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卒業アルバムに載らない春を、君と集めた  作者: 角砂糖


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第1話 机の傷

夕見坂高校へ続く坂道は、帰りの方が少しだけ長い。


 行きはまだいい。朝は眠いし、教室に着くまでに考えることなんて、せいぜい一時間目の小テストがどのくらい終わっているかとか、購買の焼きそばパンが昼まで残っているかとか、その程度で済む。


 けれど放課後は違う。


 校門を出て坂を下りるとき、町の屋根が夕方の光で薄く光って見える。商店街の看板は少し古く、バス停の時刻表は一時間に二本しかなく、駅の向こうには低い山がある。どれも見慣れているはずなのに、帰り道に見ると、なぜか少しだけ他人事みたいだった。


 この町を出る。


 そう思うことが、最近増えた。


 別に、大きな理由があるわけじゃない。都会に憧れているとか、町が嫌いだとか、そういう分かりやすい話でもない。ただ、ここに残る自分が想像できない。卒業したら、大学でも専門学校でも就職でも、とにかくこの坂の外へ出る。そんなふうにぼんやり考えていた。


 だからと言って、今すぐ何かを始めるほどの熱もなかった。


 三年生になって一か月が過ぎても、俺の進路希望調査票は机の中で折れ曲がったままだったし、担任に呼ばれるたびに「考えています」と言って逃げていた。考えている、という言葉は便利だ。何も決めていないことを、少しだけましに聞こえさせる。


 その日も、俺は何も決めないまま帰るつもりだった。


 六時間目が終わり、ホームルームが終わり、教室から人が減っていく。部活へ行くやつ、駅まで急ぐやつ、廊下でどうでもいい話を引き延ばすやつ。いつもの放課後だった。


 俺は鞄を肩にかけ、昇降口まで下りたところで、英単語帳を忘れたことに気づいた。


 最悪だ、と思った。


 別に今日どうしても必要なわけではない。明日の朝、少し早く来て取ればいいだけだ。けれど、そういう小さな忘れ物を放っておくと、あとで何倍も面倒になることを俺は知っていた。担任に「受験生としての自覚が」と言われるのも、家で父に「またか」と言われるのも、どちらも面倒だった。


 仕方なく、上履きのまま階段を戻った。


 三年二組は三階の端にある。


 階段を上がるたびに、校舎の音が薄くなっていった。一階ではまだ運動部の声が聞こえた。二階では吹奏楽部が音階練習をしていた。三階まで来ると、それらが全部遠くなる。


 廊下の窓は半分だけ開いていて、風がカーテンを揺らしていた。


 夕方の教室は、昼間より少しだけ広く見える。


 人がいないだけで、机と椅子は急によそよそしくなる。さっきまで誰かが座っていた席も、笑い声の残っていた窓際も、全部が最初から空っぽだったみたいな顔をする。


 俺は教室の前で足を止めた。


 中から、音がした。


 カシャ、という小さな音。


 黒板にチョークが当たる音でも、椅子を引く音でもない。もっと乾いていて、短い音だった。


 扉を開けると、もう一度シャッターの音がした。


 教室の真ん中に、水瀬栞がいた。


 黒板の前でも、窓の外でもない。水瀬は、誰も座っていない机にカメラを向けていた。


 水瀬栞。


 同じクラスではあるけれど、まともに話したことはほとんどない。写真部。静か。休み時間は本を読んでいるか、カメラのストラップを指でいじっている。俺が知っていることと言えば、そのくらいだった。


 彼女はしゃがみ込むようにして、机の天板を撮っていた。


 何の変哲もない机だ。


 古い木目調の天板には、薄い傷が何本も走っている。端の方には消しゴムのかすが少し残っていて、誰かが削ったらしい鉛筆の跡もある。机の横には、小さく黒いマジックの点がついていた。たぶん、何年も前からそこにあったものだ。


 写真に撮るようなものには見えなかった。


「……それ、撮るようなものか?」


 俺が言うと、水瀬はカメラから顔を上げた。


 驚いた様子はなかった。むしろ、俺が来ることを知っていたみたいな落ち着き方だった。


「忘れ物?」


「まあ」


「英単語帳?」


「なんで分かるんだよ」


「机の横に、さっき落ちてた」


 水瀬は窓際の俺の席を指さした。確かに、机の横に青い表紙の英単語帳が落ちている。俺はそれを拾い上げて、鞄に突っ込んだ。


「で、なんで机なんか撮ってるんだ」


「机だから」


「答えになってない」


「じゃあ、相沢くんは何なら撮るようなものだと思う?」


 名前を呼ばれて、少しだけ変な感じがした。


 同じクラスなのだから、名前くらい知っていて当然だ。それでも、水瀬の声で自分の名字が出てくると、どこか場違いなものみたいに聞こえた。


「桜とか、夕焼けとか。あと、校舎の全景とか」


「うん。そういうのは、たぶん誰かが撮る」


「誰かが撮るなら、自分で撮らなくていいってことか」


「少し違う」


 水瀬はもう一度、机に視線を落とした。


「きれいなものは、たぶん誰かが残すから」


 カメラのレンズが、天板の傷を追う。


「こういうのは、誰も残さない」


「残す必要あるか?」


 言ってから、少しきつかったかもしれないと思った。


 けれど水瀬は怒らなかった。


「撮るようなものじゃないから、撮ってる」


 意味が分からなかった。


 俺が黙っていると、水瀬はカメラを下ろして、机の端を指先でなぞった。


「ここ、たぶん誰かがコンパスでつけた傷」


「よくあるやつだな」


「こっちは、字を消した跡。名前か、落書きか、分からないけど」


「分からないなら、なおさら意味ないだろ」


「うん。分からない」


 水瀬は小さくうなずいた。


「でも、誰かがここに座ってたことだけは分かる」


 教室の外で、風がカーテンを膨らませた。


 夕方の光が机の上を斜めに通って、薄い傷の一本だけを白く光らせた。さっきまでただの汚れに見えていたものが、その瞬間だけ、細い線みたいに浮かび上がる。


 水瀬はそれを見て、またシャッターを切った。


 カシャ。


 小さな音が、誰もいない教室に残った。


「卒業アルバムに載らないものを撮りたいの」


 水瀬は言った。


「卒業アルバム?」


「うん」


「まだ五月だぞ」


「だから撮れるものもあるでしょ」


「早すぎないか」


「遅いくらいかもしれない」


 水瀬の言い方は、冗談ではなかった。


 俺は窓の外を見た。校庭では野球部が外野フライを追っている。テニスコートからはボールを打つ音が聞こえる。いつもの放課後だ。早いとか遅いとか、そういう言葉が似合うものには見えなかった。


「アルバムなら、ちゃんと写真屋が撮るだろ。クラス写真とか、部活写真とか」


「そういうのじゃなくて」


「じゃあ何だよ」


 水瀬は少し考えた。


「消し忘れた黒板の文字とか」


「地味だな」


「購買の値札とか」


「もっと地味だな」


「雨の日の廊下のバケツとか」


「それは直した方がいい」


 水瀬が少し笑った。


 笑うと、思っていたより普通だった。


 静かで、少し近寄りがたい。そんな印象があったけれど、笑った顔はただの同じクラスの女子だった。そこに気づいてしまって、俺は少しだけ困った。


「そういうのって、卒業アルバムには載らないでしょ」


「載らないだろうな」


「でも、毎日見てる」


「見てるけど、覚えてるかは別だ」


「だから撮る」


 水瀬は簡単に言った。


 それがあまりに簡単だったので、俺は返す言葉を少し探した。


「残したって、なくなることは変わらないだろ」


 口に出してから、どうしてそんな言い方をしたのか分からなくなった。


 机の傷の話をしていただけだ。黒板や購買の値札の話をしていただけだ。それなのに、出てきた言葉は、どこか別の場所に向いていた。


 水瀬は俺を見た。


 まっすぐ見られて、少し居心地が悪くなる。


「うん。変わらない」


 彼女は言った。


「だから残すんだと思う」


 やっぱり意味が分からなかった。


 でも、その意味の分からなさを、すぐに否定する気にもなれなかった。


 俺は鞄の肩ひもを持ち直した。


「水瀬って、いつもそういうの撮ってるのか」


「いつもではないよ」


「今日は?」


「今日は、机」


「明日は?」


「まだ決めてない」


「計画性ないな」


「相沢くんに言われたくない」


「なんでだよ」


「英単語帳、忘れてたから」


 それはそうだった。


 俺が黙ると、水瀬は満足したみたいにカメラを構え直した。


 その横顔を見ながら、俺はふと、彼女自身の写真を見たことがないことに気づいた。


 写真部なのに、水瀬はいつも撮る側にいる。クラスの集合写真でも、文化祭の記録写真でも、彼女はだいたい端にいるか、そもそも写っていない。そういえば、と今さら思い出す。


 けれど、そのときはまだ深く考えなかった。


 水瀬が机を撮っている。


 俺が英単語帳を取りに来た。


 それだけの放課後だった。


「相沢くん」


「何」


「そこ、少しどいて」


「俺、邪魔か」


「影が入る」


「悪かったな、影で」


 俺は二歩だけ横にずれた。


 水瀬は俺の返事には構わず、机の角度を少し変えて撮った。光の入り方が違うだけで、同じ机が別のものみたいに見えた。


 写真というのは、たぶんそういうものなのだろう。


 同じものを撮っているのに、見る人によって違って見える。あるいは、同じ人が見ても、あとで違って見える。


 そんなことを考えかけて、俺は自分で少し気持ち悪くなった。


 俺は別に、写真に興味があるわけじゃない。


 ただ、放課後の教室で、同じクラスの女子が机の傷を真剣に撮っていた。それが少し変だっただけだ。


「じゃあ、俺帰るから」


「うん」


 水瀬はカメラを見たまま返事をした。


「戸締まり、先生に言われるぞ」


「あとで閉める」


「電気も」


「うん」


「……じゃあ」


「相沢くん」


 もう一度呼ばれて、俺は振り返った。


 水瀬はカメラを下ろしていた。


「この机、誰の席?」


「知らない」


「同じクラスなのに?」


「席替えしたばっかだし」


「ふうん」


「何だよ」


「別に」


 水瀬は机に視線を戻した。


「誰の席か分からなくても、誰かの席なんだなって思っただけ」


 その言葉は、また少し分からなかった。


 分からないまま、俺は教室を出た。


 廊下に出ると、窓の向こうの空がさっきより赤くなっていた。階段を下りる途中で、どこか遠くから金属を叩く音が聞こえた。用務員室の方だろうか。校舎のどこかを、誰かが直している。


 この学校は古い。


 窓は固いし、雨の日には廊下にバケツが置かれるし、体育館の床はところどころ鳴る。それでも毎朝、何もなかったように使える。誰かが直しているからだ。


 そんな当たり前のことを、俺はそのとき深く考えなかった。


 昇降口で靴に履き替え、校門を出る。


 夕見坂の上から見る町は、いつも通りだった。


 バス停には誰もいない。商店街のシャッターは半分くらい閉まっている。遠くで犬が鳴いている。西日が校舎の窓に反射して、三階の端の教室だけが一瞬白く光った。


 あの教室で、水瀬はまだ机を撮っているのかもしれない。


 机の傷。


 消しゴムのかす。


 誰のものか分からない席。


 そんなものを撮って何になるのか、やっぱり俺には分からなかった。


 けれど、坂を下りながら、俺は一度だけ振り返った。


 校舎はそこにあった。


 当たり前みたいな顔をして、夕方の光の中に立っていた。


 その当たり前が、いつか当たり前ではなくなるかもしれないなんて、そのときの俺はまだ知らなかった。


 ただ、水瀬栞が言った言葉だけが、鞄の中の英単語帳よりも重く残っていた。


 撮るようなものじゃないから、撮ってる。


 たぶん、それが水瀬栞とまともに話した最初だった。


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