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右、左、右、左――
一定のリズムで体は前に進んでいく。
吸う、吸う、吐く、吐く――
足の動きに合わせて、二回吸って二回吐くのがジョギングの基本的な呼吸法だ。
流れていく風に水の匂いが混じる。河川敷のランニングコース。休日はよく走っている人を見かけるが、平日のこの中途半端な時間に他に利用者の姿はない。
陸上短距離の練習にジョギングが必要ないとはよく言われる。けれど実際には、それは目的による。なにも考えずただ走っているだけなら、たしかにそれはいらない。しかし走りながら脚の動きや重心の位置を確認したり、スプリント中には気づかないフォームのずれを修正したりするのには有効な練習方法の一つだと思う。
……いや、思っていた。だから中学のときはたまにここにジョギングに来ていた。他に邪魔が入らない環境で、一人で考えごとがしたいときにも。
右、左、右、左――
目線が少しだけ高くなったことを除けば、見える景色はあのころと変わらない。風にそよぐ木々、遠くに見える人家、その向こうに霞む山の影……それらすべてを、傾きはじめた太陽が赤く照らしている。
橋の近くまで来たら、折り返し。べつにどこで折り返したっていいのだけど、きりがいいのでここを目印にしている。来た道を戻りはじめたところで、後ろから、チリンチリン、と自転車のベルの音が聞こえた。端に避けるため位置を確認しようと首だけ振り返ると、そこに見知った顔があった。
「よっ」
航士郎が片手を挙げる。あたしは首を前に戻し、ペースを上げる。
「おいおい!」
という声のあと、航士郎の乗る自転車が隣にやってきた。並走する形になる。
「なに?」
「なにってことはないさ。生徒会の仕事が終わって帰ってる途中で、見覚えのある背中を見つけたから声をかけた。そして挨拶をするも無視されたから、無視できない距離まで詰めてみたんだ。というわけであらためて、よっ」
「挨拶を返したら、おとなしく帰ってくれるわけ?」
「つれないなあ。幼なじみじゃないか。せっかくこうして会えたんだ、ジョギングがてら少し話でもしようぜ」
「あんたと話したいことは特にない」
「ってことは、僕以外の誰かには話したいことがあるってことかな? 相手が僕なのは申し訳ないけれど、悩みは吐き出したほうが楽になることもあるぜ。壁やぬいぐるみよりは良い聞き役になれると思うけど」
「……」
ちょっと休憩、と宣言し、斜面を下りて川のほうに向かう。航士郎は軽く肩をすくめ、後をついてくる。
川の近くまで行き、草の上に座った。
「飲み物、いるか?」
「いいよ。ここから自販機、遠いし」
航士郎はスクールバッグから350ミリ缶を一本取り出す。
「たまたま、来る途中に買ったんだ。よかったら」
渡されたのは、スポーツドリンクだった。手に持ったそれを目の高さに掲げる。
「お前、そうやってすぐ成分表を確認するの、やめろよ。場合によっては失礼だぞ」
「癖なのよ。意外な有害物質が含まれてるかもしれないでしょ。べつに、あんたが毒や睡眠薬を入れてないか疑ってるわけじゃ……」
と、航士郎を見る。
「……入れた?」
「入れるか、バカ」
プルタブを起こし、一口飲む。冷えた液体が体内に心地よく浸透していった。川のほうに目をやる。夕日の光を受けた水面がオレンジ色に光って見えた。前を向いたまま、隣に座る航士郎に言った。
「まなに聞いたの?」
ふっ、と航士郎は鼻で笑う。
「我々生徒会の情報収集力を侮らないでほしい。校内の情報はいつなんどき、誰からでももたらされるさ。もっとも、公平性の観点から提供者の名前は言えないけどね」
「あっそ」
「中学のときのことが、足枷になっているんだろう?」
いきなりの核心を突いた問いかけに言葉が詰まる。まあ、幼なじみゆえ、そのあたりの事情をよく知っているこいつに、いまさら核心もなにもないのだけど。
「県大会でのことは、お前のせいじゃないさ」
「……負けたのは、あたしのせいでしょ」
当時所属していた陸上部。あたしたち三年にとっては最後の県大会、女子四百メートルリレー。勝てば全国大会に出場できた。でもあたしたちにそれは叶わなかった。アンカーを務めたあたしが前の走者からのバトンを取り落としたのが原因だ。
「リレーはチームだろう。責任は、お前一人にあるわけじゃない」
「でも、あのときあたしがバトンをしっかり掴めていれば……」
「それも含めて、お前だけの責任じゃない。気にする必要はないさ」
「……」
でも、と言葉が出かかり、唇を嚙む。苦い思い出が甦る。
「大会後、お前が言われた言葉については知っている」
「……更衣室にカメラでも仕掛けてたの?」
「馬鹿を言え。人づてだ。生徒会の情報収集力を侮るなと言ったろう」
なんだそれは。生徒会って、政府の諜報組織か何かなのか。
「期待してたのに」
航士郎がつぶやくように言った。記憶は映像となって再生される。大会後のロッカールーム。先にあたしがいたことに気づかずに着替えを始めたチームメイトの一人が放った言葉。なにあれ、期待してたのにね。そしてそれに同調する複数の声――。
「お前が変わったのは、あの日からだ」
「……」
そう、その日以来あたしは頑張ることをやめた。努力することをやめた。何もせず、何事にも興味を示さない無気力人間。それがあたしの基本スタンスになった。
「お前は昔から、なんでもできるやつだったからな」
「……はあ? なによ、いきなり」
「勉強でもスポーツでも、昔からお前はなんでもできただろう」
「そんなことないよ。ただちょっと、人より器用だっただけ」
「プラス、人より努力していたからだ」
「……」
「『なんでもできるやつ』。少なくとも周りは、お前をそういう目で見てた。そしてお前は、それに応えるために努力していた。『弥里ちゃんならきっとできる』。そんな、周りの期待に応えようと」
「……それも、生徒会の情報収集力?」
「いいや」
航士郎はきっぱり首を振った。
「幼なじみとして、この目で見てきたことだ」
ざわざわと風が木を揺らす音がした。川の水面が微かに波立つ。
「なあ、弥里」
あらたまった調子で航士郎が言った。
「そんなお前だからこそ、あの日のことがショックだったのはわかる。だがもう、あれから二年が経つ。そろそろ忘れてもいいころなんじゃないか? 古い記憶をいつまでも引きずったままじゃ、人は前に進めない」
「……」
忘れる。そうしようとは、もちろん思った。でも無理だった。頑張って、努力して、全力を尽くした結果、期待に応えられない自分を想像すると、黒い霧のようなものが胸の中にわだかまった。だから、あたしは――
「あたしは、もう前に進まないことに決めたんだ」
「……なに?」
「なにもしない、無気力で怠惰な生活は、正直言って快適だった。誰からも期待されず、下手したら存在さえ忘れられかけながら、ひっそりと暮らすのは。霊球部に咲が来て、斎藤さんと出会って、自分の中でなにかが変わりかけていたような気はした。……でも結局、あたしの本質は変わらなかった」
「本質?」
「そうだよ。咲から『期待してる』って言葉をかけられたとき、あたしはいますぐこの場から逃げ出したいって思った。そして結果、逃げ出した。それがあたしの本質。向き合うべきものが現れたら目を背けて、すぐに楽なほうへと逃げ出す。きっと昔から、本来あたしはそういうやつだったんだ」
「いや、しかし、お前は……」
「霊球部は、もう辞める。大会に出られなくなっちゃうのは申し訳ないけど、まなが代わりの部員をさがしてくれてるみたいだし、その次の大会くらいには出られるかも。それに、あたしみたいなのがいないほうが、部全体としてもうまくやっていけると思うし……」
言葉を切る。航士郎は納得してくれたようだ。納得、というより単に呆れられたのか。どちらでもいい。とにかく、これで――
「弥里」
と、思ったら返事が返ってきた。
「ごめん、何を言われても、もうあたしは……」
「……すまん、弥里。やはり僕は、壁やぬいぐるみにも劣る聞き役だったかもしれない」
「……へ?」




