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スクリーンの中のカナタは、円盤に片膝を立ててしゃがみ込み、その縁にある持ち手をしっかりと掴んでいた。
不思議な光景だった。まるで、お鍋の上に乗っているみたいで——
(……どうやって動くんだろう?)
胸の中で、そんな疑問がふと浮かぶ。
きっと私だけじゃない。教室中の誰もが、同じ疑問を抱えている気がした。だって、あの創駆には、タイヤがひとつもないのだから。
〈——ピッ、ピッ、ピッ、ピー!〉
(えっ!?)
スタート音と同時に、カナタの創駆が弾かれたように前へ飛び出した。
その動きはまるで風が形を持ったようで、地面すれすれを滑る姿に思わず息を呑む。
教室がざわめいた。驚きと興奮が一斉に広がる。
「カナタくんっ、あれ、どうやって進んでるのっ!?」
詩乃ちゃんが声を潜めながらも、抑えきれない好奇心で叫ぶ。私も同じ気持ちで、スクリーンの中のカナタから、隣の机に座る本人へと視線を向けた。
カナタは、腕を組みながら落ち着いた声で答える。
『見た目は地味だけど、原理は単純だよ。底面の魔力圧縮層で空気を瞬間的に押し出して、反発力で浮かせてるんだ。空気の膜の上に滑ってる感じだね』
「「「…………」」」
その説明はまるで、専門書を朗読されているみたいで——正直、理屈の半分も理解できなかった。
私は頭が真っ白になり、目を点にして、カナタを見つめてしまった。
不意に詩乃ちゃんへ目を向けると、目をまん丸にして固まっていた。その表情に、自分の呆然とした顔が映し出されている気がして、思わず小さく笑いそうになった。
私たちが頭を真っ白にしてパニックになっているというのに、カナタ本人はいたって真面目な顔をしている。しかも、どこか楽しそうで余裕の表情。
『安定させるのが難しかったけど、空気流のベクトルを循環させれば、推進と浮遊を同時に維持できる。制御さえ安定すれば、摩擦もない分、最高速はバイク型を超えるよ』
(……え、何言った今?)
私の脳が一瞬で思考放棄した。
向かいにいる詩乃ちゃんと、自然と目が合う。そしてそのまま、カナタとペアの拓斗の方を見たら——案の定、目を逸らして小さく首を振っていた。
多分、拓斗も理解していない。いや、間違いなくしてない。
「えぇっと……つまりどういうこと……?」
結局、正直に聞くしかなかった。情けないけど、それが一番早い。
私の言葉に、カナタは一瞬ハッとした顔をした。目が僅かに見開き、呼吸まで止まったかのように一瞬固まる。
だけどすぐに、肩の力をふっと抜いたようにして、普段通りの落ち着いた表情に戻り、説明を続ける。
『要するにこの円盤は、下から魔法で空気を押して浮かんでるんだ。ちょっと飛ぶスケートボードみたいな感じ。進む力もそのまま魔法で操作してる』
「「「へぇ〜」」」
ようやく理解の光が差した。
クラスメイト数名も同じタイミングで頷いてるのが見えて、妙な一体感が生まれる。
難しすぎた理屈が、最後の説明で一気にスッキリしたからだ。
笑いながらカナタを見ると、目を伏せて、そっと視線を逸らしていた。ちょっと照れている。その仕草が不意に胸の奥をくすぐる。
さっきまであんなに自信満々に理屈を語っていたのに、その急な照れ方が可笑しくて、唇の端がまた緩んだ。
まるで、強がりと素直さの境目で揺れているみたい。そんなカナタを見ると、笑いの奥で、少しだけ温かいものが滲んだ。
「じゃあ、私たちみんなスケートボード型でクリアしたんだねっ!」
詩乃ちゃんの明るい声に、カナタのチョーカーからふっと笑ったような息が漏れた。
『そうなるね』
詩乃ちゃんの一言で、私たち三ペアの共通点みたいなものが見つかって、胸の奥にポッと温かいものが広がる。心が満たされる感じがして、笑顔が自然と溢れた。
そんなことを考えているうちに、教室がざわざわと騒然としてきた。視線をスクリーンに向けると、カナタたちが薬苑コースに突入していた。
カナタは問題を聞くや否や、迷わず答えのルートへと進んで行く。あまりにも素速い動きに
「……拓斗、何もしてないじゃん」
私は思わず、さっき笑われたお返しに、拓斗を揶揄ってみる。
「ち、ちげーよ。答え言う前にカナタがさっさと行っちまうんだよ……」
スクリーンに目を向けながら、拓斗は少し悔しそうに、でもどこか照れくさそうに答える。その表情が、妙に可笑しくて、つい心の中でクスッと笑ってしまった。
「じゃあ結局何もしてないじゃんっ。私のこと笑えないねっ」
そう言うと、拓斗は「うるせー」と小さく呟き、頬を僅かに赤くした。
でもそんなやり取りも束の間。次の魔障コースに差し掛かると、音が鳴った瞬間、拓斗は即座に三つの和音を答える。その正確さに、思わず目を見張る。
「拓斗くんすごーいっ! 絶対音感ってやつ?」
拓斗が短く「まぁな」と答える間に、カナタは魔障コースをさっさと突破してしまった。拓斗の落ち着いた表情と、カナタの手際の良さに、私はつい感心して息を呑む。
そんな二人の息の合った連携を見ていると、胸の奥に誇らしいような、温かいような、柔らかい感覚がゆっくりと広がっていった。
次の夢幻コースでは、さっきの説明通り、カナタは一切躊躇せず、真っ直ぐに霧の中を進む。創駆の周りの霧が風に押されるように離れて行くのを見て、創駆から魔力で風を出しているのが分かる。
ある程度進むと、カナタの創駆は止まった。拓斗の聴護環が壁にぶつかったらしい。スクリーンの中のカナタは慌てず方向を変え、出口を探す。
「そっか、元々姿勢が低いから突破できたのか」
玲央くんが納得したように呟く。確かに、カナタはずっと低い重心を保っている。そのお陰で、あの不気味な音を気にせず突破できたのだろう。
そして最後の枯渇コース。
(カナタが言ってた『楽しみにしてて』って、何のことだろう……?)
そう考えていると、拓斗が突然立ち上がった。
「拓斗くん、どうしたの?」
「便所」
詩乃ちゃんの言葉に拓斗は短くそう答えると、さっさと教室を出て行こうとする。
『えー』
カナタが拓斗に向かって不満げな声を上げる。でもその声は怒っているというよりも、ちょっと拗ねているみたいで、どこか可愛らしくもあった。
一方の拓斗は、キッとカナタを睨んで教室を出る。しかしその目の奥には、苛立ちというより照れの気持ちが滲んでいた。
「タイヤとか付いてないから、どうやって進むのかしら?」
優ちゃんが、みんなが抱くであろう疑問を口にする。教室の空気は再びざわめき、私も思わずスクリーンに目を戻して、ふたりの動きに注目した。
〈くそっ、わーったよっ! やりゃーいーんだろ!!〉
スクリーンから拓斗の怒鳴り声が聞こえてきた。スクリーンから拓斗の怒鳴り声が響く。でも耳に届くのは、本当の怒りじゃなくて、さっきと同じくどこか照れ隠しの混ざった声だった。
(何が起こるんだろう?)
思わずカナタに目を向けると、カナタは私の視線に気付いて目が合うと、目元には楽しげな光が差していて、まるで「見てて」と合図を送っているみたいだった。
その視線を受け取りスクリーンに目を戻すと、拓斗はプレートに義手を置き、目を瞑って深く集中している。肩の力が抜け、口元には僅かに緊張と楽しさが混ざった表情が浮かんでいた。そして——
〈♫♩〜♫♬〜♬♪〜〉
(!!?)
突然、スクリーンの中から聞こえてきたのは、私たちの知らない言語の旋律。
周りを見ると、クラスメイトたちも口をポカンと開け、目を大きくしてスクリーンを凝視していた。
拓斗はこの時、外国語で歌っている。
私たちは聴覚魔法によって、どんな外国語も日本語に翻訳されて私たちの耳に届く。
でも、拓斗の歌う歌詞には翻訳がされていない。だから拓斗が何と言っているのか、全く分からない。でもその不思議な歌声に、思わず見入ってしまう。
(翻訳じゃなくて、違う聴覚魔法を使っているってこと?)
そんなふうに考え込んでいる間に、カナタの乗る創駆は息を吹き返して動き出す。ふわりと地面から浮き、滑るように進むその姿に、私は思わず息を呑んだ。
驚きと興奮の入り混じったざわめきが教室中に広がる。誰かが小さく笑い声を漏らすと、それに連鎖するように他の子たちも思わず声を上げ、気付けば教室中が拍手と歓声で包まれていた。
スクリーンの中でカナタは巧みに風を操り、コースを抜けていく。拓斗の不思議な歌と二人の見事な連携——
その様子を見ていると、さっきとは違う温かさで心が満たされる感覚が広がった。
私も拍手をしながら、涙が出そうになった。
胸の奥が熱くなって、指先まで温かい。
もしかしたら、拓斗の歌のせいかもしれない。
音の重なりや歓声の余韻が、まるで心の奥を優しく包み込んでいくみたいだった。
——初等部の頃のふたりを、私は知っている。
あの頃の拓斗には、いつも四人の取り巻きがいた。
その中で笑いながら、揶揄うようにカナタへ心ない言葉を浴びせていた。悪意を含ませた残酷さのある言葉だった。
だけど、カナタは一度も言い返さなかった。ただ、静かに目を逸らして、関わらないようにしていた。
一度だけ。拓斗の言葉に、カナタがはっきりと返したことがあった。
あの時の、教室の空気がピンと張り詰めた瞬間は忘れられない。
でも卒業式の日、カナタは拓斗に「中等部でもよろしく」と伝えたらしい。
あの時の拓斗の顔を、私は今でも覚えている。驚いたような、悔しいような、何かに気付いたような——そんな複雑な表情だった。
その話を聞いた時、私は少しだけ信じられなかった。だけど今、スクリーンの中のふたりを見ていると、確かにあの言葉は本物だったんだと思える。
きっとカナタは、分かってたんだ。拓斗自身が、悪い奴なんかじゃないんだって。周りの奴らのせいで、あんなことをしていたんだって。
——あの時の沈黙の中にあった“想い”が、ようやく形になったんだ。
そう思ったら、胸の奥がどうしようもなく熱くなって、抑えていた涙が頬を伝った。
誇らしいとか、感動とか、そんな単語では追いつかない。心の底がふわりと溶けていくような、静かな温もりだけが、そこにあった。




