↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/10

第2話 強欲(greed.pcs)

朝。


 咲良家の台所には、トーストの焼ける匂いと、二人分の騒がしい声が満ちていた。


「お姉ちゃん! 靴下、どっちがいい?」


 小学一年生の弟が、左右で色の違う靴下を掲げている。


「どっちって……それ、片方ずつじゃん」


「えー、じゃあ、青!」


「もう片方の青、どこやったの?」


「……あれ?」


 葵は思わず笑い、弟と一緒に床を覗き込んだ。


「ソファの下は?」


「ない!」


「ランドセルの横は?」


「……あった!」


「ほら。次は二つ揃えておきなよ」


「はーい! ありがとう、お姉ちゃん!」


 弟は片足で跳ねながら廊下へ駆けていく。


 入れ替わるように、小学三年生の弟がランドセルを背負って現れた。


「えっ、もう準備できたの?」


「うん。時間あるから先に行くね」


「忘れ物は?」


「確認したって!」


「ハンカチは?」


「入ってる!」


 三年生の弟はポケットを軽く叩いて見せた。


「……そっか。気をつけてね」


「行ってきまーす!」


 玄関の扉が閉まる。


 葵は少しの間、そこを見つめた。


 去年までは、忘れ物がないか一緒に確認していたのに。


「……大きくなったなあ」


 口元が緩む。


 そのとき、廊下の向こうから声が飛んだ。


「お姉ちゃーん! 青い靴下、片っぽない!」


「さっき見つけたでしょー!?」


 葵は笑いながら、もう一度廊下へ走った。


*


学校では、進路希望調査の用紙が配られた。


 葵は名前を書き、ペンを止めた。


 進学先。将来やりたいこと。


 白い欄が、思ったより広かった。


「……何、書こ」


 周りでは、友人たちが志望校や将来の話をしている。


 葵にも、気になる学校がないわけではなかった。県外にも行ってみたいと思う日がある。


 でも、まだ、はっきりとは決められない。


 用紙を鞄にしまいかけたところで、友人が声をかけてきた。


「葵! 日曜さ、映画行かない? 終わったらモールも寄ろうよ」


「えっ、あれ観るの? 行きたい!」


「よし、決まり!」


「あ、待って。日曜って……」


 葵はスマートフォンの予定を開いた。


 弟のサッカーの試合が、同じ日にある。


「……弟の試合もあるんだった」


「そっか。じゃあ時間分かったら教えて」


「うん、ごめん。どっちも気になるんだよね」


 友人は笑って、先に教室を出ていった。


 葵は、白紙の進路希望調査と映画の予定を、交互に見つめた。


 自分のしたいことは、何だろう。


 今すぐ答えを出せる気はしなかった。


*


帰宅した三年生の弟は、玄関で靴を脱ぎながら何気なく言った。


「この前のケンカ、仲直りしたよ」


「えっ、本当? よかったじゃん!」


「別の友達に相談してさ。俺から謝った」


「……自分で?」


「うん。明日また一緒にサッカーする」


「そっかあ。よかったね」


 弟は照れくさそうに笑って、自分の部屋へ向かった。


 葵は、その背中を見送った。


 友達と仲直りできて、本当によかった。


 けれど、胸の奥で小さな言葉が浮かぶ。


 ……私にも、話してくれればよかったのに。


 葵は、自分でその言葉に少し驚いた。


 弟が一人で解決できたのは、嬉しいことのはずだった。


*


夕方、友人とメッセージをやり取りしていると、下の弟が折り紙の箱を抱えてやってきた。


「お姉ちゃん、これ見て!」


「ん? 何それ」


「ちがう! プレゼント! クラスの友達、誕生日なんだって!」


「へえ。誰への?」


 葵はスマートフォンの画面を伏せた。


 今、友達と話していたところなのに。


 少しだけ、面倒だと思った。


 それでも、弟が真剣な顔で箱を差し出すと、つい身を乗り出した。


「その子、何が好きなの?」


「虫探し!」


「虫かあ……じゃあ、こんなのは?」


 葵がスマートフォンで見せたのは、昆虫の絵が入った小さな消しゴムだった。


「あっ、これ! 箱にも入る!」


「いいじゃん。あとで一緒に買いに行こっか」


「やったあ! ありがとう、お姉ちゃん!」


 弟の笑顔を見て、葵の胸がふっと温かくなった。


 面倒だと思ったことも、頼ってもらえて嬉しかったことも、どちらも本当だった。


*


翌日、リビングのテーブルには、折り紙の箱と昆虫の消しゴム、それから細いリボンが並んでいた。


「お兄ちゃん、ここどうやるの?」


「ちょっと待って。動画、もう一回見るから」


 二人がスマートフォンを覗き込み、頭を寄せ合う。


「プレゼント包んでるの? リボン、結ぼっか?」


「大丈夫! 俺たちでやってみる」


 三年生の弟がそう言うと、下の弟も大きく頷いた。


「うん!」


「……そっか」


 葵は、二人の後ろで立ち止まった。


 下の弟はリボンを輪にし、三年生の弟が横から教える。


「違うって、こっちから通すんだよ!」


「えー、さっきそうやったじゃん!」


「もう一回!」


 二人は笑い合った。


 成長したなあ。


 仲がいいなあ。


 葵は、そう思った。


 その直後、胸の中に別の言葉が生まれた。


 ……二人だけじゃ、うまくできなきゃいいのに。


「…………え?」


 葵は、自分の考えに立ちすくんだ。


 何、それ。


 弟たちが困ってほしいなんて。


 そんなこと、思うはずがない。


 テーブルの向こうで、兄弟が小声で話し始めた。


「……あれも作ろうぜ」


「うん。お姉ちゃんには内緒ね!」


 二人がくすくす笑い、葵に気づくと慌てて口をつぐんだ。


「……何、内緒って」


「何でもない!」


「秘密!」


 葵も笑おうとした。


 けれど、胸の奥の寂しさが、さっきより少し大きくなった。


*


「できたー!」


 二人が、友達へのプレゼントを持ってきた。


 折り紙の箱に掛かった赤いリボンは、左右の輪が少し違う大きさだった。


「どう?」


 下の弟が、期待に満ちた目で見上げる。


 葵は、その不揃いな結び目を見た。


「……私がやった方が、きれいにできたのに」


 口から出た言葉に、自分でも驚いた。


「ちょっと貸して。ここ、直してあげる」


「いいって!」


 三年生の弟が、包みを引っ込めた。


「俺たちで作ったんだから」


「……でも、曲がってるじゃん」


「頼んでないじゃん」


 葵は、手を止めた。


 下の弟が、包みを見下ろす。


「……これ、だめ?」


「……違う、そうじゃ……」


 説明しようとしても、言葉が出てこなかった。


 二人はプレゼントを持って部屋へ戻っていった。


 葵は、リビングに立ち尽くした。


 ……何で、あんなこと言ったんだろう。


*


少し経って、部屋のドアがそっと開いた。


「……お姉ちゃん」


 下の弟が、ほどけかけたリボンを両手に持っていた。


「……手伝って」


 泣きそうな顔だった。


 葵は慌ててしゃがんだ。


「……ごめん。さっき、言い方悪かった」


「…………」


「二人で作ったの、すごいと思ったよ。直すなら、一緒にやろっか」


 弟が小さく頷いた。


 葵は弟の手にリボンを重ね、一緒に結び直した。


 少し曲がった蝶結びができた。


「できた……!」


 弟が、やっと笑った。


「ありがと、お姉ちゃん!」


「……うん」


 葵も、笑った。


 よかった。笑ってくれた。


 もう泣いていない。


 心から、そう思った。


 なのに、その奥で、別の安心が顔を出した。


 ……やっぱり、私がいないとだめなんじゃん。


「…………っ」


 葵は、弟から見えないように目を伏せた。


 今、何に安心したの。


 困っている弟を見て、自分が必要とされたことに?


 その夜、葵は何度も同じ場面を思い返した。


 弟たちが笑ったこと。


 自分が放った言葉。


 泣きそうな顔で「手伝って」と言われて、胸が軽くなったこと。


 どれを思い出しても、答えは出なかった。


*


翌日の放課後。


 葵は、夕暮れの公園のベンチに座っていた。


 家に帰るまで、あと少し。


 スマートフォンには、友人からの映画のメッセージが届いている。


 返事をしようとして、指が止まった。


 また、弟たちの笑顔が浮かんでしまう。


「……私、何であんなこと言っちゃったんだろう」


 ぽつりと呟いた、そのとき。


 公園の向こうから、子供たちの声が聞こえた。


「自分でできるって!」


 葵の肩が、わずかに跳ねる。


 一瞬だけ。


 弟の声に聞こえた。


 葵は顔を上げる。


 遊具のそばで、見知らぬ兄弟らしい二人の子供が笑っている。


「……違うか」


 視線を落とした、その瞬間。


 膝の上のスマートフォンの画面が、わずかに乱れた。


 ザッ――。


 ほんの一瞬。


 画面の黒い部分に、二人の弟が並んで歩いていく後ろ姿が映ったように見えた。


 葵が瞬きをする。


 そこにはもう、友人から届いた映画のメッセージしかない。


「……疲れてるのかな」


 そして。


 少し離れたところで、電子音が鳴った。


 ピッ。


 白衣を羽織った男――一条律が、黒い端末を確認している。


 数日前、駅のホームで検知したエラーが、再び画面に現れていた。


 画面には、短い文字列が表示されていた。


[SYSTEM LOG]

ERROR DETECTED

PROCESS : greed.pcs

STATUS : 無限ループ

PATIENT : 咲良葵


 男の隣にいた夜坂めぐるが、画面を覗き込んだ。


「……一条先生。駅で見た、あのエラーですか?」


「ええ。反応が繰り返されているようですが、詳しいことはご本人に確かめましょう」


 律は、めぐるの顔を見た。


「夜坂さん。今日は、見届けるだけでも構いませんよ。疲れたら、途中でも休んでください」


「……はい。無理はしません」


 めぐるは自分の身体の重さを確かめ、それから小さく頷いた。


 二人が近づいてくる。


「咲良葵さん、ですね」


 葵は顔を上げた。


「……え。誰ですか?」


「一条律と申します。こちらは夜坂めぐるです」


 めぐるが、軽く頭を下げた。数日前まで患者だった自分が、今は一条先生の隣に立っている。誰かのPCSに立ち会うのは、これが初めてだった。


「突然すみません」


 葵は、二人を交互に見た。


 知らない人だ。なのに、なぜ名前を知っているのだろう。


「……何か用ですか?」


 律は距離を詰めず、黒い端末を葵に見える位置で止めた。


「あなたの中で、同じ反応が繰り返されているようです」


「……同じ反応?」


「何か、頭から離れないことがあるようですね」


 葵は、ぎくりとした。


「……何で、それを」


「端末が示すのは、反応だけです。差し支えなければ、何があったのか聞かせていただけますか」


 葵は端末と律の顔を見比べた。


 聞きたいことは山ほどあった。


 けれど、喉の奥から先に出てきたのは、別の言葉だった。


「……弟たちのこと、大好きなのに」


 言った途端、声が詰まった。


「……私、変なんです」


 律は、すぐには否定しなかった。


「何が、変だと思うんです?」


「…………」


 葵は膝の上のスマートフォンを握りしめた。


「……言いたくないです」


「そうですか」


 律は、それ以上問い詰めなかった。


 葵は少しだけ顔を上げる。


「……聞かないんですか?」


「あなたが話したくないものを、私が無理に聞き出しても意味はありません」


「…………」


 公園の向こうから、子供たちの笑い声が聞こえた。


 葵はそちらを見ないように俯いた。


「……もう、考えたくないです」


「そうですか」


 律はあっさり頷いた。


 そして、端末を白衣のポケットへ戻しかけた。


 めぐるも、葵から少し距離を取る。


 二人が本当に立ち去ろうとしていると分かって、葵は慌てて口を開いた。


「……待って」


 律が足を止めた。


 葵は、自分でも何を言おうとしているのか分からなかった。


 ただ、このまま帰ってしまったら、昨日から頭を離れない言葉を、また一人で打ち消すことになる。


 二人だけじゃ、うまくできなきゃいいのに。


 そんなことを考える自分なんて、嫌だった。


「……あの」


 葵は、かすれた声で言った。


「本当に、分かるんですか」


「何がでしょう」


「……私が、何であんなこと考えたのか」


 律は首を横に振った。


「私には、まだ分かりません」


「えっ」


「端末で分かるのは、あなたの中で反応が起きていることまでです。あなたが何を思ったのか。その反応にどんな意味があるのか。そこは、あなた自身に確かめていただく必要があります」


 葵は困惑した。


「……じゃあ、どうするんですか」


 律は黒い端末を取り出した。


「その続きを、見に行きましょう」


 画面に、文字が浮かび上がる。


[SYSTEM LOG]

PATIENT : 咲良葵

PROCESS : greed.pcs

PCS ACCESS : 待機中


 葵は画面を覗き込んだ。


「……続きを?」


「あなたが、昨日から何度も思い返している場面です」


 律は葵の顔を見た。


「ただし、見たくないものも映るかもしれません」


「…………」


 葵は息を呑んだ。


 昨日、弟が見せてくれたプレゼント。


 少し曲がったリボン。


『俺たちで作ったんだから』


 そして、自分が口にしてしまった言葉。


『私がやった方が、きれいにできたのに』


 葵の指が、スマートフォンの縁を強く押した。


「……怖いです」


「ええ」


 律は否定しなかった。


「それでも、確かめますか?」


 葵はしばらく俯いていた。


 やがて、スマートフォンを鞄にしまった。


「……はい」


 小さな返事だった。


 けれど、葵は顔を上げた。


「私、ちゃんと知りたいです」


 律は葵の言葉を受け、端末へ視線を戻した。


 黒い端末が、短く電子音を鳴らした。


 ピッ。


[SYSTEM LOG]

PATIENT : 咲良葵

PROCESS : greed.pcs

PCS SYNC : 確立

ACCESS : 準備完了


「一条先生」


 めぐるが律を見た。


「……ええ」


 律は端末を操作し、画面を閉じた。


 そして、葵に向き直る。


「では、咲良さん」


 白衣の袖から覗く指先が、静かに持ち上がった。


「見てみましょう。あなたの環状の感情劇を」


 パチン――。


 乾いた音が、公園に響いた。


 次の瞬間。


 子供たちの笑い声が、途切れた。


「……え?」


 葵は顔を上げた。


 風に揺れていた木の葉が、空中で静止している。


 ベンチも、街灯も、遠くの滑り台も。


 景色の輪郭が、細い光の線となってほどけ始めた。


 葵は思わず後ずさる。


「な、何……これ……!」


 足元の地面が、無数の小さな光の粒へと分解されていく。


 落ちる。


 そう思って目を閉じた。


 けれど、身体が沈む感覚はなかった。


<<PCS SYSTEM>>

<<CONNECTING...>>

<<PCS NEURAL LINK>>


 代わりに、どこか遠くで音がした。


 ――カラ、カラ。


 何かが、床の上を転がる音。


 続いて、聞き覚えのある声。


『お姉ちゃん、これ見て!』


「…………え?」


 葵は目を開けた。


*


そこは、巨大なショッピングモールだった。


 ガラス張りの店が続く通路に、人の姿はない。誰も乗っていないエスカレーターの機械音だけが響いていた。


「ここ……どこですか?」


「あなたの精神世界です。記憶や感情が、景色として現れています」


 律の隣で、めぐるが小さく頷いた。


「……私も、初めて見たときは怖かったです」


 葵は、吹き抜けの先の真っ白な空を見上げる。夢なら覚めてほしい。けれど足元には、確かな床の感触があった。


「さて。あちらのようですね」


 律の示した先に、小さな包装台がある。折り紙の箱、細い赤いリボン、昆虫の絵がついた消しゴム。


「……昨日の」


『お姉ちゃん、これ見て!』


 声とともに、下の弟の姿が現れた。隣には、昨日の自分もいる。


『その子、何が好きなの?』


『虫探し!』


『じゃあ、こんなのは?』


『やったあ! ありがとう、お姉ちゃん!』


 弟が笑う。記憶の中の葵も、思わず頬を緩めていた。


「……私、こんな顔してたんだ」


律が尋ねた。


「どう思います?」


「……頼ってもらえて、嬉しかった」


 少し面倒だと思ったことも、たしかにあった。それでも、一緒に考えた時間が好きだったのだ。


 記憶の光景が消えると、包装台の上で赤いリボンがひとりでに揺れた。次の記憶が、通路の向こうに浮かび上がる。


*


そこは、家のリビングだった。


 弟二人がスマートフォンの結び方の動画を覗き込み、赤いリボンを持っている。


『お兄ちゃん、ここどうやるの?』


『ちょっと待って。もう一回見てみる』


 記憶の中の葵が、二人へ手を差し出した。


『リボン、結ぼっか?』


『大丈夫! 俺たちでやってみる』


 二人は失敗しては笑い、また結び直した。兄が弟に教えている。前は、分からないことがあるたびに自分を呼んでいたのに。


「……お兄ちゃん、頼もしくなったじゃん」


 葵は笑った。その直後、記憶の中の自分が二人に背を向ける。


「……あ」


 弟たちは、とうとう不揃いな蝶結びを作り上げた。


『できたー!』


『やったじゃん!』


 二人の笑顔を見て、葵の胸にも嬉しさが込み上げた。


 なのに、同じ胸の奥で、あの言葉が浮かぶ。


 ……二人だけじゃ、うまくできなきゃいいのに。


「……嫌だ。私、こんなこと……」


 リビングが光の粒になり、無人のモールへ戻った。包装台には、少し曲がったリボンのプレゼントが残っている。


「……ちゃんと、見たいです」


 葵が言うと、リボンがするするとほどけた。細い赤い線となって床を這い、向かいの雑貨店のガラス扉へ伸びていく。


「まだ続きがあるようですね」


 律の言葉に、葵は足を踏み出した。


*


雑貨店の入口には、ガラスの扉があった。


 葵が近づくと、扉に映った自分の姿が、ほんの少し遅れて動いた。


「……え?」


 立ち止まる。


 ガラスの中の葵も立ち止まった。


 葵が右手を上げる。


 向こう側の葵も、左手を上げる。


「……何だ。普通の鏡じゃん」


 葵が手を下ろした。


 けれど。


 ガラスの中の葵は、手を下ろさなかった。


「…………っ!」


 葵が後ずさる。


 向こう側の葵は、その場に立ったまま、ゆっくりと笑った。


 同じ制服。


 同じ髪。


 同じ顔。


 なのに、その笑顔だけが、どうしても自分のものには見えなかった。


「……誰?」


 ガラスの向こうで、もう一人の葵が首を傾げた。


「誰って」


 声まで同じだった。


「私だけど?」


 ガラスの表面に、細いひびが入った。


 ぱきん。


 ひびは枝分かれしながら広がり、扉全体を覆っていく。


 葵が目を閉じた、その瞬間。


 ――ぱりん。


 ガラスの割れる音がした。


 けれど、破片は落ちなかった。


 目を開けると、扉はなくなっていた。


 もう一人の葵が、雑貨店の入口に立っている。


 すぐ隣で、めぐるが息を呑んだ。


「……一条先生」


「ええ。どうやら、自分から姿を見せてくれたようですね」


 律は黒い端末を取り出した。


 葵は、もう一人の自分から目を離せなかった。


「……何なの、あんた」


 もう一人の葵は、答えずに笑った。


「ねえ。さっきの、もう一回見ようよ」


「……さっき?」


「弟たちが、プレゼント作ってたところ」


 葵の胸が、嫌な音を立てた気がした。


 もう一人の葵は、くるりと背を向ける。


「だって、まだ終わってないでしょ?」


*


雑貨店には商品も棚もなく、奥の壁一面に大きな画面が浮かんでいた。


映っているのは、家のリビングだった。


テーブルの前で、弟二人がプレゼントを持ち上げている。


『できたー!』


『お姉ちゃん、見て!』


葵は息を呑んだ。


映像の中の葵が、プレゼントを受け取った。


少し曲がったリボンを見つめる。


そして、口を開いた。


『……私がやった方が、きれいにできたのに』


「……っ」


葵は目を伏せた。自分の声が、ひどく冷たく聞こえた。


『ちょっと貸して。ここ、直してあげる』


映像の中の葵が、リボンに手を伸ばす。


『いいって!』


三年生の弟が、プレゼントを引っ込めた。


『俺たちで作ったんだから』


『……でも、曲がってるじゃん』


『頼んでないじゃん』


葵の肩が、小さく跳ねた。


隣に立つもう一人の葵が、ぽつりと言った。


「……頼んでない、だって」


「…………」


「いつもは、あんなにお姉ちゃん、お姉ちゃんって言うのにね」


「……やめて」


画面の中で、一年生の弟がプレゼントを見下ろしている。


『……これ、だめ?』


その声を聞いた瞬間、葵は耐えきれずに顔を背けた。


「もういい!」


声が店内に反響した。


「分かってるよ! 私が悪かったんでしょ!」


画面が、弟の悲しそうな顔で止まった。


葵は唇を噛んだ。


「せっかく二人で作ったのに……私、余計なこと言って……」


もう一人の葵が、隣から覗き込んでくる。


「うん。ひどいこと言ったね」


「……っ」


「でもさ」


もう一人の葵は、葵の耳元で囁いた。


「本当は、最初から思ってたじゃん」


葵は身体を硬くした。その先は、聞きたくなかった。


けれど、もう一人の葵は笑ったまま、続けた。


「二人だけじゃ――」


「やめて!」


「うまくできなきゃいいのに」


葵は両耳を塞いだ。


「……違う。違う……!」


もう一人の葵が首を傾げた。


「何が?」


「失敗してほしいなんて、思ってない!」


「でも、思ったでしょ?」


「…………!」


「私、聞いたもん」


もう一人の葵は、自分の胸に指を当てた。


「ここで」


葵は、何も言えなかった。


*


止まっていた画面が動き出し、少し時間が経ったあとの部屋を映した。


一年生の弟が、一人でリボンを持っている。


何度結び直しても、輪はするりとほどけてしまう。


『……あれ?』


もう一度。


『……あれぇ?』


弟は、唇をへの字に曲げた。


やがて、リボンを両手に握ったまま、部屋を出ていった。


映像が切り替わる。


葵の部屋。


ドアが、そっと開く。


『……お姉ちゃん』


葵は、息を止めた。


『……手伝って』


画面の中の弟は、泣きそうな顔をしていた。


葵は、思わず一歩踏み出した。


「……あの子、あんな顔してたんだ」


あのときは、弟を泣かせたくなくて、リボンを直すことに必死だった。


画面の中の葵は、弟の前にしゃがみ込む。


『……ごめん。さっき、言い方悪かった』


弟は、黙ってリボンを差し出した。


『二人で作ったの、すごいと思ったよ』


『……ほんと?』


『ほんと。だからさ、直すなら一緒にやろっか』


弟が、小さく頷いた。


二人でリボンを持つ。


片方を輪にして、もう片方をくぐらせる。


少し曲がった蝶結びができた。


『できた……!』


弟が笑った。


画面の中の葵も笑った。


葵は、その光景を見つめながら、胸を撫で下ろした。


「……よかった」


謝って、一緒に直して、弟は笑ってくれた。それは嘘じゃない。


そのときだった。


「……ねえ」


もう一人の葵が、葵の横に並んだ。


「今、何で安心したの?」


「……え?」


「弟が笑ってくれたから?」


「……そうだよ」


「それだけ?」


葵は、答えようとした。


けれど、声が出なかった。


画面の中では、弟がリボンを大事そうに持っている。


『ありがと、お姉ちゃん!』


もう一人の葵が、その言葉を真似した。


「ありがと、お姉ちゃん」


葵は、ぎゅっと拳を握った。


「……何が言いたいの」


もう一人の葵は、画面から目を離さなかった。


「嬉しかったよね」


「……弟が笑ってくれたんだから、当たり前じゃん」


「うん。それも嬉しかった」


「……それも?」


「だってさ」


もう一人の葵は、ようやく葵の方を向いた。


その笑顔は、さっきよりずっと静かだった。


「……やっぱり、私がいないとだめなんじゃん」


葵の顔から、血の気が引いた。


それは、確かに自分の中に浮かんだ言葉だった。


困る弟を心配し、助けられて嬉しかった。そして、その奥で自分が必要とされたことに安心していた。


「……そんな」


葵は、首を横に振った。


「私……あの子が困ってたのに……」


もう一人の葵は、何も言わなかった。


葵の目から、涙が一粒こぼれた。


「……嬉しかったんだ」


画面の中で弟が笑うほど、胸が苦しくなった。


「……私、何やってんの」


葵は、両手で顔を覆った。


「大好きなのに……」


言葉が詰まる。


「あの子たちのこと、本当に大好きなのに……!」


もう一人の葵は、そんな葵をじっと見つめていた。


*


律の端末が短く鳴った。


[SYSTEM LOG]

PATIENT : 咲良葵

PROCESS : greed.pcs

EMOTIONAL RESPONSE : 複数検出

STATUS : 無限ループ


「……こんなことを思うお姉ちゃん、最低ですよね」


 葵が俯くと、律は静かに問いかけた。


「弟さんを心配したのも、頼られて安心したのも、あなたの中にあったことですね。一方があるからといって、もう一方が嘘になるわけではありません」


 律は、もう一人の葵を見る。


「あなたは、どう思います?」


 もう一人の葵は、笑顔を消した。


「私だって、あの子たちが泣いたら嫌だよ。できることが増えたら、嬉しい」


「……だったら、何で?」


「……私がいなくても、何でもできるようになったら――私、どうすればいいの?」


 葵には答えられなかった。相手も自分と同じように、答えを知らないのだ。


 そのとき、暗くなった店の外でエスカレーターが動き始めた。


 暗くなっていた店内の照明が、一本の道を描くように順番に灯っていく。


 もう一人の葵が、そちらへ顔を向けた。


「……あ」


 その声に、葵も振り返る。


 店の外に、弟たちがいた。


「えっ……?」


 二人は並んで、エスカレーターの前に立っている。


 小学一年生の弟が、上り口で足を止めた。


『……ちょっと怖い』


 隣にいた三年生の弟が、手を差し出す。


『大丈夫だって。ほら、タイミング合わせて』


『……うん』


『せーの!』


 二人が一緒に足を踏み出した。


『乗れた!』


『だから言ったじゃん!』


 笑い声が、吹き抜けに響く。


 葵は思わず笑った。


「……何それ。エスカレーターくらい」


 でも、笑いながら思い出した。


 下の弟は、小さい頃、エスカレーターに乗るのが苦手だった。


 足を踏み出すタイミングが分からなくて、いつも葵の手をぎゅっと握っていた。


 今は、兄の手を握っている。


「……お兄ちゃん、頼もしくなったじゃん」


 葵は、エスカレーターへ近づいた。


「二人とも、すごいね!」


 声をかける。


 弟たちは振り返らない。


「……ねえ!」


 二人は楽しそうに話しながら、上へと運ばれていく。


 葵は慌てて後を追った。


「ちょっと、待ってってば!」


 エスカレーターに足を乗せる。


 一段、二段。


 葵は、上っていく弟たちに向かって手を伸ばした。


 もう少し。


 もう少しで、届く。


 けれど。


「……あれ?」


 弟たちとの距離が、縮まらなかった。


 葵が歩いても、走ろうとしても、二人は同じだけ先にいる。


 弟たちの笑い声だけが、少しずつ遠ざかっていく。


「……待って」


 葵の声が小さくなった。


「待ってよ……」


 次の瞬間、足元の段差が消えた。


「わっ!」


 葵はよろめいた。


 めぐるが、とっさにその腕を支える。


「大丈夫ですか?」


「……う、うん」


 顔を上げると、三人はショッピングモールの上階に立っていた。


 エスカレーターは、もうなかった。


 弟たちの姿も、消えていた。


「……どこ行ったの?」


 葵は通路の奥を見つめた。


 もう一人の葵が、いつの間にか隣に立っている。


「行っちゃったね」


「……何で」


「二人だけで、行けるようになったんだよ」


 葵は、言い返そうとした。


 けれど、何も出てこなかった。


 律が端末を見ながら口を開く。


「咲良さん。今の光景には、実際の記憶とは違う部分がありましたね」


「……え?」


「ここから先に見えるものも、これから必ず起きる出来事とは限りません」


 葵は、もう一度、弟たちの消えた通路を見た。


「……私が、考えてること?」


「その可能性はあります。だからこそ、見たものをそのまま事実だと決めずに、確かめていきましょう」


 律は通路の先を示した。照明が落ちると、その先にフードコートの明かりだけが残った。


*


気づくと、葵たちはフードコートに立っていた。


 弟二人が、中央のテーブルで顔を寄せ合っている。


『日曜日、試合が終わったら何する?』


『また一緒に遊びたい!』


 葵は笑って近づいた。


「何の話? 私も――」


 そこで足が止まった。


 椅子が、二つしかない。


 一つは上の弟。もう一つは下の弟。誰も「来るな」とは言っていないのに、自分の席だけがなかった。


「……私の席、どこ?」


 もう一人の葵が、葵と同じ声で呟いた。


 葵は、返事ができない。


「葵さん。あちらにも、席がありますよ」


 めぐるが示した窓際には、空いた椅子と葵の鞄があった。スマートフォンには友人からの『日曜日の映画、どうする?』というメッセージ。鞄には、名前だけ書いた進路希望調査が覗いている。


 行きたい映画がある。考えてみたい未来もある。


 それでも、足は弟たちのテーブルへ向いてしまう。


「……だって、私、お姉ちゃんだもん」


 床を、赤いリボンが転がった。


 見上げると、二つしかない椅子も、弟たちも、消えていた。


*


『俺たちでやってみる!』


 見慣れた包装台に戻っていた。弟たちがリボンを結び、『できた!』と笑う。葵は嬉しくて、そして寂しくなる。


 リボンがほどける。


『……お姉ちゃん、手伝って』


 頼られて安心した瞬間、また『できた!』の声が響く。


 ほどけて、結ばれて、またほどける。


「……待って!」


 葵は通路を走った。角を曲がり、エスカレーターを上っても、同じ包装台へ戻ってくる。


「……私、喜んでるのに。あの子たちができるようになるの、嬉しいのに……!」


 葵は膝をついた。弟たちの成長を見るたび、自分の出番がなくなると想像して、また頼られたくなる。


「……ずっと、これを繰り返してたんだ」


 短い電子音。律の端末に、処理が浮かび上がった。


Do

Call [弟たちの成長を喜ぶ]

Call [自分の出番がなくなると想像する]

Call [寂しさ]

Call [頼られて安心したい]

Call [助けを求められた場面を思い返す]

Loop

[SYSTEM LOG]

PATIENT : 咲良葵

PROCESS : greed.pcs

STATUS : 無限ループ


 律は画面を確認すると、葵の隣にしゃがんだ。


「弟さんたちの成長から、自分の居場所がなくなるかもしれない、と考えてしまう。その先で、また頼られると安心する……この繰り返しのようですね」


「……うん」


「成長してほしくないのでしょうか」


 葵は、すぐに首を横に振った。


「違う!」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。


「あの子たちには、いろんなことができるようになってほしい。友達もいっぱい作ってほしいし、好きなことも見つけてほしいし……!」


 言いながら、涙が滲んだ。


「……でも」


 葵は、包装台を見つめた。


「……私がいなくても、何でもできるようになったら」


 もう一人の葵が、隣にしゃがんだ。


「……うん」


「……私、何してればいいの?」


 もう一人の葵は、何も答えなかった。


 葵は、その横顔を見た。


「……ねえ」


 もう一人の自分が、ゆっくりと顔を上げる。


「……どうしたらいいの?」


 沈黙。


 その表情を見て、葵は初めて気づいた。


 この子も、分からないのだ。


 ひどいことを言ってくるから。


 自分が隠していた言葉を、勝手に口にするから。


 何もかも知っているのだと思っていた。


 でも、違った。


 もう一人の葵も、ただ、怖かったのだ。


「…………」


 葵は、もう一人の自分へ手を伸ばしかけた。


 そのとき。


 ――カチリ。


 ショッピングモールの奥で、鍵の外れる音がした。


 包装台の向こうに、それまでなかった扉が現れた。


 真っ白な扉。


 その隙間から、柔らかな光が漏れている。


 扉の向こうから、弟たちの声が聞こえた。


『ありがとう、お姉ちゃん!』


 葵の胸が、高鳴る。もう一人の葵の顔にも、かすかな笑みが戻った。


 もう一人の葵が、光の漏れる扉を見つめた。


「……ねえ」


 葵も立ち上がった。


「……何?」


 もう一人の葵は、振り返った。


 その顔に、かすかな笑みが浮かぶ。


「……ずっと、そう言ってもらえる方法」


 葵は、息を呑んだ。


 扉が開き、光が葵の足元へ伸びる。


「……何、これ」


 もう一人の葵が、嬉しそうに笑う。


「入ってみれば分かるよ」


 葵は律を振り返った。


 律は黒い端末を手にしていたが、扉を開けようとも、葵を促そうともしなかった。


「……行っても、いいんですか」


「あなたが確かめたいのであれば」


 葵はもう一度、扉の向こうを見た。


 聞こえてくる声は、間違いなく弟たちのものだった。


 葵は、そっと足を踏み出した。


*


扉を抜けると、いつものリビングだった。


「……帰ってきた?」


「まだ精神世界の中です」とめぐるが答えた。


 廊下から、下の弟が駆けてくる。


『お姉ちゃん! 靴下、片っぽない!』


「もう、しょうがないなあ」


 一緒に探して見つけると、弟は笑った。


『ありがとう、お姉ちゃん!』


 葵の胸が温かくなる。ここでは、いつだって自分が呼ばれる。


 もう一人の葵が囁いた。


「ここなら、ずっと一緒にいられるよ」


「……ずっと?」


「うん。ずっと」


*


テーブルの上に、折り紙の箱が現れた。


「あ……」


 葵は顔を上げた。


 いつの間にか、弟たちが向かい合って座っている。


 一年生の弟の手には、赤いリボン。


『お兄ちゃん、一緒にやろ!』


『いいよ。ここ、俺が教える!』


 二人が顔を寄せ合う。


 葵は、思わず笑った。


「……頑張れ」


 小さく声をかける。


 一年生の弟が、リボンの端を持ち上げた。


『ここを、こうして……』


『違うって。こっちを輪にするんだよ』


『えー、むずかしい!』


 葵は、二人の手元を見守った。


 少しくらい曲がったっていい。


 ほどけたって、もう一度結べばいい。


 今度は、最後まで二人にやらせてあげよう。


 そう思った、そのとき。


「ほら、貸して」


 もう一人の葵が、二人の間に入った。


「あ……」


 葵が声を上げるより早く、もう一人の葵はリボンを受け取っていた。


「ここをこうして、こっちから通せば――」


 するり。


 細いリボンが、指の間を滑る。


 あっという間に、綺麗な蝶結びができた。


 左右の輪は、同じ大きさ。


 結び目は、真ん中。


 どこから見ても、完璧だった。


『すごーい!』


 一年生の弟が、目を輝かせた。


『お姉ちゃん、上手!』


 三年生の弟も笑う。


『やっぱ、お姉ちゃんに頼むと早いな!』


『ありがとう、お姉ちゃん!』


 二人の声が重なった。


 もう一人の葵は、嬉しそうに笑った。


「……ね?」


 葵は、完成したプレゼントを見つめた。


「……うん」


 綺麗だった。


 弟たちも喜んでいる。


 何も困っていない。


 それなのに。


 葵の視線は、テーブルの上に残された、小さなリボンの切れ端へ向かった。


「……ねえ」


 もう一人の葵が振り返る。


「何?」


「さっき、あの子たち……自分でやってみるって」


「うん」


「……言ってたよね?」


 もう一人の葵は、完成した蝶結びを指で整えた。


「でも、こっちの方が綺麗でしょ?」


「……うん」


「二人とも、喜んでるよ?」


 弟たちは、プレゼントを持って笑っている。


 葵は、ゆっくり頷いた。


「……そうだね」


 もう一人の葵が、ほっとしたように笑う。


 けれど、葵はまだ、テーブルの上を見つめていた。


 さっきまで、二人でリボンを結ぼうとしていた。


 兄が弟に教えていた。


 失敗して、言い合って。


 それでも、楽しそうに笑っていた。


 あの時間は、どこへ行ったのだろう。


*


次に、リビングの壁が変わった。


 窓の向こうに、学校の校庭が広がっている。


 三年生の弟が、ボールを抱えて帰ってきた。


『……お姉ちゃん』


「どうしたの?」


『友達と、またケンカしちゃった』


 葵は、弟の顔を見た。


「……そっか」


 隣に座ろうとした、そのとき。


 もう一人の葵が先に口を開いた。


「じゃあ、明日こう言ってみたら?」


 弟の前に、一枚の紙が現れる。


 そこには、謝る言葉が書かれていた。


『……これ言えばいいの?』


「うん。きっと大丈夫」


『分かった!』


 弟は紙を受け取った。


 次の瞬間、景色が切り替わる。


 校庭で、弟と友達が笑っていた。


『仲直りできた!』


 弟が駆け寄ってくる。


『ありがとう、お姉ちゃん!』


 もう一人の葵が、嬉しそうに弟の頭を撫でた。


 葵は、その様子を見つめていた。


「……よかった」


 仲直りできた。


 それは、嬉しい。


 けれど。


「……あれ?」


 葵は首を傾げた。


 昨日の弟は、別の友達に相談していた。


 それでも、自分から謝って、仲直りした。


 この世界では。


「……昨日は、あの子、自分から謝ったんだよね」


 もう一人の葵が振り返る。


「でも、こっちだって仲直りできたじゃん」


「……でも」


「困ってたんだから、助けてあげればいいでしょ?」


 葵は、弟の笑顔を見た。


 確かに、そのとおりだった。


 困っている弟を助けられて、嬉しい。


 けれど、何かが引っかかった。


*


『お姉ちゃん、これ――』


「大丈夫、私がやってあげる!」


 もう一人の葵が、弟たちの言葉より早く手を伸ばす。


 結ばれたリボン。解き終えた宿題。揃った靴下。


 何もかも綺麗に片づき、二人は笑って『ありがとう!』と言う。


「……ちょっと待って。今、あの子たち、何しようとしてた?」


「さあ? でも、できたよ?」


 葵は弟たちの手を見た。二人はもう、何も持っていなかった。


「……『できた』のは、誰?」


 もう一人の葵は答えなかった。


*


壁の時計は、午後三時を指していた。


 カチリ。秒針が進んでも、また午後三時。


 何度「ありがとう」と言われても、弟たちは同じ背丈のまま、何かをねだり続ける。


「……いつまで?」


「ずっとだよ」


「……あの子たち、いつ大きくなるの?」


「今のままでいいじゃん。私たちがやってあげればいいんだから」


 葵は弟たちを見た。自分で考え、失敗し、笑いながらやり直す姿が、ここにはなかった。


「……ずっと、できないままなの?」


 もう一人の葵の笑顔が揺れる。その手が、葵の手を握った。


「だって、大きくなったら……私たちのこと、必要なくなっちゃうよ?」


 同じ手の温かさ。怖がっているのは、この子も同じだ。


「……私、あの子たちが大きくなるの、嬉しかったよ」


 葵は目を潤ませた。


「自分で仲直りできたときも、二人でリボンを結んだときも。寂しかったけど……嬉しかったんだよ」


 時計の秒針が、止まった。


*


テーブルの中央に、包装台が現れた。


 その上に、二つのプレゼントが置かれている。


 一つは、綺麗な蝶結び。


 左右の輪が揃い、結び目も真ん中にある。


 もう一つは、少し曲がった蝶結び。


 輪の大きさが違い、リボンの端も不揃いだった。


 葵は、二つを見つめた。


 綺麗な方には、見覚えがある。


 ついさっき、もう一人の自分が結んだものだ。


 曲がった方にも、見覚えがあった。


 弟たちが何度も失敗して、笑い合いながら結んだもの。


 もう一人の葵が、包装台の前に立った。


「……どっちがいい?」


 葵は、すぐには答えなかった。


 綺麗なリボンに、そっと触れる。


 弟たちは、喜んでいた。


 ありがとう、と言ってくれた。


 自分が役に立てた。


 それは、嬉しかった。


 次に、曲がったリボンへ目を向ける。


『できたー!』


『やったじゃん!』


 弟たちの声が、耳の奥によみがえった。


 あのとき、自分は寂しかった。


 自分の出番がなくなったような気がした。


 それでも。


 葵は、曲がったリボンを見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。


「……私、頼られたいよ」


 もう一人の葵が顔を上げた。


「……うん」


「二人が困ったら、助けてあげたい。ありがとうって言ってもらえたら、やっぱり嬉しい」


 もう一人の葵が、ほっとしたように笑う。


「……うん。だったら――」


「……でも」


 葵は、顔を上げた。


 リビングの奥で、弟たちが笑っていた。


 その笑顔は、ずっと同じままだった。


 葵は、もう一度、二つのプレゼントを見た。


「……私が欲しかったのって」


 言葉を探す。


 どちらも、捨てたくなかった。


 頼られたときの嬉しさも。


 弟たちが自分の力で何かをできるようになったときの嬉しさも。


 どちらも、自分の中にあったはずなのに。


 いつの間にか、片方ばかりを追いかけていた。


「……『ありがとう』だけだったのかな……?」


 もう一人の葵の笑顔が、止まった。


 律は、何も言わなかった。


 めぐるも、葵の言葉を待っていた。


 そのとき。


 包装台の下から、細い光が漏れた。


 床に、一本の線が走る。


 綺麗なリボンと、曲がったリボン。


 二つのプレゼントの間を、光が静かに通り抜けていく。


 やがて、リビングの奥に、もう一つの扉が現れた。


 その向こうからは、何も聞こえなかった。


「…………」


 葵は、扉を見つめた。


 もう一人の葵も、同じ方を見ている。


 けれど、今度はどちらも、すぐには歩き出さなかった。


 葵は、包装台に並んだ二つのプレゼントを振り返った。


 一つは、完璧な蝶結び。


 もう一つは、少し曲がった蝶結び。


 どちらにも、まだ手を伸ばせなかった。


「……この先には、何があるの?」


 もう一人の葵に尋ねる。


「……分かんない」


 返ってきたのは、頼りない声だった。


 葵は少し驚いて、その顔を見た。


 もう一人の葵は、白い扉を見つめている。


「ここまでは、知ってたのに」


「……何を?」


「私たちが、何を欲しがってるのか」


 もう一人の葵は、小さく息を吐いた。


「……でも、その先は知らない」


 葵は、扉へ目を戻した。


 自分の足元から、細い光の道が続いている。


 律も、めぐるも、何も言わなかった。


 葵は一歩、踏み出した。


*


扉の向こうには、何もなかった。


 真っ白な床。


 真っ白な天井。


 壁があるのかさえ分からない、静かな空間。


 中央に、包装台が一つだけ置かれている。


 その上には、リボンも、包装紙も、プレゼントもない。


「……何、ここ」


 葵の声が、遠くまで響いた。


 さっきまでのリビングには、弟たちがいた。


 何度も自分を呼んでくれた。


 ありがとう、と笑ってくれた。


 ここには、その声すらない。


 葵は、包装台へ近づいた。


 何も置かれていない天板に、そっと触れる。


 ひんやりとしていた。


「……ねえ」


 もう一人の葵が、すぐ隣に立つ。


「もし、あの子たちが……もう私たちを頼らなくなったら」


 葵は、手を止めた。


「ここには、何が残るの?」


「…………」


 答えられなかった。


 広いフードコートが、頭に浮かんだ。


 弟たちのテーブルには、椅子が二つしかなかった。


 自分の席が見つからなかった。


 あのときの寂しさが、また胸の奥に広がっていく。


「……私、ずっとお姉ちゃんだったから」


 葵は呟いた。


「二人が生まれてから、ずっと」


 小さな靴を履かせてあげたこと。


 泣いている背中を撫でたこと。


 できないことを、一緒にやったこと。


 思い出そうとすれば、いくらでも浮かんでくる。


「……それが、なくなったら」


 言葉が続かなかった。


 もう一人の葵が、葵の顔を覗き込む。


「ねえ。二人が私たちを呼ばなくなったら……もう、好きじゃなくなったってことでしょ?」


「……っ」


 葵は、思わず律を振り返った。


「……先生」


「はい」


「先生には、分かるんですか?」


 律が、葵を見た。


「あの子たちが……私のこと、どう思ってるか」


 少しの沈黙。


 律は、静かに首を横に振った。


「私には、弟さんたちの心までは分かりません」


「…………」


 葵は、俯いた。


 聞きたかった答えではなかった。


 大丈夫ですよ。


 弟さんたちは、あなたが大好きですよ。


 そう言ってもらえたら、どれほど楽だっただろう。


 けれど、律は続けた。


「咲良さん。ここまで、あなたが見てきたものを、一つずつ思い出してみてください」


「……見てきたもの?」


「お兄さんの方が、自分で朝の準備を終えていたこと」


 葵は、小さく頷いた。


「友達に相談して、自分から謝ったこと」


「……はい」


「二人で、リボンを結ぼうとしたこと」


 葵は、包装台を見下ろした。


「……うん」


「それは、あなたが実際に見聞きした出来事ですね」


「……はい」


 律は、少し間を置いた。


「では、弟さんたちが、もうあなたを好きではないということも、確かめたのでしょうか」


「…………え?」


 葵は顔を上げた。


 何か言おうとする。


 けれど、言葉が見つからなかった。


 弟たちは、自分でできることが増えた。


 兄弟で相談するようになった。


 自分に聞かずに、解決することもあった。


 それは、確かだった。


 でも。


『お姉ちゃんなんて、もういらない』


 そんなことを、二人は言っただろうか。


「……言われて、ない」


 葵は、ぽつりと答えた。


「……あの子たち、そんなこと言ってない」


 もう一人の葵が、眉を寄せた。


「でも……」


 葵は、その顔を見た。


「……うん。怖かったんだよね」


 口にして、初めて気づいた。


 自分でできるようになった。


 だから、もう頼られないかもしれない。


 頼られなくなったら、自分の居場所もなくなるかもしれない。


 そうやって、一つ先の不安を、また一つ先へつなげていた。


「……私が」


 葵は、ゆっくりと言った。


「私が、そう思っただけ……?」


 律は、答えを重ねなかった。


 葵は、もう一度、何もない包装台を見た。


 弟たちが成長していることと、自分が愛されなくなること。


 いつの間にか、同じことのように感じていた。


 けれど、本当は。


 まだ、何も確かめていなかった。


*


「……でも」


 もう一人の葵が、震える声を漏らした。


「でも、怖いよ」


 葵は振り向いた。


 もう一人の葵は、自分の腕を抱きしめていた。


「今は、そうかもしれない。でも、これから先は?」


「…………」


「もっと大きくなって、何でも自分でできるようになって……私たちのこと、全然呼ばなくなったら?」


 葵は、答えられない。


 もう一人の葵が、必死に笑おうとした。


「だったら、さっきのところに戻ろうよ」


 白い空間に、赤いリボンが現れた。


 そのリボンは、ひとりでに輪を作り、綺麗な蝶結びになった。


「失敗する前に、助けてあげればいいじゃん」


 続いて、折り紙の箱が現れる。


 包装紙が巻かれ、リボンが結ばれる。


 左右対称の、完璧なプレゼント。


「困らないように、何でもしてあげればいい」


 もう一人の葵は、それを両手で持ち上げた。


「そしたら、あの子たちも嬉しいし」


 差し出される。


「私たちだって、ずっと『ありがとう』って言ってもらえる」


 葵は、プレゼントを見つめた。


 綺麗だった。


 自分が結べば、きっとこうなる。


 弟たちが喜んでくれる姿も、簡単に想像できた。


 もう一人の葵が、小さく尋ねる。


「……それじゃ、だめ?」


 葵は、すぐには答えなかった。


 目の前のプレゼントを、突き返すこともできなかった。


 自分の手で何かをしてあげたい。


 困っていたら、助けたい。


 役に立てたら、嬉しい。


 それは、確かに自分の気持ちだった。


「……だめじゃないよ」


 もう一人の葵が、顔を上げた。


「……ほんと?」


「うん」


 葵は、少しだけ笑った。


「頼ってくれたら、嬉しいもん。困ってたら、これからも助けたいよ」


 もう一人の葵の肩から、力が抜けた。


「……よかった」


 その声を聞いて、葵の胸が痛んだ。


 この子は、ずっと怖かったのだ。


 頼られたいと願う自分まで、捨てなければいけないと思っていたのかもしれない。


 葵は、もう一人の自分が差し出したプレゼントを見た。


「……でもね」


 そのとき、包装台の反対側に、もう一つの箱が現れた。


 折り紙の箱。


 昆虫の消しゴム。


 そして、少し曲がったリボン。


 葵は、そちらへ目を向けた。


 弟たちが、何度も結び直していたリボンだった。


『こっちを輪にして!』


『えー、むずかしい!』


『もう一回!』


 楽しそうな声が、耳の奥によみがえる。


 葵は、そっと箱を手に取った。


 曲がった輪に、指先が触れる。


 直そうと思えば、直せた。


 少し引っ張って、形を整えればいい。


 でも。


 葵は、指を止めた。


 あのとき二人は、自分たちで作りたかったのだ。


 自分たちで考えて、失敗して。


 最後に、できた、と笑った。


「……あの子たちが、自分でやってみたいって言ったら」


 葵は、もう一人の自分を見た。


「それも、大事にしたい」


「…………」


「失敗しても、頑張ってるところ……ちゃんと見てたい」


 もう一人の葵の笑顔が、ゆっくりと消えた。


 葵は、曲がったリボンを直さずに、包装台へ戻した。


*


「……私、必要とされたいよ」


 葵は、もう一人の自分に向き直った。


「これからも、あの子たちのお姉ちゃんでいたい」


「……うん」


「呼んでもらえたら嬉しいし、頼ってもらえたら、きっとまた安心しちゃうと思う」


 葵は、少し困ったように笑った。


「……たぶん、寂しくもなる」


 もう一人の葵が、小さく頷く。


「……うん」


「でも」


 葵は、包装台の上に並んだ二つのプレゼントを見た。


 完璧な蝶結び。


 少し曲がった蝶結び。


 どちらか一つを、悪いものとして捨てる必要はない。


 誰かが助けてくれたから、できることもある。


 自分たちだけで挑戦したから、できることもある。


 大切なのは、きっと。


 そのとき、相手が何を望んでいるのか。


 そして、自分が何をしようとしているのか。


 葵は、ゆっくりと息を吸った。


「……でも、あの子たちの『できた』を、奪いたくない」


 声が、白い空間に響いた。


 もう一人の葵は、目を見開いた。


 その手にあった、完璧なプレゼントが、静かに包装台へ降りていく。


「……じゃあ」


 もう一人の葵が、俯いた。


「じゃあ、私の居場所は?」


 葵は、その顔を見つめた。


 答えは、まだ分からなかった。


 弟たちが、これからどれくらい自分を頼ってくれるのか。


 どんなふうに大きくなっていくのか。


 その先で、自分が何をしているのか。


 何一つ、分からない。


「……分かんない」


 葵は、正直に答えた。


 もう一人の葵が、顔を上げる。


「……え?」


「私だって、分かんないよ」


 葵は、小さく笑った。


「将来、何したいのかも、まだ決まってないし」


 その言葉に応えるように、白い空間に光が浮かんだ。


 一枚の紙。


 進路希望調査だった。


 名前の下には、何も書かれていない。


 続いて、スマートフォンの画面が現れる。


『日曜日の映画、どうする?』


 友人からのメッセージ。


 葵は、二つを見つめた。


 弟たちのことを考えるのが、嫌になったわけじゃない。


 お姉ちゃんでいるのを、やめたいわけでもない。


 ただ。


 自分にも、まだ考えていないことがあった。


「……私も、これからどうしたいか、考えなきゃね」


 葵は、もう一人の自分へ向き直った。


 そして、手を差し出した。


「……一緒に考えよ」


 もう一人の葵が、差し出された手を見つめる。


「……私も?」


「うん」


「……いいの?」


 葵は、思わず笑った。


「だって、私でしょ?」


 もう一人の葵の目が、揺れた。


 その顔から、笑みが消える。


 代わりに、今にも泣きそうな表情が浮かんだ。


「……怖いよ」


「……うん」


「これからも、寂しくなるかもしれないよ」


「……うん」


「また、あんなこと考えちゃうかも」


 葵は、少しだけ考えた。


「……そしたら、また考えよ」


「…………」


「どうしてそう思ったのか。どうしたらいいのか」


 葵は、手を差し出したまま言った。


「今度は、聞こえなかったことにしないから」


 もう一人の葵が、ゆっくりと手を伸ばした。


 指先が触れる。


 同じ温かさだった。


 葵は、その手を握った。


*


――カラ、カラ。


 包装台の上で、赤いリボンが動き始めた。


 ほどける。


 結ばれる。


 また、ほどける。


 葵は、その動きを見つめた。


 さっきまでは、何度繰り返しても、同じ場所へ戻っていた。


 弟たちができるようになる。


 嬉しいのに、寂しくなる。


 また、頼られたくなる。


 頼られて、安心する。


 そして、弟たちができるようになるたびに――。


 リボンが、再びほどけかけた。


 葵は、反射的に手を伸ばした。


「……あ」


 指先が、空中で止まる。


 結び直そうとしていた。


 今度こそ、綺麗に。


 ほどけないように。


 そうすれば、安心できる気がしたから。


 葵は、伸ばした手をゆっくりと下ろした。


 リボンが、少しだけ揺れる。


 曲がった蝶結びのまま、そこに残った。


 もう一人の葵が、握った手に力を込める。


「……直さないの?」


 葵は、結び目を見つめた。


「……うん」


 少し笑って、答える。


「これは、あの子たちが結んだんだもん」


 リボンの動きが、止まった。


 静寂。


 その中で、短い電子音が鳴った。


 ピッ。


 律が黒い端末を開く。


[SYSTEM LOG]

PATIENT : 咲良葵

PROCESS : greed.pcs

STATUS : 無限ループ

EXIT CONDITION : 選択を検出

Do


  Select Case [弟たちの「できた」に向き合う]


Case [不安を埋めるために先回りする]

Call [代わりに完成させる]

Call [一時的な安心]

Case [弟たちの望みを確かめて関わる]

Call [自分でやる姿を見守る]

Call [頼まれたら一緒に手伝う]

Exit Do

End Select

Loop

[SYSTEM LOG]

UNLOOP_SUCCESS: greed.pcs


 めぐるが、画面を覗き込んだ。


「……一条先生」


「ええ」


 律は、葵と、その隣に立つもう一人の葵を見た。


「ご自身で、選ばれたようですね」


 葵は、端末の文字を見つめた。


「……終わった、んですか?」


「この繰り返しからは、抜けられたようです」


「…………」


「ただ、これから寂しさを感じなくなる、という意味ではありません」


 葵は、もう一人の自分を見た。


 その手は、まだ自分の手の中にある。


「……うん」


 今なら、それでいいと思えた。


 寂しくなってもいい。


 頼ってほしいと思ってもいい。


 その気持ちに、何をさせるか。


 そこは、自分で考えたい。


 白い空間の向こうに、細い光が差した。


 ショッピングモールの出口だった。


 自動扉の向こうには、夕方の公園が見える。


 葵は、その景色を見つめた。


「……帰れるんだ」


 めぐるが微笑む。


「はい」


 葵は、一歩踏み出した。


 もう一人の葵も、隣を歩いた。


 出口へ近づくにつれて、握っている手の感触が少しずつ薄くなっていく。


 葵は、慌てて握り直そうとした。


 すると、もう一人の葵が笑った。


「……大丈夫」


 その声は、葵自身の声と重なっていた。


「ちゃんと、いるから」


 葵は、そっと頷いた。


 隣の姿は、光の中で輪郭を失っていく。


 けれど、葵はもう、目を逸らさなかった。


*


出口の手前で、葵は振り返った。もう、二つのプレゼントは見えない。


『俺たちで作ったんだから』


『……これ、だめ?』


 胸が痛む。でも、今度は目を逸らさなかった。


「……帰ったら、ちゃんと話そ」


 許してくれるかは分からない。それでも、二人の顔を見て話したい。


 自動扉が開き、公園の笑い声と木の葉の音が届く。


 葵は、光の中へ足を踏み出した。


*


気づくと、夕暮れの公園だった。目の前に律とめぐるがいる。


「これから、どうされますか?」と律。


「……帰ります。ちゃんと謝ってきます」


「ええ」


 葵は公園の出口を見た。謝っても、許してもらえないかもしれない。


「……怖いけど、ちゃんと聞いてきます」


 めぐるが微笑んだ。


「気をつけて帰ってくださいね」


 葵は頭を下げ、家へ向かった。


*


玄関の扉を開けると、いつもの匂いがした。


 夕飯の支度をする音。


 廊下に転がった、小さなボール。


 脱ぎっぱなしの靴。


「……ただいま」


「お姉ちゃん、おかえりー!」


 リビングから、下の弟の声がした。


 葵は、靴を脱ぐ手を止めた。


 いつもどおりの声だった。


 自分があんなことを言ったあとも、この子は「おかえり」と言ってくれる。


 それだけで、少し泣きそうになった。


「……ただいま」


 もう一度、小さく返事をする。


 リビングに入ると、弟二人が床に座っていた。


 三年生の弟が何かを紙に書いている。


 下の弟は、その横から覗き込み、あれこれ口を出していた。


 葵の姿に気づくと、二人はぱっと顔を上げた。


「あっ」


「お姉ちゃん!」


 けれど、三年生の弟はすぐに手元の紙を裏返した。


 下の弟も、慌ててその上に両手を置く。


「……何でもない!」


「……え?」


「何でもないって!」


 二人が顔を見合わせる。


 葵の胸に、ほんの少しだけ、あの感覚が戻ってきた。


 自分には教えてくれない。


 二人だけで、何かをしている。


 ……また、少し寂しい。


 葵は、その気持ちに気づいた。


 気づいて、そっと息を吐いた。


「……そっか」


 無理に覗き込まず、二人の前にしゃがむ。


「ねえ。ちょっと、話してもいい?」


*


三年生の弟が、首を傾げた。


「何?」


 葵は、膝の上で手を重ねた。


「……この前のプレゼントのこと」


 二人の表情が、少し変わった。


 下の弟が、心配そうに葵を見上げる。


 葵は、その目を見て言った。


「この前、言い方が悪かったって謝ったけど……それだけじゃなかった。二人で頑張って作ったのに、私、ちゃんと『できたね』って言えなかった。ごめんね」


 声が震えそうになった。


 でも、目は逸らさなかった。


「私、きれいに直すことばかり考えて……二人がどうしたかったか、聞いてなかった」


 三年生の弟が、唇を尖らせた。


「……ほんとだよ」


「……うん」


「俺たちでやりたかったのに」


「……うん。ごめん」


 弟は、少し俯いた。


「……別に、手伝ってくれるのが嫌だったわけじゃないし」


 葵は、顔を上げた。


「でも、俺たちでできると思ったから……やってみたかったんだよ」


「……そっか」


 葵は、ゆっくりと頷いた。


「うん。そうだよね」


 下の弟が、葵の袖をつまんだ。


「……お姉ちゃん」


「ん?」


「また、できなかったら……手伝ってくれる?」


 葵は、目を見開いた。


 それから、笑った。


「もちろん」


 下の弟の顔が、ぱっと明るくなる。


「でも、二人でやってみたいときは、ちゃんと見てるね」


「……うん!」


 三年生の弟も、小さく頷いた。


 葵は、二人が次の言葉をくれるのを待った。


 弟たちは顔を見合わせた。


 何か、目だけで相談している。


 葵は、思わず笑った。


「……何、その顔」


「……なあ」


 三年生の弟が、下の弟に小声で話しかける。


「もう、渡していいよな?」


「うん!」


「……渡す?」


 葵は首を傾げた。


「何を?」


 三年生の弟が、立ち上がった。


「ちょっと待ってて!」


 下の弟も、そのあとを追いかける。


「お姉ちゃん、目つぶって!」


「えっ、何で?」


「いいから!」


「……はいはい」


 葵は笑いながら、目を閉じた。


 廊下を走る足音。


 何かを取り出す音。


「そっち持って!」「分かってるって!」


 葵は、思わず吹き出した。


 しばらくして。


 二人の足音が、目の前で止まった。


「……せーの、でいい?」


「うん!」


「せーの!」


二人が声を揃えた。「お姉ちゃん!」


「……ん?」


「目、開けていいよ!」


 葵は、ゆっくりと目を開けた。


*


二人が、何かを差し出していた。


 小さな包みだった。


 包装紙の端が、少し浮いている。


 テープも、斜めに貼られている。


 赤いリボンは、左右の輪の大きさが揃っていなかった。


「…………え?」


 葵は、包みを見つめた。


 下の弟が、得意げに胸を張る。


「プレゼント!」


「……プレゼント?」


「うん!」


 三年生の弟が、少し照れくさそうに言った。


「……お姉ちゃんに」


 葵の思考が、止まった。


「……私に?」


「そう!」


 下の弟が、大きく頷いた。


「お姉ちゃんには、ないしょだったの!」


「…………」


 葵は、二人の顔を見た。


 そして。


 思い出した。


『お姉ちゃんには内緒ね』


 あの日、二人が顔を寄せ合っていたこと。


 あれは、自分を仲間外れにする相談ではなかった。


 そう知らないまま、二人の失敗を願ってしまった。


「…………っ」


 葵は、息を呑んだ。


 違った。


 あの子たちは、自分を置いていこうとしていたんじゃない。


 自分に、内緒で――。


「……お姉ちゃん?」


 下の弟が、不思議そうに顔を覗き込む。


「どうしたの?」


「……ううん」


 葵は、慌てて首を横に振った。


「……何でも、ない」


 三年生の弟が、包みを少し持ち上げた。


「ほら。開けてみてよ」


「……うん」


 葵は、両手で包みを受け取った。


 思っていたより、軽かった。


 リボンに指をかける。


 少し曲がった蝶結び。


 あのとき、自分が直そうとしたものと、よく似ていた。


 葵は、その結び目をしばらく見つめた。


 そして。


 形を整えずに、そっとほどいた。


*


中から出てきたのは、小さな手作りのカードだった。


 厚紙を折って、色鉛筆で絵が描いてある。


 大きな女の子が一人。


 その両側に、小さな男の子が二人。


 三人とも、笑っていた。


 真ん中の女の子は、両手を広げている。


 その手を、弟二人がそれぞれ握っていた。


「…………」


 葵は、カードを開いた。


 不揃いな文字が、並んでいた。


『おねえちゃんへ』


『いつも ありがとう』


『いっしょに あそんでくれて ありがとう』


『だいすき』


 最後に、弟二人の名前。


 文字の大きさも、傾きも、不揃いだった。


 葵は、読み終わっても顔を上げられなかった。


「……これ」


 喉の奥が、詰まった。


「……二人で、作ったの?」


「うん!」


 下の弟が、嬉しそうに頷いた。


「ぼく、絵かいた!」


 三年生の弟が、その横から口を挟む。


「字は俺が手伝った。まだ書けない漢字あるから」


「でも、『だいすき』は、ぼくが書いた!」


「それはそうだな」


 二人が笑い合う。


 葵は、カードを見つめたまま、動けなかった。


「……いつもさ」


 三年生の弟が、少し照れたように頭をかいた。


「俺らに、いろいろやってくれるじゃん」


「…………」


「だから、今度は俺たちで、お姉ちゃんに何か作ろうって」


 下の弟が、勢いよく頷く。


「そう! お姉ちゃん、びっくりさせようって!」


「……別に、そんなすごいもんじゃないけど」


「すごいもんだよ!」


「分かったって!」


 また、二人が笑う。


 葵は、その声を聞いていた。


 聞きながら、カードの真ん中に描かれた自分を見つめた。


 ずっと。


 ずっと、自分は。


 弟たちに必要とされなくなったら、どうしようと思っていた。


 自分がいなくても何でもできるようになったら。


 自分の出番がなくなったら。


 自分の居場所まで、なくなってしまう気がしていた。


 でも。


 二人は、自分たちで考えていた。


 自分たちで作っていた。


 自分たちの手で、何かを届けようとしていた。


 その相手が。


「……私、だったんだ」


 ぽつりと、声が漏れた。


「え?」


 下の弟が首を傾げる。


 葵は、首を横に振った。


 笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「……ごめん」


「何で?」


「……ごめん、ちょっと」


 視界が、滲んだ。


 カードの文字が、見えなくなる。


 葵は慌てて目元を拭った。


 でも、次から次へと涙がこぼれた。


「……お姉ちゃん!?」


 下の弟が、ぎょっとした顔をする。


「え、何で泣いてんの!?」


 三年生の弟も、慌てて葵を見た。


「……プレゼント、変だった?」


「……違う」


 葵は、首を振った。


「違う、違うの……!」


 カードを胸に抱きしめる。


「……嬉しいの」


 ようやく、それだけ言えた。


「すっごく……嬉しいの……!」


 下の弟が、ほっとしたように息を吐いた。


「……なんだあ」


 三年生の弟も、肩の力を抜いた。


「びっくりした……」


 葵は、二人を見た。


 小さかった手。


 いつの間にか、自分で結べるようになった靴紐。


 友達と、自分の言葉で仲直りできるようになった兄。


 その兄を頼って、何度でも挑戦する弟。


 成長していた。


 自分の知らないところでも。


 自分が手を貸さなくても。


 ちゃんと、二人で。


 それが、こんなにも嬉しかった。


 そして――。


 こんなにも、寂しかった自分へ。


 二人は、何も知らずに「ありがとう」を届けてくれた。


「……私ね」


 葵は、涙を拭いながら言った。


「二人に、いろいろしてあげるの……好きだったんだ」


「……うん?」


「一緒に何かするのも。できないことを手伝うのも……」


 声が震えた。


「……お姉ちゃんって呼んでもらうのも、大好きだった」


 下の弟が、きょとんとする。


「……じゃあ、呼ぶ!」


「……え?」


「お姉ちゃん!」


 葵は、目を見開いた。


「お姉ちゃん!」


 もう一度。


「お姉ちゃーん!」


「……もう」


 葵は、泣きながら笑った。


「……何回呼ぶのよ」


「いっぱい!」


 三年生の弟が、呆れたように笑う。


「うるさいって」


「お兄ちゃんも呼んで!」


「何で俺まで」


「いいから!」


 三年生の弟が、少し顔を赤くした。


 それから、小さな声で言った。


「……お姉ちゃん」


「…………」


 葵は、とうとう顔を覆った。


 笑いたいのに。


 嬉しいのに。


 涙が、止まらなかった。


*


しばらくして。


 下の弟が、葵の膝に手を置いた。


「……ねえ、お姉ちゃん」


「……ん?」


「あのね」


 弟は、葵が抱えているカードを指さした。


「そこ、ぼくたち三人なの」


「……うん」


「お姉ちゃん、真ん中!」


「……うん」


「だからね」


 弟は、少し得意げに笑った。


「また、三人で遊ぼうね」


「…………っ」


 葵の胸が、きゅっと熱くなった。


 三年生の弟が、少し照れくさそうに視線を逸らす。


「……まあ、俺もいいけど」


「やった!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 葵は、そのやり取りを見ながら、カードを見下ろした。


 三人の絵。


 真ん中に描かれた、自分。


 両側から伸びている、小さな手。


 そこに描かれているのは、何でもできるお姉ちゃんではなかった。


 弟たちの代わりに、全部やってあげている自分でもなかった。


 ただ、二人と一緒に笑っている、自分だった。


 葵は、そっとカードを撫でた。


「……そっか」


 小さく呟く。


「……そっかあ……」


 一緒に過ごした時間が、あの絵の中にあった。


 葵は、顔を上げた。


 弟たちが、こちらを見ていた。


 何か言ってくれるのを、待っている。


 葵は、二人に向かって両手を広げた。


「……おいで」


「え?」


「……二人とも、ぎゅーってさせて」


 下の弟が、真っ先に飛び込んできた。


「ぎゅー!」


 三年生の弟は、少し照れくさそうに立っていた。


「……俺まで?」


「……うん。お願い」


 その声を聞いて、弟は少しだけ目を丸くした。


 それから、何も言わずに近づいてきた。


 葵は、二人を抱きしめた。


 いつか、二人はもっと遠くへ行くだろう。また寂しくなっても、今はこの温かさを受け取っていたい。


 葵は、二人の背中にそっと腕を回した。


「……ありがとう」


 声が震えた。


「……二人とも、ありがとう」


 下の弟が、葵の肩に顔を埋めたまま尋ねる。


「……プレゼント、好き?」


 葵は、少し身体を離して、二人の顔を見た。


 涙を拭って、笑った。


「……大好き」


 下の弟が、嬉しそうに笑う。


 三年生の弟も、照れくさそうに口元を緩めた。


 葵は、曲がったリボンと三人の絵を見た。直すところなんて、どこにもなかった。


 葵は、カードを胸に抱いた。


「……二人で作ってくれたんだね」


「うん!」


「……うん」


 二人が頷く。


 葵は、泣きながら笑った。


「……私のために、二人で頑張ってくれたんだね」


 弟たちも、笑った。


 夕方のリビングに、三人分の笑い声が重なった。


 その真ん中で、葵はもう一度、カードを抱きしめた。


 今度は、涙が落ちないように。


 大切な、大切な、二人からのプレゼントだったから。


*


 夕暮れの街を、一条律と夜坂めぐるが歩いていた。


「……咲良さん、弟さんたちと話せたでしょうか」


「分かりません」


「……ですよね」


 めぐるは、少しだけ笑った。


「でも、話すって決めたのは、葵さん自身ですもんね」


 律は小さく頷いた。


 その時。


 黒い端末が、短く震えた。


 律が取り出すと、画面に一行だけ表示されていた。


[WARNING]

ERROR_DETECTED : system.envy.pcs


「……また?」


「ええ」


 街のどこかで。


 また一つ。


 新しいエラーが発生した。


 PROJECT PCS。


 次のデバッグが始まる。


 第2話・完



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。