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まだ、渡せていない——贈る温度

 家に帰ると、

 外の喧騒が嘘みたいに静かだった。


 玄関の扉を閉めた瞬間、

 空気がふっと変わる。


 帰ってきた。


 それだけで、

 心が少し軽くなる。


 荷物を置いてダイニングに戻ると、

 お母さんはもうキッチンに立っていた。


 エプロンを手に取る。


 紐を結ぶその動作すら、

 どこか安心できる。


「昨日のスープ、少し整えましょうか」


「うん」


 火にかけられた鍋から、

 ゆっくりと香りが立ち上る。


 それをぼんやり感じながら、

 私はサラダとスムージーの準備をする。




 テーブルのセッティングをしている、

 そのときだった。


 家の前で、

 車が止まる音がした。


(来たっ)


 指先が一瞬止まる。


 ほとんど反射的に動いていた。


 お皿を置いて、

 玄関へ向かう。


 扉の向こうから、

 声が聞こえる。


 お父さんと――カナタ。


「お帰りなさいっ」


 自分でもわかるくらい、

 声が弾んだ。


「ただいま」


 お父さんが目を細めて笑う。


 そして視線は、

 自然と隣へ向く。


「カナタも……いらっしゃい」


『……ありがとう』


 機械混じりなのに、

 柔らかい声。


 それだけで、

 胸の奥が少しだけ温かくなる。


「お母さんとのデートは楽しかったかい?」


 靴を脱ぎながらお父さんがそう聞く。


「楽しかったっ。たくさん買ってもらっちゃった!」


「そうか。お母さんも喜んだだろう」


 言い切るお父さんに、

 思わず目を瞬かせる。


「なんでわかるの?」


「……なんでだろうね」


 お父さんは微笑みながら

 私の頭にぽんと手を置いた後、

 書斎へ行った。


「……?」


 背中を見送る。


『お邪魔します』


 振り向くと、

 鋭いのに柔らかい視線と目が合う。


(そうだっ、ボールペン)


 胸の高鳴りを抑えながら声を上げる。


「カナタっ、あのね――」


 するとキッチンの方から、

 カタカタと音がした。


 お鍋の蓋が揺れているような――


「……あっ!! お鍋!!」


 急いでキッチンへ駆ける。


 なんとか吹き溢れは免れた。


 心を落ち着かせて、

 私は料理の続きに取り掛かる。



◇ ◇ ◇



 食事は、穏やかに進んでいった。


 会話は途切れず、

 でも騒がしくもなくて、ちょうどいい。


 家族の中に、カナタが自然にいる。


 その光景が、

 不思議なくらいしっくりきていた。


 食後のミルクティーの湯気が、

 ゆっくりと立ち上る。


 その中で、

 私はふと思い出したように口を開いた。


「ねぇねぇ、お父さん」


「なんだい?」


「お父さんは双輪疾駆には出てたの?」


 その瞬間、

 お父さんの顔が変わった。


 ぱっと明るくなる。


「もちろん。高等部三年間、全部出たよ」


「えぇーっ!」


 思わず声が張る。


 お母さんがそっとカップをソーサーに置く。


「レースに出たお父さんはね……」


 指先で頬に触れながら、

 懐かしそうに微笑んだ。


「それはそれは、格好よかったのよ〜」


「えぇーっ! そうなの〜!」


 二人の学生時代なんて聞いたことがない。


 胸がワクワクして、

 自然と身を乗り出してしまう。


「レースの後はね、エス申請がすごかったのよ」


 お母さんが懐かしそうに言う。


「へぇ!」


 お父さんは鼻の頭を掻いた。


『……アプレンティスも何人かいたんですか?』


 カナタが静かに尋ねる。


 お父さんは少しだけ考えてから、


「まぁ……いたかな。うん、いたね」


 お父さんは照れ笑いしながら答える。


「お母さんもいたの? アプレンティス」


 期待を込めて尋ねると、

 お母さんも照れたように笑った。


「お母さんは……一人だけいたわよ」


 その言い方はどこか控えめだった。


「何人もっていうのは……お母さんにはちょっと難しくてね」


 お母さんらしいな、と胸の中でそっと思う。




 家の空気がすっかり柔らかくなって、

 気づけばもうカナタを

 教会へ送らなければならない時間になっていた。


「おや、もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間だなぁ」


 お父さんが名残惜しそうに言いながら、

 紅茶の残りを飲み干す。


「車の準備をしてくるよ。カナタくんも、そろそろ帰り支度をね」


『はい。ご馳走様でした』


 カナタのカップはすでに空っぽで、

 お父さんはそれを見ると

 満足そうに頷いてから書斎へ向かった。


 扉が閉まるのを見送ってから、

 私も席を立ち上がる。


 私はカナタの持つカップへ手を伸ばした。


「カナタ、片づけは私がやるよ。カナタは帰る支度して?」


 カナタは瞬きをひとつして、

 私の手元へ視線を落とす。


 そしてそっとカップを差し出した。


『……うん。ありがとう』


「いいえっ」


 キッチンでスポンジを泡立てると――


「……莉愛、いいの?」


「ん? 何が?」


「何がって……渡せたの?」


「……え?」


 渡す……?


「あっ!!」


(ボールペン! 忘れてたっ!)


 みんなで話して笑って、

 すっかり忘れていた。


「渡してないっ」


「ここは大丈夫だから、行ってきなさい」


「うんっ!」


 急いでタオルで手を拭いて、

 部屋へ駆けた。


 部屋に飛び込んだ私は、

 肩掛け鞄からラッピングボックスを

 取り出そうとした瞬間――


 外から車のエンジンがかかる低い音が響いた。


(っ!!)


 心臓が跳ねる。


 私は鞄ごと抱えて部屋を飛び出した。


 玄関に着いたとき、

 ちょうどカナタが家を出て

 扉が音を立てて閉まったところだった。


(わぁあ! 待って、待って!!)


 急いで靴を履き外へ飛び出すと、

 カナタが車の後部座席に

 乗り込んでいるのが見えた。


 私はカナタとは反対側のドアを開け、

 そのまま後部座席へ滑り込んだ。


 カナタは驚いたように目を見開いている。


「あれ、莉愛も一緒に行くのかい?」


「う、うん!」


 急いできたことを悟られたくなくて、

 胸に手を当てながら必死に息を整える。


「……どうして、鞄持ってるんだ?」


「えっ!? ……い、いいでしょ別に!!」


 車の中で渡す……とも考えたけど、

 お父さんがいる空間で渡すのは照れ臭い。


(教会についてから、渡そう)


 しばらく流れる街並みを眺めていると、


『おじさんはもしかして、生徒会役員だったんですか?』


 カナタがそう尋ねた。


 確かに、

 アプレンティスが何人もいたのなら

 生徒会にいたのかもしれない。


「あぁ、副会長だったよ」


「利玖と一緒だっ!」


 お父さんはふふっと笑う。


「お父さんより人気者がいたんだぁ。どんな人が生徒会長だったんだろう?」


「誰だと思う?」


「えーっ、お父さんの同級生なんて、わからないよぅ」


 隣に座るカナタが、

 マスクにこぶしを当てながら

 静かに呟いた。


『……おばさんですか?』


「そうっ、カナタくん正解!」


 一瞬の沈黙。


「えぇぇえっっ!? お母さんっ!?!?」


 叫んだ瞬間、

 胸の奥がぐらりと揺れた。


 驚きだけじゃない。


 何か――


 くすぐったいような誇らしいような、

 いろんな感情が同時に押し寄せてくる。


「お母さんのアプレンティスは一人だけだったけど、エス申請はお父さんより多かったんだぞ」


 自慢するでもなく、

 どこか誇らしげにお父さんが言う。


「そうだったんだ……」


 私は思わず呟いていた。


 “数じゃない”。

 そういうことなんだと思った。


 誰か一人を選ぶこと。


 それをちゃんと背負うこと。


 それがどれだけ重くて、

 優しいことなのか。


 なんとなく、わかる気がした。


 会話が続く中でも、

 私はずっと鞄を抱きしめていた。


(……まだ、渡せてない)


 車は減速する。


 緑の教会が見えてくる。


 ステンドグラスが、

 夜の中で静かに光っていた。


お読みくださり、ありがとうございます。


同じ食卓を囲んで、笑って、

自然に会話をする。


それだけなのに、

莉愛にとっては特別な時間です。


そして少しだけ見えた、

お父さんとお母さんの学生時代。


今の莉愛たちにも、

どこか繋がっているのかもしれません。


……そして、結局まだ渡せないボールペン。


でも、

“渡したい”と思っているその時間も、

きっと大切なんだと思います。

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