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第3話 嫉妬(envy.pcs)

「凛、今週の土曜空いてる?」


 昼休み。


 同僚がパスタを巻きながら訊いた。


「何?」


「美咲たちと飲むんだけど」


「あー、行く行く」


「よかった。最近凛、付き合い悪いから」


「仕事忙しいんです」


「言い訳」


「うるさい」


 二人で笑う。


 日向凛、二十五歳。


 都内の会社に勤める、ごく普通の会社員だった。


 仕事は嫌いではない。休日は友人と出かけるし、一人で映画を観ることもある。仕事帰りに少し高いスイーツを買って、「今日くらいいいよね」と自分に言い訳する日もあった。


 今の生活に、特別大きな不満があるわけではない。


「そういえば凛、旅行どうなった?」


「旅行?」


「前に言ってたじゃん。海外、一人で行ってみたいって」


「ああ、あれね」


 凛はパスタを口に運んだ。


「まだ」


「まだって。結構前から言ってない?」


「分かってるよ」


「行き先は決めたの?」


「それも、まだ」


「何なら決まってるの」


「行きたい気持ち」


「そこだけ?」


「そこだけ」


 凛が笑うと、同僚も笑った。


「一人で映画とか平気なくせに、海外は駄目なんだ?」


「映画と海外は違うでしょ。言葉も分かんないし」


「じゃあ英語やれば?」


「それができたら苦労してません」


「開き直った」


「そのうちやるって」


 言いながら、凛は少しだけ笑った。


 行ってみたい場所はある。


 知らない街を歩いて、気になる店に入って、誰にも予定を合わせずに一日過ごしてみたい。


 ただ、いざ具体的に考え始めると、仕事の予定や言葉のことが気になってくる。


 急ぐ理由もなかった。


「まあ、休みが取れたらね」


 そう言って、凛はグラスの水を飲んだ。


 同僚がスマートフォンを操作しながら言った。


「そういえばさ、美咲、結婚するらしいよ」


「え、ほんと?」


「うん。来月だって」


「へえー!」


 凛は顔を上げた。


「いいじゃん。おめでたいね」


「最近ほんと多いよね。結婚」


「ね」


「この前も大学の子一人結婚したし」


「そうなんだ」


「二十五って、そういう歳なのかな」


「やめて」


「何が」


「急に現実見せるの」


「凛は?」


「何が?」


「彼氏」


「いません」


「即答」


「悪かったね」


 同僚が笑って、もう一口パスタを食べた。


「でも前に付き合ってた人いたじゃん」


 フォークを持つ凛の手が、一瞬だけ止まった。


 皿の上で、クリームソースが細く糸を引いている。


 ふと、昔よく行った店を思い出した。


 彼はいつも、メニューを開いて長いこと迷っていた。


『今日は違うのにしようかな』


『どうせいつものやつでしょ』


『いや、今日は冒険する』


 そう言って、店員が来ると決まっていた。


『カルボナーラで』


『ほら!』


 凛が笑う。


 食事が始まると、凛は自分のサラダからミニトマトを一つ、彼の皿へ移した。


『また?』


『嫌いなんだもん』


 彼は呆れたように笑って、それを食べた。


 思い出したのは、そんな、どうでもいいことだった。


「……ああ」


 凛はフォークを動かした。


「とっくに別れたよ」


「そっか」


「何年前の話してんの」


「結構長かったじゃん」


「まあね」


 同僚が何気なく言った。


「今何してるんだろ」


 凛は肩をすくめた。


「知らない」


 嘘ではない。


 本当に知らなかった。


 連絡も取っていないし、共通の友人を通して近況を聞くことも、ほとんどなくなっていた。


「未練とかないの?」


「ないない」


「即答だな」


「だってもう終わった話だし」


 凛は笑った。


 本当に。


 もう終わった話だった。


 その時までは。


     *


 午後三時。


 オフィスの窓から差し込む陽射しが、デスクの上を白く照らしていた。


「日向さん、すみません。ちょっといいですか?」


「ん?」


 凛がパソコンから顔を上げると、隣の席に立っていた後輩が、困ったようにノートパソコンを抱えていた。


「この集計、数字がどうしても合わなくて……」


「あー、たぶんここ」


 凛は椅子を少しずらした。


「このセルだけ参照先が一個ずれてる」


「あっ……ほんとだ」


「あるある。私もよくやるよ」


「日向さんでもやるんですか?」


「失礼だな。私を何だと思ってるの」


 二人が笑う。


「ありがとうございます!」


「代わりにコーヒー」


「えっ」


「冗談」


「びっくりした……」


 後輩が笑いながら席へ戻っていく。


 凛も小さく笑って、仕事へ戻った。


 しばらくして、後輩が自分の仕事を終えたことを上司に報告している声が聞こえた。


「さっきの集計、直ったんだ。よかったね」


 凛は画面から目を離さず、小さく頬を緩めた。


 そのまま自分の資料を開き直し、続きを入力した。


     *


 その日の帰り。


 電車の中。


 凛はスマートフォンを眺めていた。


 友人の投稿。


 仕事関係。


 ニュース。


 天気。


 何気なく指を滑らせる。


 ふと、検索欄に指が止まった。


 昼休みの会話が頭をよぎる。


『今何してるんだろ』


「……」


 別に、調べるほどのことでもない。


 そう思ったのに、凛は一つの名前を入力した。


 昔付き合っていた男の名前。


「……何してんだろ、私」


 小さく笑う。


 ただの興味。


 それだけ。


 何年も前の恋人が、今何をしているのか。


 ちょっと気になっただけだった。


 検索結果を開く。


 数枚の写真。


 仕事。


 旅行。


 食事。


 昔より少し髪型が変わっている。


「……老けた?」


 凛は思わず笑った。


 画面の中の彼は、知らない店で、知らない誰かと食事をしていた。


 当たり前だ。


 別れてから、もう何年も経っている。


 自分だって、その間にいろいろな人と会って、いろいろな場所へ行った。


 指を滑らせる。


 さらに下。


 そして。


 止まった。


 白いドレス。


 隣で笑う女性。


 スーツ姿の彼。


『結婚しました』


 凛は、画面を見つめた。


 電車の走行音が、やけに大きく聞こえる。


「……そっか」


 彼が、結婚した。


 そのことが頭に入るまで、ほんの少し時間がかかった。


 胸の奥が、小さく痛んだ。


 長く付き合った相手なのだから、何も感じない方がおかしい。


 そう思った。


「……おめでとう」


 誰にも聞こえない声で言う。


 画面を閉じた。


 スマートフォンを膝の上へ置き、窓の外を見る。


 夜の街が流れていく。


 数秒後。


 凛は、またスマートフォンを持ち上げた。


 開く。


 同じ写真。


 二人の笑顔。


 凛は今度は彼を見た。


 昔と同じ笑い方。


「……幸せそう」


 画面を閉じる。


 数秒後。


 もう一度開く。


 今度は。


 彼ではなく。


 隣の女性を見ていた。


 髪。


 目。


 笑顔。


 肌。


 ドレス。


 写真を拡大する。


「……」


 自分でも気づかないうちに。


 唇を噛んでいた。



     *



 雑踏の向こう。


 一条律が足を止めた。


 白衣のポケットから、黒い端末を取り出す。


 画面が一瞬だけ乱れた。



[SYSTEM LOG]


ERROR DETECTED


PROCESS : envy.pcs


STATUS : ループ形成中


PATIENT : 日向凛



 律は無言で画面を見つめる。


 文字列が流れた。



Do

Call [閲覧]

Call [比較]

Call [痛み]

Call [再閲覧]

Loop



「……一条先生?」


 隣を歩いていた夜坂めぐるが振り返った。


「どうしました?」


「いえ」


 律は端末を閉じた。


「まだいいでしょう」


「?」


 めぐるは首を傾げる。


 二人は、そのまま雑踏へ消えていった。



     *



 夜。


 凛はベッドの上でスマートフォンを見ていた。


 あの女性のプロフィール。


 名前。


 仕事。


 趣味。


 旅行。


 料理。


 友人。


「……同い年なんだ」


 プロフィールを読む。


 写真を一枚開く。


「美容関係……」


 次。


「旅行好きなんだ」


 次。


「……こういう服着るんだ」


 誰に聞かせるわけでもなく。


 独り言が増えていく。


 写真を閉じる。


 別の写真を開く。


「普通じゃん」


 呟いた。


 何が普通なのか。


 自分でも分からない。


「別に……めちゃくちゃ可愛いわけじゃないし」


 また一枚。


 笑顔。


「……でも写真写りいいな」


 閉じる。


 別の写真。


「仕事も普通」


 次。


「友達多そう」


 閉じる。


 また開く。


 凛はふと、自分のプロフィールを開いた。


 自分の写真。


 友人との食事。


 旅行。


 会社のイベント。


「……」


 再び女性のプロフィール。


 そして。


 自分。


 女性。


 自分。


 女性。


 無意識に。


 交互に見比べていた。


 凛は突然スマートフォンを伏せた。


「……何してんの、私」


 胸がざわつく。


 水を飲む。


 歯を磨く。


 ベッドへ入る。


 照明を消す。


 目を閉じる。


 五分。


 十分。


 眠れない。


 手を伸ばす。


 スマートフォン。


 また開く。


「……ちょっとだけ」


 誰に言い訳しているのか。


 自分でも分からない。


 気づけば。


 彼のプロフィールより。


 彼女のプロフィールを見ている時間の方が、長くなっていた。



     *



 翌朝。


 眠い。


「最悪……」


 洗面台の鏡を見る。


 少し目の下にクマがある。


 凛は化粧をしながら、昨夜の自分を思い出した。


「ほんと馬鹿」


 会社へ向かう。


 電車。


 友人の投稿が流れてくる。


 結婚式。


 また。


 あの二人。


 凛は一度スクロールして通り過ぎた。


 数秒後。


 戻った。


 見る。


 妻。


 指輪。


 笑顔。


 コメント。


『本当にお似合い』


『理想の夫婦』


『ずっと幸せでいてね』


 胸の奥に。


 細い針が刺さる。


「……そんなに?」


 口から出た。


 凛は周囲を見る。


 誰も聞いていない。


 再び画面を見る。


「そんなにいい?」


 そして。


 心の中に浮かぶ。


 ――私より?


 凛の指が止まった。


 画面を消す。


「何考えてんの、私……」


 自分を叱る。


 会社へ着く。


 仕事が始まる。


 午前中は忙しかった。


 資料。


 電話。


 打ち合わせ。


 後輩から相談。


 凛はいつも通り対応した。


 昼休み。


「凛、今日機嫌悪い?」


 同僚に言われた。


「え?」


「なんかぼーっとしてる」


「寝不足」


「夜更かし?」


「まあね」


「ゲーム?」


「そんな感じ」


 凛は笑った。


 午後。


 仕事をしている最中。


 ふと。


 気になる。


 スマートフォン。


 鞄の中。


 通知は来ていない。


 それでも。


 気になる。


 トイレへ行く。


 個室へ入る。


 スマートフォンを開く。


 また。


 あのプロフィール。


 凛は自分で自分に呆れた。


「……いや、本当に何してるの」


 でも。


 指は止まらない。


 新しい写真。


 彼と妻が食事をしている。


 妻が笑っている。


「……ムカつく」


 声に出た。


 凛は固まった。


「……え?」


 自分が言った言葉。


 誰に?


 何をされた?


 何もされていない。


「……最低」


 スマートフォンを閉じる。


 仕事へ戻る。


 だが。


 胸の奥で。


 さらに別の言葉が浮かぶ。


 ――失敗すればいいのに。


 凛の顔が強張る。


 ――仕事で失敗したり。


 やめろ。


 ――喧嘩したり。


 やめろ。


 ――別れればいいのに。


「……違う」


 小さく呟く。


 ――幸せじゃなくなればいいのに。


「やめて」


 自分の中から出てきた言葉なのに。


 まるで誰かに言われているようだった。



     *



 夜。


 友人とのグループメッセージ。


『この前の式めっちゃ良かった!』


『二人ほんと幸せそうだった』


 凛は画面を見つめた。


 返信欄。


『そうなんだ!良かったね!』


 入力。


 送信。


 嘘ではない。


 本当に。


 そう思う自分もいる。


 幸せならいい。


 別れた相手なのだから。


 幸せになって当然だ。


 そう思う。


 それなのに。


 数分後。


 また妻のプロフィールを開く。


 笑顔を見る。


 胸が痛い。


 閉じる。


 また開く。


 比較する。


 落ち込む。


 自分を責める。


 また見る。


 凛自身は。


 まだ気づいていなかった。


 これは。


 一つの感情ではない。


 比較。


 敗北。


 嫉妬。


 自己嫌悪。


 そして。


 もう一度比較へ戻る。


 出口のない感情の循環。


 それこそが。


 PCSが検出した――


 環状の感情劇だった。



     *



 数日後。


 雨の夜。


 凛は駅近くの小さな公園のベンチに座っていた。


 傘も差さず。


 スマートフォンを握っている。


「風邪をひきますよ」


 声がした。


 顔を上げる。


 白衣の男。


 その隣には、黒髪の女性。


「……誰ですか」


「一条律です」


「夜坂めぐるです」


「いや、名前じゃなくて」


「そうですか」


「そうですかじゃないでしょ」


 めぐるが横から小声で言う。


「先生、そこはもう少し説明した方が……」


「説明しても怪しいことに変わりはありません」


「自覚あるんですね」


 凛は二人を怪訝そうに見た。


「何なんですか、本当に」


 律は凛の手元を見る。


「閉じた写真を、なぜまた開くんです?」


 凛の表情が止まった。


「……は?」


「何度も閉じている」


「……見てたんですか?」


「ええ」


「キモ」


「否定はしません」


「先生、そこは否定してください」


 思わず。


 凛の口元が少しだけ緩んだ。


 だが。


 すぐに消える。


「……帰ってください」


「分かりました」


 律は踵を返した。


「えっ」


 めぐるが驚く。


「先生?」


 二人が歩き出す。


「……待って」


 凛が呼び止めた。


 律が振り返る。


「何なんですか」


「何がです?」


「さっきの」


「閉じた写真を、なぜまた開くのか」


 律は言った。


「それを知っているのは、あなたでしょう」


「……」


「今夜も見るでしょうね」


 凛の指が、スマートフォンを強く握った。


「閉じて」


 律は続ける。


「また開く」


 黒い端末が点灯する。



Do

Call [彼を見る]

Call [彼女を見る]

Call [比較]

Call [自己評価]

Call [再閲覧]

Loop



「……何、それ」


「あなたが繰り返している処理です」


「意味分かんない」


「そうですか」


「普通でしょ」


 凛は強く言った。


「元彼が結婚したら気になるくらい」


「ええ」


「何年も付き合ってたんだから」


「ええ」


「相手の女がどんな人か見るくらい……普通でしょ」


「そうかもしれませんね」


 否定されない。


 凛は逆に苛立った。


「じゃあ何なんですか」


「私は」


 律は端末を見る。


「普通かどうかを聞いていません」


「……」


「なぜ、苦しくなると分かっていて見るのか」


 凛の表情が止まる。


「なぜ閉じた後、また開くのか」


「……」


「なぜ彼より、彼女を見ている時間の方が長いのか」


「……うるさい」


「それを聞いています」


「まだ好きだから」


 凛は吐き捨てる。


「彼のことが」


「そうですか」


「何?」


「それが答えなら」


 律は端末を閉じた。


「ここで終わりです」


「……」


 また。


 律は歩き出す。


「待ってよ!」


 凛が立ち上がる。


「何なの、その言い方!」


 律が振り返る。


「まだ何かありますか?」


「……」


「彼が好きだから見る」


「……」


「それで納得できているなら」


 一拍。


「なぜそんな顔をしているんです?」


 凛は。


 答えられなかった。


 律は右手を上げ、指を鳴らした。


 パチン――。


 その瞬間。


 風が止まった。


 雨粒が空中で静止する。


 街の音が消える。


「……え?」


 凛が周囲を見る。


 世界が歪んだ。


 街灯。


 ベンチ。


 木々。


 雨粒。


 すべてが細かなデータ粒子へ変わっていく。


<<PCS SYSTEM>>


<<CONNECTING...>>


<<PCS NEURAL LINK>>


 足元が崩れる。


「ちょっ――!」


 めぐるが凛の腕を掴んだ。


「大丈夫!」


「何が――!」


 律の声だけが静かに響いた。


「接続しました」



     *



 凛が目を開ける。


「……ここ……」


 そこは。


 巨大な円形の回廊だった。


 壁一面に写真が浮かんでいる。


 昔の彼。


 笑っている彼。


 凛と並ぶ彼。


 二人で行った旅行。


 誕生日。


 別れた日。


 その中に、一枚だけ、妙にありふれた光景があった。


 パスタ屋のテーブル。


 メニューを開いた彼と、向かいに座る凛。


 写真のような光景から、声がした。


『今日は冒険する』


 少し間があって。


『カルボナーラで』


『ほら!』


 笑い声。


 彼の皿には、ミニトマトが一つ増えている。


『また?』


『嫌いなんだもん』


 凛は思わず口元を緩めた。


 こんな写真を撮った覚えはない。


 それでも、あの日のテーブルは覚えていた。


 彼が笑っていたことも。


 自分が、笑っていたことも。


「……何で、こんなのまで」


「……やめて」


 凛が立ち止まる。


「何でこんなもの」


 律は何も言わない。


 凛は回廊を進む。


 写真を見る。


「ほら」


 凛が振り返る。


「やっぱり彼ばっかりじゃん」


「ええ」


「だから言ったでしょ」


「何をです?」


「まだ好きだから」


 律は答えない。


 凛は歩き続ける。


 一周。


 二周。


 三周。


 写真。


 彼。


 思い出。


 そして。


 再び。


 同じ場所。


「……また?」


 歩く。


 また同じ。


「何これ」


「回廊です」


「見れば分かる!」


 凛が走る。


 角を曲がる。


 同じ写真。


 同じ場所。


「なんで戻るの!」


「戻っているからでしょう」


「それじゃ意味分かんない!」


「そうですか」


 律は端末を見る。


「なら」


 一つの写真を指す。


「もう少し進んでみましょう」


 壁が歪む。


 写真が変化する。


 彼。


 その隣。


 妻。


 次。


 妻。


 次。


 妻。


 また。


 妻。


 凛の顔が固まる。


「……」


「彼が好きだから来たんですよね?」


「……そう」


「彼を見ていますか?」


「……」


 凛は何も言えない。


 写真の横に文字列が浮かぶ。



AGE : 同年代


JOB : 美容関係


APPEARANCE : 比較対象


RELATIONSHIP : 配偶者


SELECTED : 妻


NOT SELECTED : 日向凛



「……やめてよ」


 凛が後ずさる。


「こんなの私が考えてるんじゃない」


「では」


 律が聞く。


「誰が考えているんです?」


「……」


「これはあなたの精神世界です」


「でも!」


 凛は叫ぶ。


「普通に気になるだけ!」


「ええ」


「どんな人なのかなって」


「ええ」


「私より可愛いのかなとか」


 言ってから。


 止まる。


 律は何も言わない。


 凛が口を閉じる。


「……」


 さらに文字が浮かぶ。



HEIGHT : 比較


STYLE : 比較


JOB : 比較


FRIENDS : 比較


HAPPINESS : 比較



「やめて」


「何をです?」


「見せないで」


「なぜ?」


「私、こんな……」


 凛は頭を振る。


「こんなことばっかり考えてない」


「では」


 律は画面を見る。


「他には?」


「……」


「何を考えていました?」


 凛は答えられない。


 律は追わない。


 代わりに。


 回廊が進む。


 次の区画。


 妻の写真が並ぶ。


 その一枚に。


 赤い文字。



[私より可愛くない]



 次。



[仕事も大したことない]



 次。



[何がそんなにいいの]



 凛が叫ぶ。


「やめて!」


「思っていない?」


「……!」


「違いますか?」


「だって……!」


 凛は拳を握る。


「それくらい思うでしょ!」


「ええ」


「元彼の奥さんだよ?」


「ええ」


「比べるでしょ、普通!」


「普通かどうかは」


 律は凛を見る。


「重要ですか?」


「……」


「普通なら」


 一歩。


「苦しくなくなるんですか?」


 凛の顔が歪んだ。


「……うるさい」


「そうですか」


「私の方が長く一緒にいた!」


 声が回廊へ響く。


「私の方が彼のこと知ってた!」


 写真が震える。


「私の方が支えてた!」


 回廊が歪む。


「私の方が……」


 言葉が止まる。


「私の方が……」


 拳を握る。


「いい女だった……」


 静寂。


 律は表情を変えない。


「そう思っていますか?」


「……」


「それとも」


 一歩。


「そう思いたいんですか?」


 凛の顔が歪んだ。


 回廊の壁から。


 声が聞こえ始める。


『あの人がいなければ』


『私が選ばれていた』


『私の方が良かった』


『でも選ばれなかった』


『私には何か足りなかった』


『私は負けた』


『私は劣っている』


『私には価値がない』


「やめて……」


 凛が耳を塞ぐ。


 別の声。


『あの女が不幸になればいい』


「やめて」


『失敗すればいい』


「やめて!」


『別れればいい』


「違う!」


『全部なくなればいい』


「違うって言ってるでしょ!」


 律が端末を向ける。


 画面に文字が並んでいる。


 凛自身が。


 誰にも言わなかった言葉。


 声にすらしなかった言葉。


 凛は震えた。


「……そんなの」


 声が掠れる。


「……思っただけ」


「ええ」


「何もしてない」


「ええ」


「本人に言ってない」


「ええ」


「だったら……」


 凛は唇を噛む。


「……いいじゃん」


 律は何も言わない。


「思うくらい……」


 凛の目に涙が滲む。


「いいじゃん……」


「思ったんですね」


 その一言だった。


 凛は俯いた。


「……思った」


 小さな声。


「不幸になればいいって」


 涙が落ちる。


「別れればいいって」


 拳を握る。


「私じゃない女を選んだこと……後悔すればいいって」


 凛は笑った。


 泣きながら。


「……最低だよね、私」


 めぐるが口を開きかけた。


 だが。


 何も言わなかった。


 凛がめぐるを見る。


 めぐるは。


 ほんの少しだけ。


 苦しそうな顔をしていた。


 慰めるでもなく。


 否定するでもなく。


 どこか。


 自分自身にも覚えがあるような。


 そんな顔。


 凛は目を逸らす。


「最低だよ……私」


 律が尋ねる。


「最低なんですか?」


「……え?」


「それを決めたのは誰です?」


「……」


「人を妬んだ」


「……」


「不幸になればいいと思った」


「……」


「だから」


 律は凛を見る。


「あなたは最低なんですか?」


 凛は何も言えない。


 律も。


 答えを与えなかった。


 代わりに。


 回廊の中央に、一枚の写真が浮かんだ。


 昔の彼。


「もし」


 律が言う。


「彼が今、あなたのところへ戻ってきたら」


「……」


「嬉しいですか?」


 凛は写真を見つめる。


「もう一度付き合いたいですか?」


「……」


 長い沈黙。


「……分かんない」


「そうですか」


「……いや」


 凛は首を振る。


「たぶん……違う」


 自分の言葉に。


 自分で驚く。


「私……」


 写真を見る。


「彼が欲しいんじゃない」


 回廊が静かになる。


「私……」


 凛は唇を震わせた。


「私を選ばなかったことを……後悔してほしかった」


 めぐるが凛を見る。


「私の方が良かったって」


「……」


「私を捨てたのは間違いだったって」


 涙が落ちる。


「思ってほしかった」


 回廊の奥。


 新しい文字が浮かぶ。


『あの女が不幸になればいい』


 凛はそれを見る。


「……そう」


『別れればいい』


「そうだよ」


『全部なくなればいい』


「……そう思った」


 凛は。


 逃げなかった。


「だって……」


 声が震える。


「そうしたら……」


 長い沈黙。


「私が……間違ってなかったことになるから」


 回廊が大きく揺れた。


 写真が崩れ。


 その奥から、巨大な処理構造が姿を現す。



Do

Call [他人の幸せを見る]

Call [比較]

Call [選ばれなかった私]

Call [敗北判定]

Call [相手の不幸を願う]

Call [自己嫌悪]

Call [正しかった証拠を探す]

Loop



 凛は見上げた。


「……これ」


「あなたが繰り返している処理です」


「最初のと違う」


「ええ」


 最初は。


 見る。


 比べる。


 痛む。


 また見る。


 それだけに見えた。


 だが。


 その下には。


 さらに深い循環があった。


 比較。


 敗北。


 嫉妬。


 相手の不幸を願う。


 そんな自分を嫌う。


 そして。


 自分が間違っていなかった証拠を求めて。


 また相手を見る。


 同じ場所へ戻る。


 感情が。


 感情を呼び。


 思考が。


 次の思考を生み。


 本人すら気づかないまま。


 同じ苦しみを繰り返す。


 それが。


 環状の感情劇。


 凛自身が作り続けていた。


 出口のない感情の輪だった。


「……彼女が幸せだから」


 凛が呟く。


「私が負けたんじゃない」


 律は黙っている。


「私が……」


 凛は自分の胸に手を置いた。


「彼女の幸せを使って……」


 息を吸う。


「自分を……負けにしてたんだ」


 凛は、壁に並ぶ光景を見た。


 彼と妻の結婚写真。


 その隣に、あのパスタ屋があった。


『カルボナーラで』


『ほら!』


 笑っている自分の声。


 景色が揺れた。


 駅の改札。昔の凛が片手を上げる。


『じゃ、私こっち』


『うん、またね』


 数歩進んで振り返ると、彼も振り返っていた。


 二人で笑った。


 次に会うことを、疑っていなかった。


 今度はスマートフォンの画面が浮かんだ。


『今週、会える?』


『ごめん。仕事がちょっと』


『そっか。じゃあ来週にしよ』


 別の日の画面。


『休み取れそう?』


『まだ分かんない』


『落ち着いたら、どっか行こうね』


 落ち着いたら。


 休みが取れたら。


 来月になったら。


 画面が切り替わるたびに、二人の言葉は少なくなった。


 そして、また改札。


 別れた夜。


『……また、いつか会えるかな』


『うん。まあ、どこかで』


 彼が向こうへ歩いていく。


 凛は、その背中を見ていた。


 呼び止めたいと思った。


 けれど、何と言えばいいのか分からなかった。


 彼の姿が、人混みに紛れた。


 凛は結婚写真を見た。


 もう一度、パスタ屋の光景を見た。


「……楽しかったんだよ」


 彼と並んで笑う、あの頃の自分がそこにいた。


 律は何も言わない。


 凛が端末を見る。


「これ……消せるんですか」


「何をです?」


「嫉妬」


 律は少し考えた。


「無理でしょうね」


「……は?」


「少なくとも」


 律は端末を見る。


「私は、そんな方法を知りません」


「先生」


 めぐるが呆れた顔をする。


「もうちょっと言い方ありません?」


「事実です」


 凛は涙を拭いながら笑った。


「何それ……」


 その瞬間。


 処理構造が変化した。



Do

Select Case [嫉妬した私が選ぶ行動]


Case [比較を続ける]

Call [敗北判定]


Case [相手の不幸を願う]

Call [自己嫌悪]


Case [自分の価値を他人の選択で決める]

Call [再比較]


Case [嫉妬している自分を認める]

Exit Do


End Select

Loop



 凛は文字を見つめる。


「……認める」


 声が震えた。


「羨ましい」


 一つ。


「私も選ばれたかった」


 一つ。


「幸せそうって言われたかった」


 一つ。


「愛されてるって……思いたかった」


 涙が頬を伝う。


「負けたくなかった」


 そして。


「私……めちゃくちゃ嫉妬してる」


 回廊から。


 音が消えた。


 律が尋ねる。


「あなたは誰と競争していたんです?」


 凛は。


 しばらく答えなかった。


 妻を見る。


 彼を見る。


 自分を見る。


 そして。


「……私」


 顔を上げる。


「私、あの人と戦ってたんじゃない」


 凛は笑った。


「ずっと……自分で、自分を負けにしてた」


 処理構造が揺れる。


「でも」


 凛は律を見る。


「また嫉妬したら?」


「また気づけばいい」


「また嫌いって思ったら?」


「思えばいい」


「また……不幸になればいいって思ったら?」


 律は凛を見る。


「その後、何をするかまで同じである必要がありますか?」


 凛は目を見開いた。


 そして。


 ゆっくり息を吐いた。


「……そっか」


 凛は回廊を見渡した。


 カルボナーラを前に笑っている二人。


 別れた夜の改札。


 そして、彼と妻の結婚写真。


 どの光景も、消えていない。


 結婚写真を見ると、まだ胸が痛んだ。


 凛は息を吸った。


 処理構造を見る。


「私」


 凛は言った。


「嫉妬してる」


 今度は。

 逃げなかった。

「でも――もう、自分を負けにするために見続けるのはやめる」

 処理構造が、静かに揺れた。

[PCS SYSTEM]

Exit Do

[SYSTEM LOG]


UNLOOP_SUCCESS: envy.pcs



 巨大な円形回廊に。


 一筋の出口が現れた。


 だが。


 壁の写真は消えなかった。


 彼の写真。


 彼女の写真。


 結婚式。


 笑顔。


 すべて。


 そこに残っている。


「……消えないんですね」


 凛が言った。


「ええ」


「嫉妬も?」


「恐らく」


「ひどい先生」


「よく言われます」


「私が言ってます」


 めぐるが横から言う。


 凛は小さく笑った。


 そして。


 写真の横を歩いた。


 消すのではなく。


 通り過ぎた。



     *



 光がほどけるように。


 円形回廊の輪郭が崩れていった。


 壁に残っていた写真も。


 浮かんでいた文字列も。


 細かなノイズへ変わり、闇の中へ消えていく。


 次の瞬間。


 雨音が戻った。


「……あ」


 凛が瞬きをする。


 いつもの公園。


 街灯。


 濡れたベンチ。


 遠くを走る車の音。


 精神世界から、現実へ戻っていた。


「戻った……?」


「ええ」


 律が黒い端末へ視線を落とす。


 envy.pcsの処理完了ログが消えていく。


 その時だった。


 ――ザッ。


 画面に、一瞬だけノイズが走った。


「……?」


 律の指が止まる。


 凛の解析画面が消える。


 代わりに。


 見覚えのないログが表示された。



[SYSTEM LOG]


UNKNOWN PROCESS DETECTED


TARGET : 一条律


STATUS : 未解析



 律の目が。


 ほんのわずかに細くなった。


「一条先生?」


 めぐるが覗き込む。


 だが。


 次の瞬間。


 表示は消えた。


 いつもの待機画面へ戻る。


「……何か出ました?」


「いえ」


 律は端末を白衣のポケットへ戻した。


「何でもありません」


「そうですか?」


「ええ」


 いつもと変わらない声だった。


 律は歩き出す。


 めぐるも、その後を追った。



     *



 翌朝。


 電車の中。


 凛のスマートフォンに通知が届いた。


 あの女性の新しい投稿。


 指が止まる。


 一度。


 閉じる。


 数秒。


 また気になる。


 開く。


 二人で食事をしている写真。


 胸が。


 少し痛んだ。


「……いいな」


 小さく呟く。


 妻の服を見る。


 店を見る。


 コメントを見る。


 そして。


 また。


 比較しそうになる。


 ――私だったら。


 そこで。


 凛は止まった。


「……」


 ほんの一瞬。


 思う。


 ――別れたりしないかな。


 凛は画面を見つめた。


 数秒。


 口元が緩む。


「……またやってる、私」


 自分を責める声ではなかった。


 ただ。


 気づいた声だった。


 スマートフォンを閉じる。


 数秒。


 再び画面を開く。


 だが。


 今度はSNSではなかった。


 以前保存したままになっていた、英会話の教材。


 半年前。


 旅行番組を見て。


「一人で海外とか行ってみたいな」


 そう思った。


 その日にアプリを入れた。


 けれど。


 翌日には開かなかった。


 忙しいから。


 言葉が通じなかったら困るから。


 行き先も、まだ決めていないから。


 仕事が落ち着いたら。


 色々な理由をつけた。


 通知欄には。


 まだ彼女の投稿が残っている。


 凛は少しだけ迷った。


 胸の奥に。


 嫉妬がある。


 消えていない。


 でも。


「……まず」


 英会話の教材を開く。


「こっちかな」


 最初のレッスン。


 簡単な挨拶。


 凛は少し笑った。


 電車が走り出す。


 誰かが幸せだから。


 自分が負けたわけではない。


 誰かが不幸になったから。


 自分が勝つわけでもない。


 選ばれなかったことが。


 自分の価値を決めるわけでもない。


 嫉妬は。


 たぶん。


 また来る。


 比較も。


 またする。


 そのたびに。


 醜いことを考えるかもしれない。


 でも。


 来たことには。


 気づける。


 そして。


 その後に。


 何をするかは。


 自分で選べる。



     *



「一条先生」


 朝の街を歩きながら、めぐるが言った。


「嫉妬って、悪い感情なんですかね」


「悪いかどうかは知りません」


「またそれ」


「ただ」


 律は黒い端末をポケットへ入れる。


「便利ではありますよ」


「便利?」


「自分が何を欲しがっているのか」


 律は前を向いた。


「かなり分かりやすく教えてくれる」


 めぐるは少し考える。


「じゃあ、凛さんが本当に欲しかったものって何だったんでしょう」


「本人がこれから考えることでしょう」


「先生、ほんと答え言いませんよね」


「私が答えたら」


 律は淡々と言った。


「また誰かの答えを生きることになるでしょう?」


 めぐるは一瞬黙った。


「……そういうこと、たまに格好つけて言いますよね」


「事実を言っただけです」


「はいはい」


 その時。


 律のポケットの中で。


 黒い端末が震えた。


 取り出す。


 画面に。


 一行だけ表示される。



[WARNING]


ERROR_DETECTED : system.pride.pcs



「……また?」


 めぐるが覗き込む。


「ええ」


 律は端末を閉じた。


 街のどこかで。


 また一つ。


 新しいエラーが発生した。



 PROJECT PCS。


 次のデバッグが始まる。



 第3話・完



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