お礼のお礼——贈る温度
『ありがとうございました』
カナタが軽く上体を傾け、
運転席のお父さんへ静かに一礼した。
「こちらこそありがとう。楽しい時間だったよ」
お父さんは笑いながら顔だけで振り返り、
どこか名残惜しそうに目を細める。
その流れのまま、
カナタの視線がすっと私に向けられた。
吊り気味の瞳の奥に、
ごく薄く沈んだ“心配”。
それに気づいた瞬間、
胸の奥がくすぐったくなって、
私はそれを安心させるように、
そっと笑った。
すると、
カナタの目元が僅かにゆるむ。
張りつめていたものが、
ほどけていくみたいに。
チョーカーから、
ほっと息をつく気配が伝わってきて――
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
『……また明日』
いつもより少しだけ柔らかい声。
「うんっ、また明日っ」
カナタは目尻をゆるめたまま、
静かに車を降りた。
ドアが閉まる音が夜に短く響く。
――その瞬間。
(……あっ)
胸の奥で、何かが弾けた。
(ボールペン……!!)
思い出した瞬間、
心臓が大きく跳ねる。
「わ、わっ……!」
反射的にドアへ手をかける。
「莉愛? どうしたんだい」
「あのっ、ちょっと……忘れ物!!」
「忘れ物?」
自分でも何を言っているのかわからないまま、
車を飛び出した。
冷たい夜風が頬をかすめる。
肩掛けの鞄が跳ねて、
心臓の音と同じ速さで揺れた。
ただ、カナタの背中だけを見て走る。
音に気づいたのか、カナタが振り返る。
その瞳に、驚きが広がる。
私はそのまま駆け寄って、
ようやく足を止めた。
息が乱れて、
うまく呼吸ができない。
『……莉愛? どうしたの?』
心配の滲んだ声。
顔を上げて――
そして、気づく。
(……あ)
見上げる形になっていることに。
(こんなに、背……)
少し前までは、
同じくらいだったのに。
今は、ちゃんと見上げないと届かない。
そんな当たり前の変化に、今さら気づく。
『……莉愛?』
呼ばれて、はっとする。
「あっ、えっと……!」
言おうとして――
言葉が、出てこない。
ただ「ありがとう」と渡すだけ。
それだけなのに。
胸の奥で、鼓動がうるさくて。
喉の奥で、言葉が絡まって。
逃げ出したくなる。
(なんで……)
こんなに怖いんだろう。
ぎゅっと目を閉じる。
両手を強く結ぶ。
左手の義手が、
かすかに軋んだ。
――そのとき。
右手に、
そっと温かいものが触れた。
目を開ける。
カナタの手が、
私の手を包んでいた。
大きくて、
あたたかい。
震えを押さえるみたいに。
顔を上げると、
カナタの瞳がすぐそこにあった。
『……莉愛。ゆっくりでいいから』
機械混じりの、
やさしい声。
『……落ち着いて』
「っ……」
その一言で、
固まっていた心が、
少しずつほどけていく。
私はゆっくり息を吸って――
鞄の中へ手を入れた。
指先に触れる、小さな箱。
(大丈夫)
自分に言い聞かせる。
(ちゃんと、渡す)
箱を取り出して、胸の前で持つ。
そして――
「……はいっ」
差し出した。
声は小さいのに、
ぎゅっと詰まっていた。
カナタの目が、
僅かに丸くなる。
『……これは?』
小さく首を傾げた。
その反応が少しおかしくて、
でも嬉しくて、
私はふっと笑った。
「……ありがとう。私を、守ってくれて」
『……?』
まだわかっていない顔。
「……あの日。カナタも辛かったはずなのに、私のこと、守ってくれたでしょ」
少しずつ、言葉を重ねる。
「あの人が怒鳴ったときも……前に出てくれて」
カナタの目が、見開く。
『……莉愛が気にすることじゃないよ』
静かな声。
『僕が勝手にしただけだから』
それでも、私は首を振る。
「嬉しかったの」
ちゃんと、伝える。
「だから……そのお礼」
『でも……』
受け取ろうとしない、
その優しさがわかるから――
私は少しだけ笑った。
「……じゃあね、“お礼のお礼”」
カナタが、
ほんの少し息を吸う。
少しの間の後、
チョーカーからふっと息が零れた。
『……ずるいな』
ぽつり、と。
でも――
『……ありがとう』
受け取る動作がやけに丁寧で、
大事にしてくれてるのがわかる。
『……開けてもいい?』
心臓が、強く跳ねた。
「……うん」
音がしないくらい静かに、
リボンが解かれる。
箱が開く。
ほんの一瞬の、沈黙。
『……ボールペン』
その声に、
少しだけ息が抜ける。
「カナタっぽいと思って」
言葉を続ける。
「その石ね……守ってくれますようにって、願いを込めて詰めたの」
言い終わってから、
少しだけ恥ずかしくなる。
でも――
カナタは何も言わない。
ただ、見ている。
ゆっくりと。
大事にするみたいに。
呼吸が、少し変わる。
『……嬉しい』
低くて、やわらかい声。
『ありがとう』
その一言で、
全部報われた気がした。
『本当に』
その一言が、深く落ちる。
「……よかった」
自然と笑みが零れる。
『……大切にするね』
その言葉に、
胸がじんわり温かくなる。
それから、
少しだけ間を置いて。
「明日さ、駅で待ち合わせなんだけど……一人で来れる?」
カナタの目が、
ぱっと明るくなる。
『うん、大丈夫』
その反応が、
あまりに素直で。
思わず笑ってしまう。
「ふふっ……じゃあ、また明日」
『……うん。また明日』
右手を上げる。
カナタは、左手。
――パチン。
軽く重なる手。
いつもの合図。
その一瞬だけで、
心が繋がる。
手が離れても、
温もりだけが残る。
私はそのまま手を振って、
車へ戻った。
ドアを開ける前に、
もう一度振り返る。
カナタが、
まだこちらを見ていた。
柔らかい目で。
その光が、胸の奥に灯る。
――また明日。
その言葉が、
今日を優しく閉じていく。
静かに車に乗り込みながら、
私はそっと息をついた。
胸の奥に残った温もりは、
消えるどころか、
少しずつ広がっていく。
今日という一日が、
ゆっくりと夜に溶けていく中で――
その温かさだけが、
確かに残り続けていた。
お読みくださり、ありがとうございます。
今回は、
莉愛が“想いを渡す”回でした。
ただプレゼントを渡すだけ。
それだけのことなのに、
大切な相手だからこそ言葉にできなくなる。
そんな莉愛の気持ちを、
丁寧に書いた回です。
そして、
カナタの「嬉しい」という一言。
短い言葉ですが、
今の二人にとっては、
とても大きな瞬間でした。
感想や評価をいただけると、
本当に励みになります。
これからも、
莉愛たちの物語を見守っていただけたら嬉しいです。




