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第1話 怠惰(sloth.pcs)


【一条律 精神バグ解析記録】


人間の精神は、複雑なシステムだ。


思考、感情、記憶、欲求、恐怖、価値観、自己認識。


それらは生きていく中で蓄積され、互いに影響しながら、その人間自身を動かすためのルールを形成していく。


私は、それをPCS――Psychological Control System、精神制御システムと呼んでいる。


簡単に言えば、人間の心のOSだ。


PCSは、これまでの人生によって形成される。


過去の経験から生まれた、


「こうすれば傷つかない」


「こうしなければならない」


といった無意識のルール。


それは本来、その人間自身を守るために必要だった。


しかし、環境が変わっても、古いルールだけが残ることがある。


正常だった処理が過剰化し、固定化し、現実とのズレを起こす。


そして、同じ処理を繰り返し始める。


私は、それを精神バグと呼んでいる。


ただし、勘違いしてはいけない。


バグは、悪ではない。


問題なのは感情そのものではない。


その感情を処理するPCSが、誤作動していることだ。


本来ならシステムの異常であるものを、自分自身の欠陥だと思い込んでしまう。


精神バグの本質は、そこにある。


同じ感情。


同じ思考。


同じ判断。


同じ行動。


苦しみから逃れるために選んだ行動が、再び同じ苦しみを生み出す。


環状の感情劇。


終わらない円舞曲。


私は、そのバグを削除するために存在しているわけではない。


なぜ、その処理が必要になったのか。


かつて、それが本人を守るために必要だった理由は何だったのか。


そして――今も、それは必要なのか。


それを探す。


私は精神科医であり、デバッガーだ。


患者に答えを与えることはできない。


代わりに決断することもできない。


私にできるのは、構造を示し、矛盾を指摘し、本質を問いかけることだけだ。


最後の選択は、必ず本人に返す。


デバッグとは、答えを教えることではない。


自分が同じ場所を回り続けていたことに気づき、自分自身の意思で、別の選択肢を選ぶことだ。


その先にあるものを、私は――


「exit do」と呼んでいる。


では――


次のエラーを確認しよう。




[SYSTEM LOG]


ERROR DETECTED


PROCESS : sloth.pcs


STATUS : 無限ループ


PATIENT : 夜坂めぐる




■第1話 怠惰(sloth.pcs)




朝。


夜坂めぐるは、目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。


スマートフォンを手に取る。


昨夜送った企画書に、上司から返信が来ていた。


『助かったよ。ありがとう』


「……よかった」


その一言だけで、少し嬉しくなった。


誰かの役に立てた。


そう思うと、少しだけ安心した。


それが、めぐるにとって頑張る理由の一つだった。




会社では、頼まれた仕事を断らない。


昼休みも、「これだけ終わらせてから」と席を立たない。


定時を過ぎても、資料の一か所が気になればパソコンを開く。


「……もう少しだけ」


ある日の午後。


斜め前の席から、小さな咳が聞こえた。


めぐるが顔を上げる。


同僚が、口元を押さえていた。


「大丈夫ですか?」


「うん。ちょっと寝不足なだけ」


笑っている。


けれど、目の下には薄い隈があった。


めぐるは眉を寄せる。


「今日はもう帰った方がいいですよ」


「でも、まだ少し残ってて」


「無理して倒れたら、その方が大変ですから」


同僚は少し迷ってから、頷いた。


「……そうする。ありがとう」


「はい」


めぐるは、その背中を見送った。




その一時間後。


「夜坂さん、これ今日中にお願いできる?」


別の同僚が、申し訳なさそうに資料を差し出した。


めぐるは自分のパソコンを見る。


まだ終わっていない仕事が三つ。


一瞬だけ迷った。


「厳しかったら大丈夫だから」


「いえ」


めぐるは笑った。


「大丈夫です。私、やります」


「助かる。ありがとう」


その人の肩から、少しだけ力が抜けた。


めぐるも、ほっとした。


誰かの役に立てた。


そして少なくとも今の自分は、誰かの足を引っ張っていない。


そう思うと、少しだけ安心した。


自分の画面へ視線を戻す。


未処理の仕事が三つ。


そして、新しく増えた仕事が一つ。




ふと、机の横のスマートフォンへ目が向いた。


休憩中に開いたままだった、水族館のページ。


青い水槽の中を、クラゲがゆっくり漂っている。


めぐるは数秒だけ、その写真を見つめた。


「……行きたいな」


今週こそ行こうと思っていた。


けれど、パソコンの画面には未処理の仕事が四つ。


めぐるは、水族館のページを閉じた。


「……また今度でいいか」


また一つ、自分のことを後回しにした。




そして――


気づけば、終電間際になっていた。


「ガタゴト、ガタゴト。」


終電間際の電車。


時刻は、23時42分。


夜坂めぐるは、座席に座ることもなく、ドア付近に立ったままスマートフォンを操作していた。


画面に映っているのは、今日だけで何度目になるか分からない企画書。


指が止まる。


けれど、数秒後にはまた動き始める。


「……企画書、まだ直さないと」


その直後だった。


通知音。


上司からのメッセージ。


『明日の朝までに、もう一度修正お願いします』


めぐるは、小さく息を吐いた。


「……やらなきゃ」


電車が揺れる。


窓の外を流れていく街の光。


本来なら、もう眠っていなければならない時間だった。


翌朝は6時30分に起きなければならない。


それでも、スマートフォンから目を離せない。


少し前までは、仕事が嫌いなわけではなかった。


むしろ、好きだった。


初めて自分が作った資料を褒めてもらえた日。


『確認しました。とても分かりやすかったです』


その言葉が嬉しかった。


帰り道、少しだけ高いコンビニスイーツを買った。


頑張った自分への、小さなご褒美。


頑張れば、認めてもらえる。


それは、嬉しかった。


頼られることも。


必要としてもらえることも。


けれど、それ以上に。


「私はちゃんとやれている」


「誰かの足を引っ張っていない」


そう思えることが、めぐるを安心させた。


だから、仕事を頼まれれば断らなかった。




最初は、それでよかった。


けれど。


少しずつ睡眠時間が削られていった。


休日にもメールが届く。


平日の夜にも連絡が来る。


それでも、めぐるは自分に言い聞かせた。


みんなも頑張っている。


私だけ弱音を吐くわけにはいかない。


今だけ。


もう少し頑張れば大丈夫。


そうやって、何度も自分を動かした。


そして、ある朝。


目覚ましが鳴った。


「……あと五分」


止める。


目を閉じる。


再び鳴る。


「……あと五分だけ」


また止める。


気づいた時には、出発時間を過ぎていた。


「……っ!」


慌てて飛び起きる。


顔を洗い、着替え、家を飛び出す。


朝食を取る時間はなかった。


駅まで走る。


会社へ着いた頃には、すでに身体が重かった。


席についてパソコンを開く。


いつもならすぐに処理できる仕事なのに、頭が回らない。


手が止まる。


「昨日の資料、まだ終わってないの?」


上司の声が飛んできた。


「……すみません」


「最近ちょっと遅くない?」


「……はい」


席に戻る。


そして、めぐるは自分に言った。


私が怠けているからだ。


疲れている。


眠い。


身体が重い。


頭が働かない。


それらを、すべて一つの言葉に置き換えた。


――怠惰。


休みたい。


でも、休んではいけない。


もっと頑張らなければ。


頑張れない。


自分は怠けている。


もっと頑張らなければ。


休みたい。


その繰り返し。


終わりのないループ。


めぐるは、自分自身を責め続けた。


疲れていることを、怠けていると判断した。


限界を知らせる身体の警告を、自分の欠陥だと思い込んだ。


そして――


今。


23時42分。


終電間際の電車。


めぐるは、スマートフォンを操作していた。


企画書を開く。


文章を直す。


保存する。


また開く。


また直す。


けれど――


何かがおかしい。


画面が暗い。


一度、電源ボタンを押した。


反応しない。


もう一度押す。


反応しない。


そこで、めぐるは気づいた。


スマートフォンの電源は、切れていた。


なのに。


自分の指は、動き続けていた。


指先は、音もなく画面を叩き続ける。


存在しないメールを打ち続けている。


その瞬間。


視界の端に、奇妙な文字が浮かんだ。




' --- ERROR LOG: system.sloth.pcs ---


' INFINITE_LOOP_DETECTED


Do


Call [怠惰を責める私]


Call [終わらない自己嫌悪]


Loop




「……なに、これ……?」


文字は、すぐに消えた。


周囲を見回す。


誰も気にしていない。


電車は、何事もなかったように走っている。


そして――


停車。


扉が開いた。


電光表示には、見覚えのない路線名が浮かんでいた。


【感情線】


「……?」


降りるつもりはなかった。


けれど、なぜか足が動いた。


ホームへ出る。


扉が閉まる。


電車が走り去る。


静かになった。


……いや。


静かではない。


遠くから、何かが聞こえる。


誰かの泣き声。


誰かの怒鳴り声。


誰かの笑い声。


頭上では、電光掲示板が点滅していた。


――まもなく列車が到着します。


時刻はない。


行き先もない。


表示が消える。


そして、また同じ文字が浮かぶ。


――まもなく列車が到着します。


ホームにいる人々は、誰も気に留めない。


めぐるの前を、一人の男が通り過ぎた。


俯いたまま歩いている。


しばらくすると、反対側から同じ男が歩いてきた。


同じスーツ。


同じ鞄。


同じ顔。


「……何、ここ……」


めぐるは、歩いている人々を見つめた。


誰もが疲れている。


俯いたまま歩く人。


眠そうに目を擦る人。


足取りがおぼつかないのに、それでも前へ進み続ける人。


その時、一人の女性がベンチに座り込んだ。


「……もう、無理……」


目を閉じる。


肩から力が抜ける。


けれど、ほんの数秒後。


「……行かなきゃ」


女性は再び立ち上がった。


そして、また歩き始める。


めぐるは、その姿を目で追った。


「……休めばいいのに」


そう思った。


けれど――


すぐに、別の考えが浮かんだ。


あの人も頑張っている。


私だけ休んだら――


「……駄目だよね」


胸の奥が、ざわつく。


休みたい。


でも、みんな頑張っている。


だから、自分も頑張らなければならない。


「……まただ」


めぐるは、自分でも気づかないうちにスマートフォンを握りしめていた。


電源は入っていない。


それでも、指が画面をなぞる。


仕事をしなければ。


何かしなければ。


止まったら、置いていかれる。


休んだら、負ける。


「……違う」


そう思った。


けれど――


何が違うのか、自分でも分からない。


その時だった。


「実に熱心な勤勉さですね」


背後から声がした。


振り返る。


そこに、一人の男が立っていた。


白衣。


少し大きめのサイズ。


眠そうな目。


そして、その手には黒い端末がある。


男は、めぐるを見る。


「仕事?」


「……え?」


「今、何をしているんです?」


「仕事……です」


男は、めぐるの手元を見る。


そして、淡々と言った。


「いいえ」


「あなたが今やっているのは、仕事ではありませんよ」


めぐるが戸惑う。


男は続けた。


「仕事のフリをした、自傷行為です」


「……自傷……?」


黒い端末に、文字が流れる。


[SYSTEM STATUS]


CPU_LOAD : 99.8%


MEMORY_STATUS : 危険


PROCESS : 睡眠中断


SELF_CRITICISM : 過負荷


「あなたのPCSは、現在かなり危険な状態です」


「PCS……?」


「あなたの精神を動かしているシステムです」


男は端末を操作する。


「身体から送られている『休め』という警告を、あなたは別の処理へ変換している」


「……別の処理?」


「怠惰です」


めぐるの表情が固まる。


「疲れている」


「眠い」


「動けない」


本来なら、限界を知らせる正常な警告。


しかし、めぐるのPCSは、それを――


『自分は怠けている』


という意味に変換する。


「だから、罪悪感が生まれる」


「罪悪感が、自己否定を呼ぶ」


「自己否定が、さらに過剰な労働を要求する」


男は端末を閉じた。


「そして、また疲れる」


「……」


「脱出条件のない感情を、人間は何度も何度も繰り返し演じ続ける」


少しだけ、男の目が細くなる。


「……不条理で、滑稽な『環状の感情劇』ですよ」


「ここは……何なんですか?」


「感情線です」


「感情線?」


「感情のループから抜けられなくなった人間が、たどり着く場所です」


男は、めぐるを見た。


「あなたも、その一人です」


めぐるは何も言えなかった。


男は黒い端末を操作する。


画面に、めぐるの処理が表示された。




Do


If [過労状態 = true] Then


Call [自己否定]


Call [過剰労働]


Else


Call [通常労働継続]


EndIf


Loop




「これが、あなたの処理です」


「……」


「あなたは、ちゃんとしないといけないと思っている」


「……はい」


「誰にです?」


「……会社に」


「なぜ?」


「迷惑をかけるから」


「誰に?」


「みんなに……」


「なぜ?」


「私がやらないと……」


男は、少し離れたベンチへ視線を向けた。


「さっき、あの女性には『休めばいいのに』と言いましたね」


「……はい」


「では、なぜ自分には言えないんです?」


めぐるは答えられなかった。


「……分かりません」


男は、めぐるへ視線を戻した。


「でも、一度も『私はこうしたい』とは言っていない」




「……」


「では、質問を変えましょう」


男は、めぐるを真っ直ぐ見る。


「あなたは――本当は、どうしたいんです?」


「……分からない」


「そうでしょうね」


男の声は、相変わらず淡々としていた。


「あなたは長い間、自分の答えを聞いていませんから」


その瞬間。




男――一条律は、めぐるを見つめた。




そして、白衣の内側へ手を入れる。




指先が触れたのは、黒い端末ではない。




古びた小さなデバイス。




傷だらけの筐体。




古い接続端子。




一条は、それを一瞬だけ見つめた。




その目に、わずかな影が落ちる。




後悔にも似た、何か。




だが、それも一瞬だった。




デバイスを戻す。




「さて」




一条は、いつもの無表情へ戻った。




「デバッグを始めましょう」




右手を、ゆっくりと掲げる。




その瞬間。




ホームを満たしていた音が止まった。




泣き声も。




怒鳴り声も。




電光掲示板の電子音も。




風さえも止まる。




めぐるが息を呑む。




一条が指を鳴らした。




パチン――。




世界が歪んだ。




駅も。




人も。




時計も。




すべてが、無数のデータへと変換されていく。




<<PCS SYSTEM>>




<<CONNECTING...>>




<<PCS NEURAL LINK>>




世界が切り替わった。




そこは、深夜二時のオフィスだった。


時計は、02:03。


「……え?」


めぐるは、その場で固まった。


さっきまで、自分は駅のホームにいたはずだった。


見慣れた机。


パソコン。


蛍光灯の白い光。


けれど、人の気配がない。


「ここ……会社?」


めぐるは周囲を見回す。


「先生……?」


少し離れた場所に、一条が立っていた。


「ここ……さっきの場所とは違うんですか?」


「ええ。ここからが、あなたのPCS内部です」




「私の……?」


その時。


ピコン。


パソコンから、通知音が鳴った。


めぐるの肩が跳ねる。


机の上には、終わることのない書類。


パソコンには、未読メール。


スマートフォンには、通知。


いくら処理しても、次から次へと仕事が現れる。


「……」


めぐるの手が、無意識に伸びた。


「……あれ?」


自分でも止めるより早く、机の上に積まれた書類を一枚手に取っていた。




「……これを終わらせれば」


ペンを走らせる。


一か所、修正する。


もう一度、最初から確認する。


「……ここも」


また修正する。


保存ボタンを押す。


これで終わった。


そう思った瞬間――


ピコン。


パソコンの画面に、新しいメールが表示された。


『先ほどの資料ですが、こちらも確認をお願いします』


「……はい」


誰もいないオフィスで、めぐるは小さく返事をした。


メールを開く。


添付された資料を確認する。


一枚。


二枚。


三枚。


「……これも、今日中に……」


処理を始める。


一つ終わる。


すると、別の資料が目に入った。


「……あ」


さっき修正した資料だった。


「ここ……まだ、確認してない」


開く。


確認する。


修正する。


保存する。


ピコン。


『念のため、こちらもお願いします』


「……」


また手を動かす。


一つ終わる。


また一つ。


それでも、終わらない。


時計を見る。


02:03。


針は動いていなかった。


「……え?」


さっきから、ずっと同じ時刻だった。


めぐるは立ち上がろうとする。


けれど、椅子から離れられない。


手を見る。


指が勝手に動いている。


キーボードを叩く。


保存する。


確認する。


修正する。


また保存する。


「……これで終わり」


けれど、画面には新しい資料。


「……これが終われば」


また新しいメール。


「……これも……」


さらに通知。


「……これを……」


言葉が、途切れた。


何を終わらせればいいのか。


自分でも、分からなくなっていた。


それでも、手だけは止まらない。


「……終わらせなきゃ」


その時だった。


「夜坂さん、これお願いできる?」


声が聞こえた。


めぐるが顔を上げる。


誰もいない。


「……?」


再び声。


「夜坂さん」


今度は、パソコンからだった。


真っ白な画面。


そこから声だけが流れてくる。


『これ、お願いできる?』


聞き覚えのある言葉。


そして――


『はい、大丈夫です』


「……え?」


めぐるが息を呑む。


自分の声だった。


別のパソコンが点灯する。


『悪いね。助かるよ』


『いえ』


さらに別の画面。


『夜坂さん、本当に助かった』


『大丈夫です』


スマートフォンが震える。


『今日中にお願いできますか?』


勝手に返信欄へ文字が入力される。


『はい、大丈夫です』


「……やめて」


ピコン。


『これもお願いできる?』


『はい、大丈夫です』


ピコン。


『明日まででいいから』


『はい、大丈夫です』


ピコン。


『急ぎじゃないんだけど』


『はい、大丈夫です』


「やめて……」


めぐるはスマートフォンを伏せた。


けれど、今度は部屋中から声が聞こえ始める。


『もう少しだけ』


『これだけ終わらせてから』


『みんなも頑張っている』


『私だけ弱音を吐くわけにはいかない』


『今だけ』


『もう少し頑張れば大丈夫』


「……違う」


めぐるは耳を塞ぐ。


『頑張れば、認めてもらえる』


『頼られるのは嬉しい』


『迷惑をかけちゃいけない』


「やめて……!」


めぐるが叫ぶ。


声が止まった。


静寂。


荒い呼吸だけが、暗いオフィスに響いた。


そして。


最後に一つ。


すぐ背後から、声がした。


『もっと頑張らなきゃ』


めぐるは振り返る。


誰もいない。


けれど、その声が誰のものなのか。


もう分かっていた。


「……私……?」


返事はない。


もう仕事を終わらせたいのか。


それとも――


仕事をしている自分を、終わらせたくないのか。


めぐる自身にも、その違いが分からなかった。


「……無理……」


めぐるが呟く。


「先生……」


「何です?」


少し離れた場所に、一条は立っていた。


最初からそこにいた。


助けようともせず。


止めようともせず。


ただ、めぐるを見ていた。


「助けて……ください」


一条は、すぐには答えなかった。


手にしていた黒い端末へ視線を落とす。


そして――閉じた。


「解決するのは、私ではありません」


「……え?」


一条は、めぐるを見る。


いつもの眠そうな目が、ほんの少しだけ細くなる。


口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。


「あなたです」


「でも……」


笑みは、もう消えていた。


「私はバグを見つけることができる」


一条は、閉じた端末に指を置く。


「どこで処理が間違っているのかを示すこともできる」


「しかし、あなたの代わりに休むことはできません」


「……」


「あなたの代わりに、自分を許すこともできない」




壁に、巨大な文字が浮かび上がる。


USER_COMMAND : もっと頑張る


EXECUTION_COUNT : 18,742,193




「これが、あなたの命令です」


めぐるは、その数字を見つめる。


「……こんなに……」


「何度も繰り返してきた」


一条は淡々と続ける。


「ですが、これはあなたが怠けている証拠ではありません」


「……」


「身体が限界を知らせているだけです」


「それは……」


めぐるは俯いた。


「……休んだら、負けじゃないですか」


「誰に?」


「……会社に」


「他には?」


「上司に……」


「他には?」


「……同僚に」


「他には?」


「社会に……」


一条は少しだけ間を置いた。


「それとも――」


静かな声。


「自分自身ですか?」


「……」


めぐるの唇が震える。


「休んだら……誰かに仕事がいく」


「……」


「私の分まで、誰かがやることになる」


一条は、めぐるを見る。


「それが怖い?」


「……はい」


「人を助けたい。それは本当でしょう」


「……はい」


「では、もう一つ」


めぐるの指が震えた。


「助ける側にいれば、自分は負担にならずに済む」


「……」


めぐるの唇が、ゆっくり動く。


「……私が」


声が掠れた。


「迷惑をかける側に、なりたくない」




一条は何も言わない。


ただ、端末を操作する。


画面に、新しい処理が表示された。




If [もっと頑張る] Then


Call [自己否定]


Call [過剰労働]


' Next -> Loop


ElseIf [休む] Then


' Next -> UNKNOWN_STATE


EndIf




「選択肢は二つです」


「……休んだら、どうなるんですか?」


「分かりません」


「……え?」


「私は、あなたの人生を保証できません」


めぐるは、一条を見る。


「じゃあ……どっちが正しいんですか?」


一条は、静かに答えた。


「正しいかどうかではありません」


「……え?」


「あなたは今まで、自分を守る選択肢だけを、最初から不正解にしていた」


一条は一つずつ言葉を置いていく。


「休むことも」


「誰かに頼ることも」


「自分を守ることも」


「……」


「それらを選ぶ前に、『迷惑をかける』と切り捨ててきた」


一条の視線が、めぐるへ向く。


「本当に難しいのは、正しい答えを見つけることではなく――」


「自分で選んだ答えを、自分に許すことです」




「……」


「あなたは、もう十分それを繰り返しました」


その言葉を聞いた瞬間。


めぐるの中から、声が聞こえた。


『……休みたい』


自分の声だった。


『ずっと、休みたかった』


『苦しかった』


『助けてほしかった』


めぐるは、目を閉じる。


そして気づいた。


ずっと、自分を責めていた。


疲れていた自分を。


動けなくなった自分を。


休みたかった自分を。


全部――


「怠けている」と決めつけていた。


「……私」


声が震える。


「私は……怠けてるんじゃない」


一条は何も言わない。


「疲れてるんだ」


胸の奥が、痛い。


それでも、言葉にする。


「だから……」


めぐるは、自分自身を見る。


「私は、休む」


その瞬間。


世界中から、声が響いた。


<<もっと頑張れ>>


<<まだできる>>


<<みんなはやっている>>


<<お前は怠けている>>


めぐるは耳を塞がない。


逃げない。


ただ、その声を聞いた。


そして――


「私は……怠けてるんじゃない」


一歩。


「疲れてるんだ」


もう一歩。


「だから……休む」


世界が震える。


その時。


目の前に、一枚の資料が落ちた。


見覚えのある企画書。


表紙には、大きな赤い文字。


<<未完了>>


めぐるの足が止まる。


<<これだけ終わらせればいい>>


<<明日から休めばいい>>


<<あと少しだけ>>


めぐるは資料を見る。


手を伸ばしかける。


今まで、ずっとそうだった。


今日だけ。


これだけ。


あと少しだけ。


そう言って。


何度も明日の自分へ、限界を先送りしてきた。


指先が資料に触れる寸前で止まる。


「……違う」


めぐるは手を下ろした。


「今日も――私なんだ」


<<未完了>>


「終わってない仕事があっても」


一歩。


「誰かに迷惑をかけても」


もう一歩。


「明日の私じゃなくて」


めぐるは、自分の胸に手を当てる。


「今の私が、もう疲れてる」


企画書が崩れ始める。


文字がノイズへ変わる。


そして最後に、一つだけ文字が浮かんだ。


<<休んだら負けだ>>


めぐるは、その文字を見つめた。


「……誰に負けるの?」


返事はない。


「……誰に?」


沈黙。


そして――


「……誰にも負けない」


その瞬間。


世界の処理が変わった。




Do


Select Case [疲れた私が選ぶ行動]


Case [もっと頑張る]


Call [過剰労働]




Case [自分が弱いだけ]


Call [自己否定]




Case [迷惑をかけたくない]


Call [我慢]




Case [自分も守る]


Exit Do




End Select




Loop




一条が、そのコードを見つめる。


画面には、ひとつの命令が静かに残っている。




少しだけ、口元が動く。


「便利そうに見えますが、大体の人はそこまで辿り着けませんよ」


めぐるが、一条を見る。


「……どうして?」


「最後は、この分岐を自分で選ばなければならないからです」


一条は、画面を指す。


「自分も守る」


「それを選べる人は、ごく僅かです」




めぐるは、画面を見る。


そこに表示されている。


[自分も守る]


彼女は、ゆっくり手を伸ばした。


そして――


その指先が、[自分も守る]に触れた。




瞬間。


[SYSTEM LOG]


UNLOOP_SUCCESS : sloth.pcs


世界が停止した。


静寂。


そして――


砕けた。


無数のデータが光となり、崩れていく。


終わらない書類も。


メールも。


時計も。


オフィスも。


すべてが消えていった。


朝。


駅のホーム。


めぐるは、ベンチに座っていた。


空は明るい。


身体は重い。


それでも――


昨日までとは、何かが違っていた。


手の中で、スマートフォンが震えた。


今度は、ちゃんと画面が点いている。


未読通知。


メール。


仕事。


めぐるの指が、反射的に動く。


一番上には、昨夜のメッセージ。


『明日の朝までに、もう一度修正お願いします』


胸がざわつく。


やらなきゃ。


その言葉が、一瞬だけ頭に浮かぶ。


入力欄へ指を伸ばす。


『申し訳ありません。今から対応します』


そこまで入力して。


止まった。


画面を見る。


そして。


一文字ずつ削除した。


空白になった入力欄。


怖い。


評価が下がるかもしれない。


迷惑をかけるかもしれない。


怒られるかもしれない。


それでも。


もう一度、文字を入力する。


『申し訳ありません。本日は休ませてください。明日以降の対応については、改めて相談させてください』


送信ボタン。


指が止まる。


数秒。


めぐるは、小さく呟いた。


「……休む」


そして。


送信した。


既読は、まだ付かない。


返事もない。


これからどうなるのか。


分からない。


本当にこれでよかったのか。


分からない。


それでも。


これは、自分で選んだ。


めぐるはスマートフォンの画面を消した。


隣に立っている一条を見る。


一条は何も言わない。


褒めもしない。


「正解です」とも言わない。


「……何か言わないんですか?」


「何をです?」


「今の……」


「あなたが選んだのでしょう?」


「……はい」


「なら、私が評価する必要はありません」


めぐるは目を丸くする。


一条は、それ以上何も言わなかった。


少しして。


めぐるは、小さく笑った。


「……先生」


「何です?」


「私……治ったんですか?」


「いいえ」


即答だった。


「……え?」


「終わったのは、一つのバグだけです」


めぐるは黙る。


一条は続ける。


「人間の精神というのは、ずいぶん複雑なシステムですからね」


「……」


「だから、自分でデバッグできるようになってください」


めぐるは、少しだけ考えた。


「……先生」


「何です?」


「さっき私が『助けてください』って言った時……先生、助けてくれませんでしたよね」


「ええ」


あまりにも迷いのない返事だった。


めぐるは、少しだけ眉を寄せる。


「あの時は……ちょっと、ひどい人だと思いました」


「それはどうも」


「褒めてません」


一条は何も言わない。


めぐるは、自分の手を見る。


「でも……今なら、少し分かります」


「先生は、私の代わりに答えを出さなかった」


「私が何を選ぶのか、最後まで待ってた」


一条の目が、わずかに細くなる。


「でも――」


めぐるは顔を上げた。


「一人だったら、たぶん私は気づけなかった」


しばらく沈黙したあと。


「……そういう仕事なんですね」


「何がです?」


「誰かを救うんじゃなくて」


めぐるは少し考える。


「その人が、自分で気づくところまで一緒にいる仕事」


一条は答えなかった。


めぐるは、その横顔を見つめた。


「……先生」


「何です?」


「私も、その仕事をしたいです」


「……」


「私みたいな人がいたら、気づいてあげたい」


一条は、めぐるを見た。


「自分には、気づけなかったのに?」


めぐるは一瞬、言葉を失った。


それから、小さく息を吐く。


「……だからです」


「会社で、疲れてる人を見た時、休んだ方がいいって思えたんです」


「でも、自分には一度も言えなかった」


めぐるは、自分の手を見る。


「たぶん……私みたいな人、他にもいると思うんです」


「自分では気づけないまま、ずっと頑張ってる人」


そして、一条を見る。


「だから――気づける人になりたいです」




一条は沈黙した。


数秒後。


「それは困りましたね」


「……え?」


「私の助手が、勝手に増えてしまった」


めぐるの目が少しだけ開く。


一条は淡々と続けた。


「採用ということで」


「……!」


めぐるは、少しだけ笑った。


一条は、その笑顔を見る。


「あなたはもう、一度自分自身をデバッグした」


そして――


「それだけで十分です」


その時。


黒い端末が、短い電子音を鳴らした。


[SYSTEM LOG]


NEW_USER_REGISTERED


ASSIGNED_ROLE : アシスタントデバッガー


[WARNING]


ERROR_DETECTED: system.greed.pcs


一条は、端末を見る。


めぐるも、その画面を覗き込む。


「……また?」


「ええ」


一条は、いつもの調子で答えた。


「どうやら、次の患者です」


画面に、新しいエラーが表示される。


「新しいエラーが発生した」


朝の光が、二人を照らしていた。


そして――


PROJECT PCS。


次のデバッグが始まる。


第1話・完



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