第2話 卒業アルバムに載らないもの
次の日の朝、俺はいつもより五分だけ早く教室に着いた。
理由は特にない。
昨日、英単語帳を忘れたせいで放課後に三階まで戻る羽目になったから、今日は忘れ物をしないように早めに来た。そう言えば、たぶんそれらしく聞こえる。
本当のところは、自分でもよく分からなかった。
教室の扉を開けると、まだ半分も席は埋まっていなかった。窓際では、朝練帰りらしい野球部のやつが机に突っ伏している。黒板には昨日の日直が消し忘れた「英単語テスト」の文字が薄く残っていた。
俺は自分の席に鞄を置いた。
それから、昨日、水瀬が撮っていた机を見た。
誰の席だったか分からなかった机。
昨日と同じ場所に、昨日と同じように置かれている。天板の薄い傷も、端のマジックの点も、消しゴムのかすも、何も変わっていない。
当たり前だ。
一晩で机の傷が消えるわけがない。
それなのに、昨日より少しだけ目についた。
俺はその机の横を通り、自分の席に座った。英単語帳はちゃんと鞄の中にある。昨日より成長している。たったそれだけのことで、自分を少し褒めたくなった。
「相沢、早いじゃん」
後ろの席から声がした。
佐伯だった。朝練もしていないのに毎朝早い、よく分からないやつだ。たぶん家が近いのだろう。
「別に」
「昨日、忘れ物して戻ってたろ」
「見てたのかよ」
「昇降口で。なんか負けた人の顔してた」
「勝負してない」
佐伯は笑って、机の上にコンビニのパンを広げた。朝からメロンパンとカレーパンを食べる人間の胃袋は信用できない。
「そういや、卒アルの写真、来月から撮るらしいぞ」
「卒アル?」
「卒業アルバム。委員のやつが言ってた。部活写真とか、授業風景とか、先生の集合写真とか」
「まだ五月だぞ」
「俺もそう思った。でも、三年って意外とすぐらしい」
佐伯はカレーパンの袋を開けながら言った。
三年は意外とすぐ。
大人がよく言う言葉だ。今のうちに勉強しろとか、進路を決めろとか、友達を大事にしろとか、そういう話の前置きとして使われる。たいていの場合、聞いている側はまだ実感していない。
俺も実感していなかった。
けれど、昨日の水瀬の言葉が、妙なところで引っかかった。
卒業アルバムに載らないものを撮りたいの。
卒業アルバム。
俺はそれを、ほとんど考えたことがなかった。
卒業式の日にもらって、家に持って帰って、本棚か押し入れのどこかに置かれるもの。何年か後、気が向いたときに開いて、「こんなやついたな」とか「この先生若いな」とか言うためのもの。
その程度だ。
少なくとも、今から何を載せるか考えるものではなかった。
朝のホームルームで、担任が本当に卒業アルバムの話をした。
「来月から卒業アルバム用の写真撮影が始まります。部活動ごとに日程が違うので、掲示を確認するように」
教室が少しざわついた。
「もう卒アル?」
「髪切っとこ」
「部活写真ってユニフォーム?」
「俺、写真写り悪いんだけど」
みんなの反応は軽かった。俺もたぶん、普段ならその中に混ざっていた。卒業アルバムの話なんて、せいぜい写真写りがどうとか、欠席したら別枠にされるのが嫌だとか、その程度で済む話だ。
水瀬は何も言わなかった。
窓際の席で、ノートの端に小さく何かを書いていた。顔を伏せているので表情は見えない。カメラは机の横にかけてある。昨日と同じ黒いストラップが、椅子の脚に触れていた。
俺は見ていないふりをした。
見ていないふりをしながら、見ていた。
その日の昼休み、購買へ行く廊下で、水瀬に会った。
会った、というより、見つけた。
彼女は階段の踊り場に立って、掲示板を撮っていた。
掲示板には、定期考査の日程、保健室からのお知らせ、図書委員のおすすめ本、剥がれかけた去年の文化祭ポスターが貼られている。端の方には、さっき担任が言っていた卒業アルバム撮影日程のプリントもあった。
水瀬はその全部を撮るわけではなく、掲示板の隅を撮っていた。
画鋲の跡がいくつも残っているところだ。
「また地味なの撮ってるな」
俺が言うと、水瀬はカメラを下ろした。
「相沢くん、購買?」
「まあ。水瀬は?」
「撮影」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かなくていいのに」
「会話ってそういうもんだろ」
水瀬は少しだけ首を傾げた。
「そうかな」
「そうだよ」
自信はなかった。
俺は掲示板を見た。
「それも卒業アルバムに載らないものか」
「うん」
「画鋲の跡が?」
「画鋲の跡も」
「も?」
「この掲示板、毎週中身が変わるでしょ」
「まあ、そうだな」
「でも、跡だけ残る」
水瀬は指で、掲示板の端を示した。
画鋲を何度も刺したせいで、そこだけ小さな穴が集まっている。近くで見ると、たしかに星座みたいだった。いや、星座は言いすぎかもしれない。単なる穴だ。
「日程表とか、ポスターとか、すぐ剥がされる。でも、剥がされたあとも、ここに貼ってあったことだけは少し残る」
「昨日の机と同じ話か」
「うん」
「好きだな、そういうの」
「うん」
否定しないのか。
水瀬は自分でも少しおかしいと思っているのか、カメラのストラップを指でいじった。
「卒業アルバムって、ちゃんとしたものが残るでしょ」
「ちゃんとしたもの?」
「クラス写真とか、部活写真とか、先生たちの写真とか。みんなが並んで、前を向いて、ちゃんと笑ってるもの」
「まあ、それが普通だろ」
「うん。普通」
水瀬は掲示板を見た。
「でも、普通じゃない時間の方が長い気がする」
昼休みの廊下は騒がしかった。
購買へ急ぐやつらが階段を駆け下りていく。どこかの教室から笑い声が聞こえる。先生が「走るな」と言って、その直後に別の誰かがまた走る。そんな音が混ざって、校舎全体が少しだけ浮ついている。
「普通じゃない時間?」
「写真を撮られるって分かってる時間じゃなくて、撮られると思ってない時間」
「不意打ちってことか」
「そういう意味でもあるけど」
水瀬は少し考えた。
「たとえば、購買に行く途中で友達に呼び止められるとか。黒板消しを落として粉まみれになるとか。日直が花瓶の水を替え忘れるとか。そういうの」
「アルバムに載せるほどじゃないな」
「だから撮りたい」
「その理屈、昨日も聞いた」
「覚えてたんだ」
「忘れるほど難しくない」
そう言ってから、少しだけ嘘だと思った。
簡単な言葉なのに、よく分からない。よく分からないから、忘れられない。そういう種類の言葉だった。
俺は掲示板の卒業アルバム撮影日程を見た。
写真部は来月の水曜日。場所は中庭。雨天時は体育館前。
「写真部って、自分たちも撮られるのか」
「たぶん」
「たぶんって」
「私は撮る方がいい」
「部活写真なのに?」
「誰かが撮らないと」
「写真屋が撮るだろ」
「そうだけど」
水瀬はそこで言葉を切った。
何か言いかけたようにも見えたが、結局言わなかった。
「自分の写真、苦手なんだよね」
「写真部なのに?」
「写真部だから、かな」
「どういうことだよ」
「撮る方が楽」
水瀬は軽く笑った。
その笑い方が、少しだけ不自然だった。笑っているのに、どこかで先に逃げ道を作っているような顔だった。
「変な顔になるから?」
「うん。そんな感じ」
「そんな感じって」
「ちゃんと笑ってるつもりなのに、あとで見ると、なんか早く帰りたそうな顔してる」
俺は返事に困った。
そんなことない、と言うほど水瀬の写真を見たことがない。見せろ、と言うほど親しくもない。
結局、何も言えないまま黙っていると、水瀬はまた掲示板にカメラを向けた。
「だから、私は撮る側でいい」
シャッター音がした。
廊下の騒がしさの中では、昨日ほどはっきり聞こえなかった。それでも、確かに音はした。
「購買、行かないの?」
「行く」
「焼きそばパン、もうないかも」
「なんでそういう不吉なこと言うんだ」
「事実だから」
「まだ見てないだろ」
「今の時間なら、たぶん」
水瀬の予想は当たった。
購買に着いたとき、焼きそばパンの棚は空だった。残っていたのは、メロンパンと、やたら硬そうなフランスパン風の何かと、なぜか売れ残っているヨーグルトだけだった。
俺はメロンパンを手に取った。
「相沢くん、焼きそばパン派なんだ」
「派閥にするほどじゃない」
「でも残念そう」
「残念ではある」
水瀬は何も買わず、購買の端に置かれた手書きの値札を見ていた。
黒いマジックで「焼きそばパン 一四〇円」と書かれている。端が少し折れていて、セロハンテープが黄色くなっている。
「それも撮るのか」
「今日は撮らない」
「今日は?」
「そのうち」
「値札を?」
「うん」
「卒業アルバムに載らないから?」
「載らないでしょ」
「載ったら嫌だな。焼きそばパンの値札」
水瀬は笑った。
「でも、相沢くんは覚えてるかも」
「何を」
「焼きそばパンが一四〇円だったこと」
「そんなの覚えてどうするんだよ」
「知らない。でも、いつか思い出すかもしれない」
「思い出さないだろ」
「今はそう思うよね」
購買のおばちゃんが、カウンターの向こうで「メロンパン一個ね」と言った。俺は小銭を出す。十円玉が一枚、トレーの上で音を立てて転がった。
水瀬はその音にも少し反応した。
「今のも撮るのか」
「音は撮れない」
「写真部って不便だな」
「そうだね」
水瀬は素直にうなずいた。
「でも、音がしてた場所は撮れる」
また、よく分からないことを言う。
俺はメロンパンの袋を開けながら、購買前の古いベンチに腰を下ろした。水瀬は座らなかった。立ったまま、廊下の先を見ている。
昼休みの購買前は、人の流れが途切れない。
パンを買ったやつが友達と笑いながら戻っていく。自販機の前で小銭を落とす音がする。誰かが「それ一口ちょうだい」と言って断られている。先生が紙パックの牛乳を買って、妙に急いで職員室へ戻っていく。
全部、どうでもいい光景だった。
どうでもいいのに、水瀬が見ていると、少しだけ違うものに見えた。
「水瀬は、なんでそんなに残したいんだ」
自分で聞いておいて、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
水瀬はすぐには答えなかった。
購買のおばちゃんが、棚の奥から追加のパンを出している。焼きそばパンではなかった。残念だ。
「なくなるって分かってから見ると」
水瀬は言った。
「学校って、急に知らない場所みたいになる」
「なくなる?」
俺は聞き返した。
水瀬は少しだけしまった、という顔をした。
「たとえばの話」
「たとえば?」
「三年生って、もうすぐ卒業するでしょ」
「もうすぐって言っても、まだ一年近くある」
「一年って、長い?」
長い。
そう言おうとして、言えなかった。
小学生のころの一年は長かった。夏休みだけで世界が変わるくらい長かった。けれど高校三年の一年は、たぶん違う。進路、受験、卒業。大人たちが用意した言葉が先に並んでいて、その間を歩かされる感じがする。
「短くはないだろ」
俺は曖昧に答えた。
「うん」
水瀬も曖昧にうなずいた。
「でも、気づいたら終わってる気がする」
その言い方が少しだけ重かったので、俺はメロンパンにかじりついた。
甘い。
焼きそばパンの方がよかった。
「水瀬は、卒業したらどうするんだ」
「まだ決めてない」
「写真?」
「続けたいとは思ってる」
「思ってるだけ?」
「相沢くんは?」
「俺?」
「卒業したら」
聞き返されると思っていなかった。
俺はメロンパンの袋を丸めた。
「町は出ると思う」
「どこへ?」
「それはまだ」
「決めてないんだ」
「考えてる」
「便利な言葉だね」
「うるさい」
水瀬はまた少し笑った。
この話はそこで終わった。
終わったはずだった。
午後の授業中、俺は何度か窓の外を見た。校庭では一年生が体育をしていた。グラウンドの白線は昨日引き直されたばかりなのか、妙にはっきりしていた。校舎の向こうに夕見坂が少しだけ見える。
授業の内容は、あまり頭に入らなかった。
卒業アルバムに載るもの。
載らないもの。
残るもの。
残らないもの。
そんなことを考えている自分が、少し嫌だった。
俺は別に、思い出作りに興味があるわけじゃない。学校に特別な愛着があるわけでもない。むしろ、早く卒業したいと思っている。町を出たいと思っている。
それなのに、昨日の机の傷と、今日の掲示板の穴と、購買の値札が、変に頭の中に残っていた。
放課後、俺は昇降口で靴を履き替えた。
今日は忘れ物はない。英単語帳も、現代文のノートも、弁当箱も鞄に入っている。完璧だった。
外へ出ると、校門の近くに水瀬がいた。
彼女は校舎を撮っていた。
夕方の光を受けた校舎は、昨日と同じように当たり前の顔をしていた。三階の端の教室の窓が、少しだけ白く光っている。
「今日は、ちゃんと撮るようなもの撮ってるんだな」
俺が言うと、水瀬はカメラを下ろした。
「校舎?」
「卒業アルバムっぽい」
「そうかな」
「そうだろ。いかにも」
水瀬は少し考えてから、首を横に振った。
「これは、校舎を撮ってるんじゃないよ」
「じゃあ何を撮ってるんだ」
「窓」
「窓?」
「昨日の教室の窓。夕方になると、あそこだけ光る」
水瀬が指さした先を見た。
三階の端。
俺たちの教室。
昨日、水瀬が机の傷を撮っていた場所。
「あれも、アルバムに載らないものか」
「たぶん」
「窓くらい載るかもしれないぞ」
「そういう窓じゃない」
「どういう窓だよ」
「昨日、相沢くんが一回だけ振り返って見てた窓」
俺は黙った。
見られていたらしい。
「見てない」
「見てた」
「たまたまだ」
「うん。たまたま」
水瀬はそれ以上追及しなかった。
たまたま。
その言葉が、妙に軽くて、妙に残った。
たまたま忘れ物をした。
たまたま教室へ戻った。
たまたま水瀬が机を撮っていた。
たぶん、ほとんどのことはそうやって始まる。
俺は校舎を見上げた。
あの窓の向こうには、机が並んでいる。誰のものか分からない傷があって、消しゴムのかすがあって、たぶん明日も誰かが座る。
「水瀬」
「何?」
「その写真、あとで見たら何か変わるのか」
「分からない」
「分からないのに撮るのか」
「うん」
水瀬はカメラを胸の前で持ち直した。
「写真って、撮った瞬間より、あとから浮かんでくる時間の方が長い気がする」
風が坂の下から吹いてきた。
校門の横の桜の葉が揺れる。花はもうとっくに散っている。枝だけが、妙にしっかり残っていた。
「難しいな」
「そう?」
「そうだろ」
「じゃあ、今は分からなくていいよ」
「なんだそれ」
「あとで分かるかもしれないから」
水瀬はそう言って、また校舎にカメラを向けた。
俺はその横で、何となく黙っていた。
帰ればいいのに、足が動かなかった。
シャッター音がする。
カシャ。
昨日と同じ、小さな音。
卒業アルバムに載らないもの。
そんなものを撮って何になるのか、やっぱり俺には分からなかった。
けれど、分からないままでも、その音だけは昨日より少し近く聞こえた。
坂の下では、町が夕方の色に沈み始めていた。
水瀬はまだ、校舎の窓を見ていた。
俺は鞄の重さを肩に感じながら、もう一度だけ三階の端の窓を見上げた。
そこには、卒業アルバムには載らない放課後があった。




