優しく戻る日常——残る温もり
試験も無事に終わり、
今日は待ちに待った金曜日。
張り詰めていた一週間の終わりに、
教室の空気はどこかゆるんでいた。
――それでも、窓の外は相変わらずの梅雨空。
浅葱鼠色の空の向こうで、
光がぼんやりと滲んでいる。
少し開いた窓から、
湿った空気と雨の匂いが流れ込んできた。
中庭のレンガ道を叩く雨音が、
規則正しく教室に響いている。
その音に耳を澄ますと、
世界が静かに息をしているみたいだった。
机の上に置いた左腕に視線を落とす。
金属の表面が、
雨の光を淡く反射していた。
――私たちはみんな、機械仕掛けの魔法使い。
自然と浮かんだその言葉に、
私は一度、
ちゃんと納得したはずだった。
だからこの義手も、
本当に自分の一部なんだと――
そう思えたのに。
それでもやっぱり。
“自分の一部”だと実感するほどに、
胸の奥に少しだけ複雑なものが残る。
――自分のものだからこそ。
そう思った瞬間、
胸元の菊理に触れた指先から
記憶が静かに引きずり出される。
利用された気持ち悪さ。
怒鳴り声。
無くなったハンカチ。
胸の奥に、かすかな痛みが走る。
それでも――
(……日常が、戻ってきてる)
もう涙は出なかった。
痛みは、まだ残っている。
でも、それごと抱えて前を向けている。
それが、少しだけ嬉しかった。
キーン、コーン、カーン、コーン――
「はい、では授業を終わります」
号令と共に教室が動き出す。
ざわめきの中に、
雨音が静かに溶けていった。
私は教材をまとめ、
ロッカーへ向かう。
右手で取っ手に触れると、
少し遅れて“カチャッ”と解錠音が鳴った。
『莉愛』
独特の響き方をするその声を聞けば、
誰なのかはすぐにわかる。
「なぁに? カナタ」
なるべく明るく返事をした。
『大丈夫? 元気ないように見えて……』
その一言に、胸の奥が温かくなる。
「ううん。こういう天気だと、ちょっと気が滅入らない?」
そう言って笑うと、
今度はちゃんと自然に笑えた。
カナタは少しだけ考えるように黙る。
そのとき――
「優ちゃーんっ!! 見て見てーっ!」
「本当に元気ね、詩乃は……」
教室から賑やかな声が響いた。
思わず顔を見合わせる。
『……元気、だね』
「ふふっ、うん」
カナタのチョーカーが、
ほんの僅かに息を漏らした。
まるで一緒に笑ってくれたみたいで、
少し嬉しくなる。
「そういえば、ロッカーの鍵。カナタの案が採用されたんだね」
新しいロッカーの表面を撫でる。
嗅覚魔法、指紋認証、
魔力感知、波長照合、
――四重ロック。
堅牢で、どこか安心できる仕組み。
『でも、開くまでの間が気になるなぁ』
マスクにこぶしを当てる。
まるで職人みたい。
「また改良するの?」
『かもね』
そのやり取りが、なんだかおかしくて。
静かな午後に、小さな温もりが広がった。
◇ ◇ ◇
「なんかさ、高等部の先輩たち、ピリピリしてない?」
昼休み。
食堂から教室へ向かう途中、
詩乃ちゃんが小声で言った。
確かに、
食堂の空気がいつもと違った。
資料を広げて議論する人、
無言で何かを睨む人。
食堂なのに、
どこか戦場みたいだった。
「翔環祭が近いからね。先輩たちはみんな必死よ」
優ちゃんが、ふぅっと息を吐く。
「それって、そんなに大事なのか?」
拓斗が首を傾げると、
優ちゃんは淡々と答えた。
「成績次第でオファーが来るの。教会への推薦も……実質、就職活動ね」
「うわ……」
拓斗が肩をすくめる。
私も苦笑する。
――でも、少しだけわかる気がした。
必死になる理由が、そこにはある。
教室について、いつもの場所へ。
「翔環祭って、どんなことやるの?」
詩乃ちゃんの問いに、
優ちゃんが指を立てる。
「まずは―― 双輪疾駆」
「中一の実技試験でやっていた“双輪試走”が基になったレースよ。翔環祭といえば、まずこれって言われるくらい有名」
初夏の陽射し、
ざわめく歓声、
そして風を切って走る創駆たち。
空気ごと震わせるような音に、
胸が高鳴ったのを思い出す。
「去年、お母さんと三人で、街まで応援しに行ったよねっ」
カナタは小さく頷いた。
『利玖たち早過ぎて、ほんの一瞬しか見えなかったね』
「でも、利玖は私たちがちゃんと見えてたんだって」
『本当かなぁ』
風を切る創駆の姿が、
胸の奥に今も残っている。
「次に、彩律演武。魔法の表現競技よ」
「ダンスでも歌でも演奏でも、幻影でも舞踏魔法でも、表現できるなら何でもあり」
「「お〜!」」
私と詩乃ちゃんの声が重なった。
「最後に、解環迷宮。チームで迷宮を攻略する試験」
そこで、優ちゃんが少しだけ笑った。
玲央くんの顔が引きつる。
「基になった……え、試験って……」
「玲央、察しがいいわね」
優ちゃんはさらに口角を上げた。
「中等部二年の実技試験は“彩律試演”、中等部三年は“解環試略”」
「つまり――翔環祭で上級生がやってるのは、私たちの未来の試験ってわけ」
その一言に、空気が変わる。
「……俺ら、踊るの?」
「そうなるわね」
ダンッ!!
机に突っ伏す音。
「無理だーっ!!」
思わず私も固まる。
(……私も?)
玲央くんが、ばっと顔を上げた。
「裏方……あり!?」
「場合によるわね」
その瞬間――
がしっと両手を結ぶ。
「「絶対裏方、絶対裏方、絶対裏方――」」
祈るように呟く、
私と玲央くんの声が重なった。
吹き出す詩乃ちゃんと拓斗。
「必死すぎだろ」
くっくっと、
抑えながら笑う拓斗。
「そりゃ、一芸持ってる奴はいいよなっ!」
玲央くんが机をバンッと叩く。
「俺なんか、劇なんて初等部の学芸会以来だぞ!」
「そんときも逃げて照明係だったんだ!」
その言葉に、
思わず私はコクコクと勢いよく頷いた。
「学芸会懐かしいー! 私、森のリスAやったー!」
「あら可愛いっ。莉愛はそのとき何やったの?」
優ちゃんが穏やかに微笑んで、
私に視線を向けてくる。
「え、えっと……森のリスB……」
そう答えた瞬間、顔が熱くなった。
あのとき、一人で立てなくて、
詩乃ちゃんの後ろに隠れていた私。
「じゃあ、カナタは何やったんだよ?」
玲央くんが、
興味ありげにカナタを見る。
『脚本』
「きゃ、脚本……?」
玲央くんの声がひっくり返る。
詩乃ちゃんが、
ぱちんと手を合わせた。
「私たちの先生がね、『できることはやってみましょう』ってことで、色んなことやらせてくれたんだよっ!」
「拓斗くんは、ピアノを引いたよね?」
拓斗は少し照れくさそうに目を逸らした。
「へぇ、面白いわね」
優ちゃんが小さく笑った。
「あたしたちの方はね、目立ちたがり屋が多かったの」
「海の中を演出する“ワカメ役”の子たちがね、アドリブで踊り出したのよ。もう、観客席は笑いの渦」
「えーっ、見たーい!!」
教室に笑い声が広がる。
誰かが笑って、
誰かが突っ込んで、
また笑って。
その中で、ふと思う。
――こういう時間が、ずっと続けばいいのに。
窓の外では雨がやんでいた。
湿った風が静かに教室へ流れ込む。
その優しい匂いが、
胸の奥に残っていた緊張を、
ゆっくりと洗い流していくようだった。
お読みくださり、ありがとうございます。
義手に触れて、
まだ残っている痛みを感じる莉愛。
でも同時に、
笑って話せる時間も戻ってきている。
傷は消えなくても、
そのまま前へ進けるようになってきた。
そんな変化を書きたかった回です。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




