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卒業アルバムに載らない春を、君と集めた  作者: 角砂糖


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第4話 写真部の暗室

水瀬栞に「暗室、見る?」と言われたのは、父が直した窓のことをまだ少し引きずっていた日の放課後だった。


 昼休みに統合の噂が出てから、教室の空気は一日でほとんど元に戻っていた。


 噂というのは、広がるのも早いが、飽きられるのも早い。翌日にはもう、白倉高校の制服がどうとか、北町高校の購買には唐揚げ丼があるとか、そういう話に変わっていた。


 俺も、なるべく考えないようにしていた。


 考えたところで何かが決まるわけではない。学校が本当になくなるのかどうかも、まだ分からない。何も決まっていないことに先回りして悩むほど、俺は真面目ではなかった。


 ただ、廊下の窓を開けるたびに、少しだけ引っかかった。


 昨日より軽く動く窓。


 父が油を差した鍵。


 水瀬が撮らなかった写真。


 そういうものが、考えないようにしている頭の端に残っていた。


「暗室?」


 俺が聞き返すと、水瀬はうなずいた。


 六時間目が終わった直後の教室だった。帰り支度をする音の中で、水瀬だけがゆっくりカメラを鞄にしまっている。俺は進路希望調査票を机の奥に押し込んでいた。提出期限は明日だった気がする。たぶん明日も押し込むことになる。


「写真部の」


「それは分かる」


「じゃあ、なんで聞き返したの」


「誘われる理由が分からなかったから」


「見たことないかなと思って」


「ないけど」


「じゃあ、見ればいい」


 水瀬の誘い方は、いつも少し不思議だ。


 一緒に来てほしい、とか、手伝ってほしい、とかではない。目の前にあるものをそのまま差し出すみたいに言う。机の傷。掲示板の画鋲跡。三階の窓。暗室。


 俺は鞄を持ち上げた。


「俺が行っていい場所なのか」


「たぶん」


「たぶんで部外者を入れるな」


「顧問の先生、今日は職員会議だから」


「余計だめだろ」


 水瀬は少しだけ笑った。


「見るだけなら怒られないよ」


「それ、怒られたことある人の言い方だな」


「一回だけ」


「あるのかよ」


 結局、俺はついていった。


 理由は、やっぱりよく分からない。


 帰っても進路希望調査票があるだけだったし、佐伯に誘われて駅前のコンビニへ行く気分でもなかった。水瀬の撮っているものを理解したわけではない。ただ、昨日の窓のこともあって、暗室という場所を見てみたいと思った。


 写真部の部室は、校舎の北側の端にあった。


 廊下は他の場所より少し暗い。日当たりが悪いせいか、床の色も一段くすんで見える。壁には去年の文化祭の写真が何枚か貼られていた。演劇部の舞台、体育祭のリレー、吹奏楽部の集合写真。どれも楽しそうに見えるように撮られている。


「写真部って、今何人いるんだ」


「三人」


「少ないな」


「そうだね」


「活動してるのか」


「してるよ」


「水瀬以外は?」


「一人は受験で休部中。一人は幽霊部員」


「ほぼ一人じゃないか」


「うん」


 水瀬は平然と言った。


 部室の扉には、古いプレートがかかっていた。


 写真部。


 黒い文字の端が少し剥げている。扉の下には、何度も開け閉めされた跡が白く残っていた。


 水瀬は鍵を開けた。


 中は思っていたより狭かった。


 机が二つ。椅子が四つ。壁際には古い棚があり、カメラの箱やアルバム、写真用紙の袋が積まれている。窓には遮光カーテンがかかっていて、外の光が細く漏れていた。


 部室の奥に、もう一つ扉がある。


「こっち」


 水瀬がその扉を開けた。


 暗室は、名前の通り暗かった。


 ただ真っ暗ではない。


 赤いランプが一つ、天井近くでぼんやり光っている。その光のせいで、部屋全体が水の中みたいに見えた。棚も、流し台も、吊るされたピンセットも、赤い膜を通して見ているようだった。


 鼻につく匂いがした。


「何の匂いだ、これ」


「現像液」


「体に悪そう」


「換気してるから大丈夫」


「それ、大丈夫じゃない場所で言う台詞だろ」


 水瀬は笑って、奥の小さな換気扇を指さした。確かに回っている。けれど音が弱く、信用していいのか微妙だった。


 暗室には、時間が止まっているような空気があった。


 外ではまだ部活の声がしているはずなのに、ここに入ると遠くなる。赤いランプの下では、時計の針も少し遅く動きそうだった。


 水瀬は慣れた手つきで棚から黒い袋を取り出した。


「今日は現像しないけど」


「しないのか」


「相沢くん、絶対こぼしそうだから」


「失礼だな」


「違う?」


「……違わないかもしれない」


 反論しきれなかった。


 俺は流し台の横に置かれたトレーを見た。水は入っていないが、底に薄い白い跡が残っている。壁には古い写真が何枚か貼られていた。


 校舎の外観。


 体育館のステージ。


 桜の下に並ぶ知らない生徒たち。


 どれも今より少し古い。制服も違うし、髪型も違う。写真の端が少し黄ばんでいる。


「これ、昔の写真?」


「たぶん。先輩たちが残していったやつ」


「誰か分かるのか」


「分からないのも多い」


「分からない写真って、どうするんだ」


「置いてある」


「それだけ?」


「それだけ」


 水瀬は簡単に言った。


 暗室の赤い光の中で見ると、知らない誰かの写真も、普通の写真とは少し違って見えた。そこに写っている人たちは、俺が生まれる前か、少なくともこの学校に入るずっと前に、同じ場所で笑っていたらしい。


 今はどこにいるのか分からない。


 名前も知らない。


 それでも、写真の中ではずっと校庭に立っている。


「変な感じだな」


「何が?」


「知らないやつらなのに、同じ学校ってだけでちょっと近く見える」


 水瀬は写真を見たまま、うなずいた。


「うん」


「でも、知らないやつらだ」


「うん」


「どっちなんだよ」


「どっちも」


 便利な答えだった。


 水瀬は棚から一枚の印画紙を取り出した。まだ何も写っていない、白い紙にしか見えない。


「写真って、撮った瞬間に終わると思ってた」


 彼女は言った。


「でも、本当はそうでもない」


「また難しい話か」


「難しくないよ」


「水瀬の難しくないは信用できない」


「じゃあ、簡単に言う」


 水瀬は白い紙を赤い光の下に置いた。


「撮ったときは、ただの一瞬でしょ」


「まあ」


「でも、あとで見ると、その前後のことまで思い出す」


「前後?」


「その日、暑かったとか。誰かが遅刻したとか。写真の外で先生が怒ってたとか。写ってないことの方が、あとから浮かぶことがある」


 写真の外。


 その言い方は、少しだけ分かった。


 昨日、水瀬が撮った三階の窓を見たとき、俺は机の傷のことを思い出した。あの写真には俺は写っていない。たぶん水瀬が撮ったのは窓だけだ。それでも、俺にとっては忘れ物を取りに戻った放課後とつながっている。


 写真に写っていないものまで、勝手についてくる。


「じゃあ、卒業アルバムもそうなんじゃないのか」


「そうだと思う」


「なら、普通のでいいだろ。クラス写真とか」


「普通の写真から浮かぶものもある」


「じゃあ、机の傷はいらない」


「いる」


 即答だった。


「なんで」


「クラス写真を見たら、クラスのことを思い出すでしょ」


「たぶん」


「机の傷を見たら、その席に座ってた一人のことを思い出すかもしれない」


「誰の席か分からなくても?」


「分からなくても」


「それ、思い出せてないだろ」


 水瀬は少し笑った。


「思い出すっていうより、いたんだなって思う」


 いたんだな。


 その言葉は、暗室の中では妙に静かに聞こえた。


「誰かが?」


「うん」


「知らない誰かが?」


「うん」


「それを残してどうするんだ」


「どうもしない」


 水瀬は白い紙を戻した。


「でも、なかったことにはならない」


 赤いランプが、彼女の横顔をぼんやり照らしていた。


 俺はその顔を見て、また何も言えなくなった。


 水瀬は説明がうまいのか下手なのか、よく分からない。言葉は短いのに、簡単ではない。でも不思議と、全部が遠い話にも聞こえなかった。


 俺たちの学校は、まだそこにある。


 机も、黒板も、購買も、窓も、暗室も。


 なのに水瀬は、まるでもう失われたものを見ているみたいに撮る。


「なあ」


「何?」


「水瀬は、昔からそういうの撮ってたのか」


「そういうの?」


「机の傷とか、画鋲の跡とか」


 水瀬は少し考えた。


「最初は、もっと普通だったと思う」


「普通って」


「花とか、空とか、猫とか」


「猫は普通なのか」


「かわいいから」


「まあ、それは分かる」


「でも、そういうのは上手い人がたくさんいるから」


「負けたのか」


「勝ち負けじゃないけど」


 水瀬は古い写真の一枚を指で押さえた。


「私が撮らなくても残るものより、私が撮らないと残らないものの方が気になるようになった」


「大げさだな」


「そうかな」


「水瀬が撮らなくても、別に世界は困らない」


 言ってから、また少しきつかったかもしれないと思った。


 水瀬は怒らなかった。


「うん。困らない」


 彼女はあっさり認めた。


「でも、私が困る」


「なんで」


「見たのに、見なかったことにしたみたいになるから」


 それは少しだけ、分かるような気がした。


 廊下の窓を直していた父を見た。


 声をかけなかった。


 水瀬は撮らなかった。


 それでも、見たことだけは残っている。


 俺はそれをどうしたいのか分からない。見なかったことにしたいのか、覚えていたいのかも分からない。


 ただ、水瀬があの場面を撮らなかった理由だけは、少し気になっていた。


「昨日、父さんのこと撮らなかっただろ」


「うん」


「撮りたかったのか」


「少し」


「正直だな」


「でも、撮らなくてよかったと思う」


「なんで」


「相沢くんが、まだ嫌そうだったから」


「まだって何だよ」


「いつか嫌じゃなくなるかもしれないから」


 水瀬は何でもないみたいに言った。


 俺は少しむっとした。


「ならないかもしれないだろ」


「そうかも」


「勝手に決めるな」


「決めてないよ」


 暗室の赤い光の中で、水瀬の表情はよく見えなかった。


「待ってるだけ」


 それは、責める言葉ではなかった。


 だから余計に、俺は返事に困った。


 部室の外から、廊下を走る音が聞こえた。


 誰かが「走るな」と叫ぶ。たぶん先生だ。その声が遠くで響いて、すぐにまた笑い声に変わった。


 暗室の中だけが、別の時間みたいだった。


「そろそろ出よう」


 水瀬が言った。


「現像しないのに、何しに来たんだ」


「相沢くんに見せた」


「なんで」


「見たら、少し分かるかと思って」


「何が」


「写真が、ただ撮った瞬間だけじゃないってこと」


 水瀬は暗室の赤いランプを消した。


 一瞬、部屋が真っ暗になった。


 何も見えない。


 どこに棚があって、どこに流し台があって、水瀬がどこに立っているのかも分からない。


 そのあと、部室側の扉が開いて、廊下の光が細く入ってきた。


 普通の白い光だった。


 さっきまで赤く見えていた棚も、写真も、トレーも、急にただの古い道具に戻る。


 俺は少しだけ目を細めた。


「暗室って、変な場所だな」


「そう?」


「外に出ると、さっきまでの方が夢みたいに見える」


「写真も、たぶん少し似てる」


「またそういうこと言う」


 水瀬は笑った。


 部室を出ると、廊下の空気が明るすぎるくらいだった。夕方の校舎には、部活の音が戻ってきている。体育館からボールの音がする。吹奏楽部の音階練習が遠くで聞こえる。


 暗室に入る前と同じ学校のはずだった。


 でも、少しだけ違って見えた。


 廊下の掲示板。


 窓の鍵。


 部室のプレート。


 どれも古くて、少しずつ傷んでいて、でも今日も普通に使われている。


「相沢くん」


「何」


「暗室のこと、誰かに言わないでね」


「部外者を入れたから?」


「それもある」


「それも?」


「私が怒られる」


「同じ意味だろ」


「うん」


 俺は少し笑った。


「言わないよ」


「ありがとう」


 水瀬はそう言って、写真部の鍵を閉めた。


 鍵が回る小さな音がした。


 カチ。


 昨日、父が直していた窓の鍵とは違う音だった。


 でも、なぜか少し似ている気がした。


 何かを閉じる音。


 何かを守る音。


 そんなことを考えて、俺はまた自分で少し気持ち悪くなった。


「帰るか」


「うん」


 水瀬と並んで廊下を歩く。


 並んでいると言っても、少し距離はある。友達というにはまだ遠いし、他人というには昨日より少し近い。そんな半端な距離だった。


 階段を下りる途中、三階の端の窓が目に入った。


 父が直した窓。


 昨日より軽く開く窓。


 水瀬が、まだ撮らないと言った窓。


 そこに夕方の光が当たっていた。


 俺は何も言わなかった。


 水瀬も、カメラを構えなかった。


 ただ二人で、少しだけその窓を見た。


 あとから浮かんでくる時間。


 水瀬の言葉を、俺はまだよく分かっていなかった。


 けれど、その日の暗室の赤い光と、現像液の匂いと、古い写真の中で笑っていた知らない生徒たちのことは、たぶんしばらく忘れないだろうと思った。


 写真に写っていないのに、残るものもある。


 そのことが、少しだけ面倒だった。

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