第3話 閉校の噂
噂というものは、たいてい昼休みに広がる。
朝はまだ眠いし、放課後はそれぞれの予定がある。授業中に話すには危険が多い。だから、弁当のふたを開けた瞬間とか、購買のパンを机に置いた瞬間とか、誰かが「そういえば」と言い出す瞬間に、噂はちょうどよく教室へ落ちてくる。
その日の噂も、佐伯のコンビニおにぎりから始まった。
「なあ、夕見坂って統合されるらしいぞ」
佐伯は鮭おにぎりのフィルムをうまく剥がせず、海苔を半分破りながら言った。
言い方が軽かったので、最初はゲームの新作情報か、購買の新メニューくらいの話かと思った。
「何が」
「学校」
「学校が何と統合されるんだよ」
「白倉高校とか、北町高校とか。そのへん」
「そのへんって」
「噂だよ、噂」
佐伯は破れた海苔をおにぎりに貼り直そうとして、さらに失敗した。
昼休みの教室は、いつも通り騒がしかった。弁当箱を広げる音、机をくっつける音、スマホの画面を見せ合って笑う声。誰かがスピーカーにしていた動画を先生に注意され、音量を下げる。全部がいつも通りだった。
その中で、統合という言葉だけが少し浮いていた。
「少子化ってやつ?」
前の席の女子が言った。
「たぶん」
「うち、そんなに人数少ない?」
「一年、二クラスしかないし」
「でも、なくなるとかある?」
「さあ」
さあ。
みんな、そういう顔をしていた。
驚いてはいる。でも本気で困ってはいない。まだ噂だから。もし本当でも、今すぐ明日から校舎が消えるわけではないから。
俺も同じだった。
統合。
言葉としては分かる。近くの高校と一緒になる。校名が変わるかもしれない。制服が変わるかもしれない。部活の扱いが面倒になるかもしれない。
ただ、それが自分の生活にどう関わるのかは、よく分からなかった。
三年生の俺たちは、たぶん卒業する。もし統合が決まっても、それは下級生や先生たちの話になる。そう考えれば、どこか他人事だった。
俺は弁当の卵焼きを口に入れた。
少し甘すぎる。
父が作ったものではない。冷凍食品だ。うちは朝、父が早く出る日が多いので、弁当はだいたい前日の夜に俺が適当に詰める。冷凍食品を詰めることを料理と呼んでいいなら、俺はそれなりに料理ができる。
「相沢は知ってた?」
佐伯が聞いた。
「何を」
「統合の話。お前んちの親父さん、学校の用務員だろ」
箸が止まった。
別に隠しているわけではない。
父がこの学校の用務員であることは、クラスの何人かは知っている。入学式の日、校門の横で父が来賓用の椅子を運んでいた。俺が目をそらしたところを、佐伯に見られていた。
それ以来、たまにこうして話題に出る。
「知らない」
「聞いてないの?」
「家で学校の話しないし」
「へえ」
佐伯はそれ以上つっこまなかった。
助かった。
父の話を教室でするのは、どうも苦手だった。
恥ずかしい、というのとは少し違う。たぶん恥ずかしいも混ざっているけれど、それだけではない。自分の学校の廊下や窓やトイレを、父が毎日直している。それを同級生の前で意識するのが、妙に落ち着かない。
父は悪いことをしているわけじゃない。
むしろ、誰かがやらなければいけない仕事だ。
分かっている。
分かっているのに、廊下で父を見かけると、俺は少しだけ足を速める。
「でも統合されたらさ、校舎どうなるんだろ」
別の男子が言った。
「壊すんじゃね?」
「もったいな」
「いや、古いし」
「体育館だけ残してほしい。雨の日使えるし」
「お前、卒業してるだろ」
「それはそう」
笑いが起きた。
統合されるらしいぞ、という話は、そこから少しずつ別の話題へ流れていった。部活の大会はどうなるのか。制服はダサくなるのか。白倉高校の学食はうまいらしい。北町高校の女子はかわいいらしい。
噂は、あっという間に軽くなる。
重いまま持っているには、昼休みは短すぎるのだと思う。
俺は何となく窓際を見た。
水瀬栞は弁当を広げていなかった。
机の上には小さなパンと紙パックの紅茶が置いてある。でも、彼女はそれに手をつけず、窓の外を見ていた。
いつも静かなやつではある。
それでも、その静かさがいつもと少し違って見えた。
写真を撮っているときの水瀬は、静かでもどこか集中している。目の前のものを見ている感じがある。けれど今は、窓の外を見ているのに、どこも見ていないように見えた。
「水瀬」
呼ぼうとして、やめた。
何を聞くのか分からなかった。
統合の話、気になるのか。
そんなことを聞いてどうする。
俺は弁当のふたを閉めた。
午後の授業は、いつもより少しだけ長く感じた。
統合の噂は、教室から廊下へ、廊下から別のクラスへ、そしてたぶん職員室の前まで流れていった。誰かが「先生に聞いたら、まだ何も決まってないって」と言い、別の誰かが「そう言うしかないだろ」と言った。
何も決まってない。
便利な言葉だと思った。
考えています、くらい便利だ。
放課後、俺はすぐには帰らなかった。
理由はある。掃除当番だった。
窓際の列をほうきで掃いて、机を戻し、黒板の下に落ちたチョークの粉をちりとりに集める。五月の教室は、まだそこまで暑くない。窓を開けると、校庭から部活の声が入ってきた。
水瀬は掃除当番ではなかった。
けれど、帰っていなかった。
教室の後ろでカメラを持ち、黒板の端を撮っている。昨日の机。今日の掲示板。次は黒板か。
「水瀬」
今度は呼んだ。
「何?」
「さっきの話、聞いてたか」
「さっき?」
「統合とか、閉校とか」
「聞こえてた」
「どう思う」
聞いてから、雑な質問だと思った。
水瀬はカメラを下ろした。
「どうって?」
「いや、写真撮ってるから。そういうの、気にするのかと思って」
「相沢くんは?」
「俺?」
「気にする?」
「まだ噂だろ」
「うん」
「本当だとしても、俺たちは卒業するし」
「うん」
「だから、まあ」
言葉がそこで止まった。
だから、どうでもいい。
そう言えば済むはずだった。
でも、水瀬の前でそれを言うのは、少しだけ違う気がした。
「分からない」
結局、俺はそう言った。
水瀬は責めるでもなく、うなずいた。
「私も、分からない」
「意外だな」
「何が?」
「水瀬なら、すごく困るとか、残さなきゃとか、そういうこと言うかと思った」
「言った方がいい?」
「いや」
水瀬は黒板の端を見た。
そこには、消しきれなかった白い線が残っている。昼休みに誰かが書いた落書きか、授業の板書か、もう分からない。
「なくなるって、本当に決まってからじゃないと、たぶん分からない」
「そんなもんか」
「うん」
水瀬は静かに言った。
「でも、決まってからだと遅いものもある」
それは昨日から何度か聞いたような、水瀬らしい言い方だった。
俺は返事をせず、黒板消しをクリーナーに押しつけた。機械が低い音を立てて、白い粉を吸い込む。
その音に紛れて、廊下の向こうから金属を叩く音が聞こえた。
カン、カン、と短い音。
掃除用具を片付けて教室を出ると、三階の廊下の端で誰かが脚立に乗っていた。
父だった。
作業着の背中。
腰に下げた工具袋。
古い窓の鍵を外しているらしく、手元でドライバーが光っていた。
廊下の窓は、前から少し固かった。閉めるときに引っかかるし、開けるときには妙な音がする。誰かが先生に言ったのかもしれない。
父は脚立の上で、窓枠を確認していた。
俺は足を止めた。
水瀬も、少し後ろで止まった。
「相沢くんのお父さん?」
小さな声で聞かれた。
「……まあ」
「用務員さんなんだ」
「そう」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
父は俺に気づいていない。
いや、気づいていたのかもしれない。けれど、こちらを見なかった。そういう人だ。学校では特に、父は俺の父親ではなく、この学校の用務員として動く。
俺も、学校では父の息子として話しかけたくなかった。
お互いに、そういう空気を勝手に守っている。
父は窓の鍵を何度か動かし、固さを確かめた。カチ、カチ、と音がする。最後に油を差して、布で余分なところを拭いた。
「直してるんだ」
水瀬が言った。
「見れば分かるだろ」
「うん」
「古いからな、この校舎」
「そうだね」
水瀬はカメラを持ち上げかけて、やめた。
俺はそれに気づいた。
「撮らないのか」
「今は」
「なんで」
「相沢くんが嫌そうだから」
図星だった。
嫌だったのか、と自分でも少し遅れて気づく。
父の作業着も、工具袋も、脚立に乗る背中も、別に恥ずかしいものではない。むしろ、毎日誰かのために何かを直している姿だ。そう思うべきだ。
でも、思うべきことと、実際に思えることは違う。
俺は黙っていた。
父が脚立から下りた。
その瞬間、こちらに気づいた。
目が合った。
ほんの一秒くらい。
「……おう」
父が言った。
「うん」
俺はそれだけ返した。
親子の会話としては、かなり短い。けれど学校の廊下では、これくらいで十分だった。
父は工具袋を持ち直し、次の窓へ向かった。歩くたびに、腰の金具が小さく鳴る。
俺はその背中を見送った。
声をかければよかったのかもしれない。
お疲れ、とか。
何してるの、とか。
家でなら言わないようなことでも、学校なら逆に言えたかもしれない。
でも、言わなかった。
「相沢くん」
水瀬が呼んだ。
「何」
「あの窓、明日から少し開けやすくなるね」
「たぶんな」
「そういうの、卒業アルバムには載らないね」
俺は少しだけ水瀬を見た。
彼女は父の背中ではなく、直された窓を見ていた。
鍵のところに、油の跡が少し光っている。拭き残したのか、わざとなのかは分からない。窓枠の古い塗装は剥がれかけていて、そこだけ金属の色が見えていた。
「またそれか」
「うん」
「用務員の仕事まで撮るのか」
「いつか撮りたい」
「いつか?」
「今じゃなくていい」
水瀬はカメラを下ろしたまま言った。
「でも、忘れたくないとは思う」
その言い方は、いつもより少しだけ慎重だった。
俺が嫌そうにしたからかもしれない。
それとも、父の背中を見たからかもしれない。
窓の外では、校庭の野球部が声を上げていた。夕方の光が廊下に入り、直されたばかりの鍵を細く照らしている。
統合の噂。
閉校かもしれないという話。
父が直した窓。
水瀬が撮らなかった写真。
どれも、その時点ではまだ大きな意味を持っていなかった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
ただ、帰り際にその窓を開けてみると、昨日より少しだけ軽く動いた。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、俺はなぜか、もう一度だけ廊下の端を振り返った。
父の姿はもうなかった。
水瀬は隣で、直された窓を見ていた。
「撮らないのか」
俺が言うと、水瀬は少しだけ笑った。
「今日は、見ておく」
「写真部なのに?」
「写真部だから」
その答えも、やっぱりよく分からなかった。
でも、さっきよりは少しだけ、分からないまま置いておける気がした。
校舎の古い窓は、何もなかったみたいに閉まっていた。




