、この世界には現れない。
中央の詩織がまた一枚取った。
けれど、勝利を知らせる声はなかった。
「なんで、終わらないんですか」
「あなたが繰り返している場所です」
詩織は畳の中央を見た。もう一人の自分は一度も顔を上げずに札を払っている。
一条が足元の札を拾う。表には『任せられない』、裏には『私がやる』。
[SYSTEM LOG]
TRACE START
CURRENT PROCESS : [仲間を信じられない]
SOURCE SEARCHING...
周囲の札が次々と裏返った。
『私より下手なのに』
『何回言えば分かるの?』
『もっと練習してよ』
『私だったら、一回言われたら家でやる』
詩織の目が揺れた。
「……ずっと思ってたわけじゃないです」
「思ったんですね」
「……思いました」
「それで十分です。ログとしては」
「ログ、ログって……人の心を何だと思ってるんですか」
詩織の声が鋭くなる。
「一瞬むかついたら、それでずっと人を見下してたことになるんですか? 練習を教えたことも、試合で応援したことも、全部嘘だったって?」
「そうは言っていません」
一条は札を置いた。
「応援したことも事実。見下したことも事実。片方を残すために、もう片方を消す必要はないでしょう」
詩織は言い返せなかった。
さっき、泣きそうな後輩に声を掛けたいと思ったのも自分だった。あの子の手が札へ伸びる瞬間、心の底から「取って」と願ったのも。
それでも、その手が遅れた瞬間には、許せなかった。
詩織は畳の縁を見つめた。
「……だから、嫌なんです。そんな自分が」
「では、その嫌なところも見ましょう」
詩織は一条を睨んだ。一条は構わず、次の札を拾う。
『……もう帰るんだ』
夕方の部室が現れた。部員が鞄を肩に掛ける。
『ごめん、今日塾あるから先帰るね』
過去の詩織は笑って手を振っていた。だが、心の中では練習時間を数えている。自分は朝も、昼も、家に帰ってからも札を見ているのに。
「……あの子たちが嫌いだったわけじゃない」
「大事な相手を見下すことはできない、と?」
詩織は答えられなかった。
一条がもう一枚を裏返す。
『なんで笑えるの?』
そこには練習後の畳が映っていた。失敗した部員が仲間にからかわれ、悔しそうに言い返してから笑う。
『じゃあ明日またやろう』
詩織だけが少し離れた場所で、札を片づけていた。
――負けたのに。今日も同じミスをしたのに。
詩織が顔を背ける。
「……もういいです」
「まだです。これは苛立ちの記録であって、原因ではない」
一条が端末を操作する。札同士を結んだ黒い糸が、畳の奥へ伸びた。
その先で、ただ一枚が裏返る。
『私は勝ったのに』
詩織の顔から血の気が引いた。
「……それは、一瞬そう思っただけで」
「なら、確認しましょう」
黒い糸が鳴り、畳の世界は試合会場へ変わった。
全国出場が懸かった団体戦。五人が横一列に座っている。
過去の詩織は相手校のエースと向かい合っていた。鋭く札を払い、最後の一枚を取る。
「ありがとうございました」
自分の一勝は取った。
けれど、左右の試合は続いていた。詩織は焦る後輩へ声を掛ける。
『大丈夫。落ち着いて。次、取ろう』
その声に嘘はなかった。
やがて一人が勝ち、残る三人が敗れた。二勝三敗。全国への道は閉ざされた。
後輩が泣きながら頭を下げる。
『すみません……私が、あそこで取れてたら……』
『団体戦なんだから、一人のせいじゃないよ。私だって取られた札はあったし』
過去の詩織は後輩の肩に手を置いた。
『次、また頑張ろう』
「……ちゃんと励ましてる」
めぐるが言う。
記録の中の後輩は、詩織が置いた手に少しだけ顔を上げた。詩織は最後まで肩から手を離さなかった。
今の詩織には、その時の気持ちが鮮明に思い出せた。
あの子のせいにしたくなかった。明日も一緒に練習したかった。試合が終わったばかりの後輩に、これ以上泣いてほしくなかった。
「私、本当に……そう思ってたんです」
詩織は一条を見る。
「分かっています」
返事は短かった。
一瞬、胸が軽くなる。あの時の自分を、ここで認めてもらえた気がした。
だからこそ、次に映った廊下から目を逸らしたくなった。
「ええ。これも本心です」
一条の声とともに、場面が人気のない廊下へ移った。
過去の詩織が一人で壁に寄り掛かっている。頭の中では、仲間が取り損ねた札だけが繰り返し飛んでいた。
そして、誰にも聞こえない声が漏れる。
『――私は勝ったのに』
「やめて!」
現在の詩織が叫ぶ。景色が止まった。
「誰にも言ってない! あの子たちに、そんなこと言ってない!」
「口に出したかどうかの話はしていません」
「……」
「心の中では、どうでした?」
詩織は拳を握った。泣き続ける後輩の姿が、止まった景色の中に残っている。
「……思ったよ」
掠れた声だった。
「あの札、取れたじゃんって。もっと練習してればって……私、勝ったのにって!」
押し殺していたものが、堰を切った。
「私ばっかり本気みたいじゃん! 毎日練習して、家でもやって、それでも足りないと思ってたのに!」
詩織は目の前に止まった後輩を指差した。
「負けた時、あの子、私に謝ったんです。自分のせいだって。私、違うよって言いました。……本当に違うと思ってた。でも、廊下に出たら、頭の中であの子の札ばっかり飛んでた」
自分が取り逃した札は、もう覚えていなかった。仲間の失敗だけが、何度も何度も鮮やかによみがえる。
「『私だったら取れた』って。『私だったら、あんなふうに負けない』って……!」
言い切って、詩織は息を呑んだ。
五人で全国へ行きたかった。その気持ちは変わらない。なのに自分は、後輩の敗戦を悔しがるだけでなく、いつの間にか自分の方が上だと確かめる材料にしていた。
「……そんなふうに思いたかったわけじゃないのに」
涙が浮かぶ。
「なんでみんなは、普通に笑えるのって……!」
詩織は俯いた。
「……最低だよね、私」
「評価は後です」
一条は端末へ目を落とした。
「最低かどうかを決めても、原因は分かりません」
[SYSTEM LOG]
EVENT : 団体戦敗退
PERSONAL RESULT : 勝利
TEAM RESULT : 2勝3敗
NEXT ACTION : 練習量増加
「あなた自身は勝っている。それでも、敗戦後にさらに練習を増やした」
「主将なんだから、当たり前です」
「仲間の試合を、あなたが取るために?」
「……もっと早く勝てたら、他の試合を見られるし。もっと教えられたら、みんなも……」
言い終わる前に詩織は口を閉じた。
一条は問いを変えた。
「あなたは、何のために勝ちたいんです?」
「かるたが好きだからです」
「それも本心でしょう。では、負けることが、なぜそこまで怖い?」
畳の上に札が並んでいく。
『勝つ』
『強くなる』
『結果を出す』
『必要とされる』
そして最後に。
『ここにいていい』
「……何、それ」
詩織が足を止めた。
『ここにいていい』。
その札だけが、ほかの四枚より小さく見えた。触れれば簡単に裂けそうな、薄い紙だった。
「全国へ行きたいだけです。勝ちたいんです。それを、別の理由にしないでください」
一条は否定しなかった。
「勝ちたい気持ちを疑ってはいません。どうして、勝たなかった時の自分まで否定しなければならないのかを見ています」
「否定なんか……」
言いかけて、詩織は口を閉じた。
負けた自分を想像すると、胸の奥が冷えた。悔しいから、だけでは説明できない。誰からも呼ばれなくなるような、誰の役にも立てなくなるような、そんな怖さがあった。
自分が勝ったあの日でさえ、足りなかったのは何だったのだろう。
一条が『必要とされる』の札へ触れる。
静かな図書室。中学一年の詩織が、百人一首の解説書を読んでいた。
短い三十一音に詰まった恋や別れや後悔を、夢中で追いかけている。
やがて景色は、初めて競技かるたを見た体育館へ変わった。
静かな読みの直後、札が凄まじい速さで飛ぶ。
『……速っ』
本の中にあった和歌が、目の前で勝負になった。
初めて札の前に座った日は、何度も取られた。悔しいのに、また座りたくなった。
『……面白い』
それからの時間が、札の表面を駆け抜けていく。
決まり字を覚える。配置を工夫する。負けて、直して、また挑む。初めて勝った日には、礼をする顔が緩んだ。
『神崎、強くなったね』
『今度、配置のこと教えてよ』
かるたの話なら、詩織も自然に言葉が出た。自分から輪に入れなくても、札を挟めば会話が続いた。
中学二年、三年。後輩が相談に来る。高校では、自分より強い先輩の背中を追いかけた。
春。卒業する先輩が、部室の出口で笑う。
『次は詩織が引っ張ってね』
『……はい』
嬉しかった。信頼されたと思った。
先輩がいなくなってから、部室で後輩の札を並べ直す機会が増えた。聞かれれば答えたし、自分から気づいたことを伝えた。教えた札が次の試合で取れた時は、自分が勝つのとは違う嬉しさがあった。
ある日、後輩が詩織に言った。
『神崎先輩がいてくれると、安心します』
詩織は照れて笑った。
けれど、その子が次の試合で負けた時、最初に浮かんだのは「悔しい」ではなかった。
――私がもっと教えておけば。
部室で一人になった後、詩織はその子の苦手札をノートに書き出した。自分の試合の反省よりも先に。
誰にも頼まれていないのに、いつの間にか自分の課題へと書き換えていた。
ところが、先輩の姿が消えた後も、別の言葉だけが畳に残った。
『私が引っ張らなければならない』
「……先輩は、そんなつもりで言ったんじゃない」
「でしょうね。期待を義務に変えたのは、あなたです」
一条は『ここにいていい』の札を拾った。
「ただ、この考え方は、かるたを始める前からあったようです」
札が裏返り、世界が小学校の教室へ変わる。
休み時間。窓際で本を読む少女がいた。
幼い神崎詩織だった。
一人の時間は嫌いではない。けれど、机を囲んで笑う子たちを見て、時々ページをめくる手が止まる。
『……私も、あんなふうに普通に話せたらな』
ある日、詩織は教室で賞状を受け取った。
『神崎さん、よく頑張りましたね』
拍手が起きる。席に戻ると、普段はあまり話さない子まで寄ってきた。
『すごいじゃん。今度ここ教えてよ』
『……うん』
家では両親が喜んでくれた。誰も「できなければ価値がない」とは言わなかった。ただ褒められて、人が近づいてきた。
幼い詩織が、輪の中で小さく笑う。
『そっか。私、優秀なら……ここにいていいんだ』
[SYSTEM LOG]
RULE GENERATED
LEARNED RULE : [優秀なら居場所を得る]
「……私が、そう思ったの?」
一条は頷いた。
「結果を出すことで人とつながれた。当時は、あなたを前へ進ませたルールです」
「……じゃあ、何が悪かったんですか」
「悪かったとは言っていません」
一条は教室と畳の間に伸びる線を示した。
「同じルールを、ずっと使い続けた。それだけです」
教室の風景に、あの団体戦の後の畳が重なった。
負けた後輩は泣き、仲間に肩を叩かれていた。翌日にはまた同じ場所で札を並べている。
一条が尋ねる。
「彼女たちは、負けても平気だったんですか?」
「違う。悔しがってたし……次の日、朝から練習してた子もいた」
「それでも、あなたは『なんで笑えるの?』と思った」
詩織は仲間たちを見つめた。
「……いられるから」
「え?」
めぐるが顔を向ける。
「負けても、ミスしても……あの子たちは、ここにいられるから」
もう一度、笑い合う姿を見る。
「……羨ましかった」
声にした途端、詩織の胸が痛んだ。
自分の方が強い。もっと練習している。だから、あの子たちが呑気に見えるのだと思っていた。
でも、あの子たちは負けても平然としていたわけではない。帰り道で涙を拭いていた子もいた。次の朝、誰より早く来て札を並べていた子もいた。
それでも、失敗した昨日の自分と、今日また畳に座る自分が、同じ仲間でいられることを疑っていなかった。
「私も……そうしたかった」
詩織は初めて、後輩ではなく自分のことを話した。
「負けた日に、普通に『また明日』って言いたかった。次の日、申し訳なさそうな顔をしないで、みんなと札を並べたかった」
めぐるは静かに聞いていた。
「なのに、どうして私だけ、勝たないと駄目なんだろうって……」
『なんで笑えるの?』
札の文字がほどけ、別の一文へ組み替わった。
『なんであなたたちは、失敗してもここにいていいの?』
詩織が口元を覆う。
一条の端末に、二つの記録が並んだ。
[SYSTEM LOG]
ORIGINAL RULE
If [優秀] Then
Call [居場所を得る]
EndIf
優秀でない場合の処理:未設定
「……未設定?」
めぐるが呟く。
「ええ。最初のルールには、優秀でない場合に居場所を失うとは書かれていない」
端末の白い文字に、黒いノイズが走った。
[SYSTEM LOG]
RULE MUTATION DETECTED
If [優秀] Then
Call [居場所を許可]
Else
Call [居場所を否定]
EndIf
『私は優秀でなければ、ここにいてはいけない。』
その一文が畳に焼きついた。
「……あ」
詩織は膝をついた。
勝たなければいけない。必要とされなければいけない。そうしないと、居場所を失うと思っていた。
「誰が、そう言ったんです?」
一条の問いに、教室の教師、両親、先輩、仲間の姿が順に映る。
誰も言っていなかった。
「……誰にも」
詩織は声を絞り出した。
「私が勝手に……自分に決めてたんだ」
「そして、仲間にも同じ条件を求めた」
詩織は目を閉じる。
「……見下した。あの子が私より下手だって、確かに思った」
一条は否定しなかった。
「その言葉を言った相手は、後輩です。謝るかどうかも、あなたが決めることです」
畳の中央で、もう一人の詩織が札を払い続けている。
『もっと速く』
パンッ!
『まだ足りない』
パンッ!
一条の端末に処理が展開された。
Do
Call [居場所を失う恐怖]
Call [結果を出す]
Call [必要とされる]
Call [失敗を許せなくなる]
Call [仲間と比較]
Call [苛立ち]
Call [仲間を見下す]
Call [自己嫌悪]
Call [全部自分で背負う]
Call [過剰努力]
Loop
『私は勝ったのに』
『私より下手なのに』
『……任せられない』
札が輪になって回り始める。最後の札が最初の札を押し出し、また一周する。
「これが、あなたの環状の感情劇です」
詩織はその輪を見つめた。
「……じゃあ、どうすればいいの?」
「私は、あなたの選択までは入力できません」
一条は端末を詩織へ向けた。
「……ずるい。普通、先生なら答えを教えるでしょ」
「選ぶのは、あなたです」
詩織は唇を噛む。
「今までだったら、もっと練習するって言ってた。私が強くなって、私が教えて、私が引っ張るって」
畳の向こうで札が飛ぶ。
「……でも、また同じになる」
詩織はしばらく黙り、それから顔を上げた。
「私、今でも思ってます。もっと本気でやってよって。同じミスをされたら、また腹立つと思う」
「ええ」
「私の方が強いって思う時もある」
「それも、あなたのログです」
詩織は泣きながら、少しだけ笑った。
「……最低」
「評価は後です」
「それ、さっきも聞いた」
「そうでしたか」
詩織は袖で涙を拭った。
「でも、私と同じじゃなきゃ駄目ってことじゃない。私と同じだけ練習しなきゃいけないわけじゃない」
端末に、選択肢が一度に表示された。
Do
Select Case [負けた時、私が選ぶもの]
Case [もっと強くなって、価値を証明する]
Call [過剰努力]
Case [仲間にも同じ基準を求める]
Call [支配]
Case [失敗した自分を許さない]
Call [居場所を否定]
Case [負けても、ここにいていい]
Exit Do
End Select
Loop
詩織の目が、最後の選択肢で止まった。
負けても、ここにいていい。
そんなことを、自分に許したことは一度もなかった。
負けたら悔しい。
もっと練習したい。
次は勝ちたい。
でも、それと――ここにいていいかどうかは、別の話だった。
詩織はゆっくりと指を伸ばした。
選ばれた行が光る。
[PCS SYSTEM]
Exit Do
回り続けていた札の輪が、ゆっくりと止まった。
『……もう帰るんだ』
『私は勝ったのに』
『私より下手なのに』
『……任せられない』
言葉そのものは消えない。四枚の札は、畳に残っている。ただ、もう次の札を呼び出さなかった。
[SYSTEM LOG]
UNLOOP_SUCCESS: pride.pcs
畳の中央で札を払い続けていたもう一人の詩織が、初めて手を止めた。
読み手の声だけが流れていく。
詩織は、五人が横一列に座るあの団体戦を見つめた。
「……私だけじゃないんだ」
めぐるが顔を向ける。
詩織は、並んだ五人を見る。
負けても。
ミスしても。
誰一人、ここから消えていなかった。
「私と同じじゃなくても、それだけであの子たちの場所がなくなるわけじゃない」
詩織は一度、息を吐いた。
「私は全国へ行きたい。もっと練習してほしい。勝ちたい。それは、なくしたくない」
「なくす必要がありますか?」
「……ない」
詩織ははっきり答えた。
「私、勝ちたい」
新しい札が現れた。
『勝ちたい』
今度は、黒く濁らなかった。
「みんなにも勝ってほしい。だから、練習のことは言うと思う。でも……」
五人が横一列に座る、あの団体戦を見た。
「私が取れる札は、私の前の札だけなんだ」
自分の一勝を取った後も、左右の四人はそれぞれの札と向き合っていた。
「私が勝っても、あの子たちの一勝まで取ることはできない」
詩織は自分の指先を見た。
札を取る時、迷っている余裕などない。読まれた音を聞き、配置を思い出し、身体を動かす。何度も練習してきたから、その一瞬を自分で決められる。
後輩だって同じだった。
隣で試合をしている間、詩織にはその子の耳に届いた音も、視界に入った札も分からない。ただ、結果だけを見て「私だったら」と言っていた。
「教えられることは教える。もっと練習してって言いたい時は、ちゃんと言う。でも、取るかどうかを決める瞬間は、あの子のものだから」
後輩の「任せてください」が、もう一度よみがえる。
その言葉を、今度は途中で遮りたくなかった。
「その一勝は、その子のものなんだ」
「……負けても」
詩織が呟く。
「私、ここにいていいんだ」
一条は答えなかった。
「そこは何か言ってくださいよ」
「あなたが今、言いました」
詩織は目を丸くし、それから泣きながら笑った。
畳が白い粒子へほどける。もう一度瞬きをすると、午後の風が頬を撫でていた。
合同練習会の会場。元の軒下だった。
「……戻った」
めぐるが隣で息を吐く。
「お疲れさま」
建物の中から、札を払う音と笑い声が聞こえた。
詩織は和室の扉を見た。
「……行ってきます」
めぐるが頷いた。詩織は自分の足で戻っていった。
扉を開けると、部員たちの視線が集まる。「任せられない」と言われた後輩もいた。
詩織は一度立ち止まってから、正面を向く。
「……さっき、ごめん」
「え……」
「任せられないって言ったこと。本当に、そう思ってた。私の方が強いから、あなたには無理だって」
後輩が俯く。謝っただけで、傷つけた言葉が消えるわけではない。
「でも、あなたの試合まで私のものにしていいわけじゃなかった」
詩織は続けた。
「私、全国に行きたい。もっと練習してほしいって、これからも言うと思う。同じミスを見たら、また腹も立つかもしれない」
それでも、目を逸らさなかった。
「あなたが取る一枚は、あなたの一枚だから。……任せる」
後輩はすぐには答えなかった。少しして、顔を上げる。
「……はい。次は取ります」
――本当に? ちゃんと練習する?
いつもの問いが喉まで上がった。
詩織はそれを飲み込み、頷く。
「うん」
畳に札が並べ直される。五人が横一列に座った。
読み手の声が落ちる。
パンッ――!
一枚の札が飛んだ。
今度は。
詩織の札ではなかった。
*
和室の外で、めぐるは扉の向こうの音に耳を澄ませていた。
「……よかったですね、一条先生」
「彼女の選択です」
一条は黒い端末を閉じようとした。
その時、画面の隅で、別の行が明滅した。
[SYSTEM LOG]
UNKNOWN PROCESS DETECTED
TARGET : 一条律
STATUS : 未解析
前にも表示された、未解析の記録。
だが今度は、詩織の声が頭をよぎった瞬間に、閉じかけた画面が消えずに残った。
――負けても、私、ここにいていいんだ。
一条の指が止まる。
「……先生?」
めぐるが見上げた。
「どうかしました?」
「……いいえ」
一条は画面を伏せた。
「次へ行きましょう」
先に歩き出す白衣の背中を、めぐるは少しの間見つめていた。
和室から、また札を払う音が響いた。
その時、黒い端末が短く震えた。
律が画面を返す。
[WARNING]
ERROR_DETECTED : system.gluttony.pcs
「……また?」
めぐるが覗き込む。
「ええ」
律は端末を閉じた。
街のどこかで。
また一つ。
新しいエラーが発生した。
PROJECT PCS。
次のデバッグが始まる。
第4話・完




