笑って帰れる場所——残された温度
無事にシフォンケーキを渡し終えた私たちは、
少し軽くなった足取りでバス乗り場へ向かっていた。
夕方の光が傾いて、
桜並木とそこを歩く私たちの影が
少しずつ伸びていく。
途中、
拓斗の彼女さんが待っていたようで、
拓斗は私たちと別れた。
でもその背中は、
どこかそっけなかった。
「彼女さん、こんな時間まで待っててくれたんだね」
私がぽつりと言うと、
詩乃ちゃんも隣で頷いた。
「ねっ、すごいね。……あんなに待ってたのに……」
私も少し胸の奥がざわつく。
「ちょっと拓斗の態度は、目に余る気がするっ」
思わず口から溢れた。
『……まぁ、二人にしか分からない関係があるのかもしれないし』
カナタが静かに言った。
その横顔は穏やかで、
距離を尊重するような優しさがあった。
私は小さく息をつく。
カナタの言葉が、
胸の奥の小さな棘を
そっと撫でてくれたみたいだった。
拓斗をこれ以上責めずに済んだ。
それが少し嬉しかった。
桜並木を抜けると、
バスロータリーが見えてきた。
そこに見覚えのある車が停まっている。
運転席から、
背の高いスーツ姿の男性が降りてくる。
その人は私たちに気づくと、
目尻を優しく下げて手を振った。
あの仕草、間違えようがない。
「っ! お父さんっ!」
気づいたときには、
もう走り出していた。
お父さんが笑って両腕を広げる。
その胸に飛び込むと、
懐かしい匂いがふわりと広がった。
(あぁ……お父さんだ)
それだけで、
胸の奥がふわりとほどけていく。
お父さんの手が、
昔と同じ優しさで私の頭を撫でた。
「莉愛、学校お疲れさま。少し大きくなったか?」
「そう? わかんないっ」
顔を上げると、
お父さんが嬉しそうに笑っていた。
「でも、甘えん坊なのは変わらないんだな」
「久しぶりだからだよっ!」
思わず頬が膨れる。
でも、
そのやり取りすら懐かしくて、
少しだけ嬉しかった。
「おじさんっ、こんばんは!」
『こんばんは』
詩乃ちゃんとカナタが、
声を揃えて挨拶する。
お父さんは、
その二人に目を細めて微笑んだ。
「こんばんは、詩乃ちゃん、そしてカナタくんも」
「二人とも、学校お疲れさま」
いつもと変わらない、
あの穏やかな声。
だけど次の瞬間、
お父さんの目が少し大きく見開かれた。
『カナタくん……背ぇ、伸びたなぁ! さすが成長期だ』
お父さんは嬉しそうに
カナタの肩に手を置いて眺めていた。
「利玖と同じ部活だろう? これはますます大きくなるなぁ」
カナタは照れくさそうに目を逸らした。
すると隣の利玖が、
ぼそっと苦笑いを漏らした。
「カナタは体術だからね。……そのうち俺よりデカくなりそう」
悔しそうに眉を寄せて、
カナタの肩辺りに視線を送る。
「来年には利玖に追いつくんじゃないか?」
お父さんの何気ない一言に、
カナタが少しだけ戸惑ったように目を瞬かせる。
「そうはさせねぇ」
そう言ってにやっと笑うと、
カナタの肩へ腕を回す。
『……重い』
カナタの平静な声と、
利玖の義腕の軋む音がほんのりと響いた。
“身長が伸びないように押さえ込む”という、
よくわからない物理魔法でも
かけているらしい。
そんなやり取りに、
頬がゆるむ。
「さっ、無駄な努力してないで、利玖は車に乗りなさい」
「へーい」
お父さんの軽い口調に、
利玖は即座に肩から腕を外した。
その努力が無駄だってことは、
自分でもわかっていたみたい。
利玖が車に乗り込む。
その背中を見ていると、
胸の奥がきゅっと締まった。
「……あっ、お父さん……」
思わず呼び止める。
「ん?」
優しい目に見つめられて、
言葉が詰まる。
「あの……ちゃんと自分からも言うけど……」
視線が落ちる。
「お母さんに、ごめんなさいって伝えといて……」
「……莉愛」
お父さんの低い声が、
包み込むように響く。
次の瞬間、
そっと肩に手が置かれた。
その重みが、
少しだけ胸に沁みる。
「謝らなくていい」
その一言が、
真っ直ぐ胸に届いた。
「莉愛が悪くないことは、ちゃんと分かってる」
肩に置かれた手が、
ゆっくりと頭へ移る。
撫でられる感触に、
堪えていたものが崩れた。
「お母さんが言っていたよ。『笑って帰ってきてほしい』って」
その言葉で、涙が溢れた。
わかっていたのに、
止められなかった。
「試験がなかったら、このまま連れて帰れるのになぁ……」
少し困ったような優しい声が、
胸に響いた。
「おじさんっ、莉愛ちゃんのことは任せてっ!」
詩乃ちゃんが、
胸をどんと叩く。
その仕草が少し大げさで、
でも真っ直ぐで、優しかった。
「莉愛ちゃんっ、来週一緒に帰ろうよっ!」
詩乃ちゃんのこの明るさに、
私は何回救われてきたんだろう。
「……うんっ」
鼻をすする音と一緒に、
かすかに笑う。
笑った拍子に、
胸の奥に詰まっていた重たいものが、
ほんの少しだけほどけた気がした。
涙を拭きながら、頷いた。
(帰る――)
その言葉が、胸の中で静かに響く。
でも――
今は、ここにいられる。
「それじゃあ、詩乃ちゃん、カナタくん。莉愛をお願いしてもいいかな?」
「はいっ!」
『はい』
二人の声に、お父さんは笑った。
詩乃ちゃんとカナタが私の隣に来てくれると、
さっきまで涙で曇っていた世界が、
少しずつ色を取り戻していく気がした。
「来週帰って来るなら、カナタくんもよかったら一緒に帰って来て、一緒に食事でもどうだい?」
『……いいんですか?』
「あぁ。あの創駆、詳しく話を聞きたいと思ってたんだよ」
お父さんは、
少し照れたように笑った。
『……はい』
カナタは小さく頷いた。
それを見てお父さんはふっと笑い、
手を軽く振ると運転席に乗り込んだ。
お父さんと利玖が乗った車が、
ゆっくりとバスロータリーを抜けていく。
夕焼けの光を反射して、光が揺れる。
その後ろ姿を、
三人で並んで見送った。
胸の奥が少しだけ痛む。
でも――
涙は出なかった。
隣には、
詩乃ちゃんとカナタがいる。
それだけで、
ちゃんと立っていられる気がした。
――一人じゃない。
それだけで、前を向ける。
「さてっ、それじゃあ、私たちも帰ろっかっ!」
詩乃ちゃんが明るく声を上げる。
「うんっ。帰ってケーキ食べないとね」
「そうだよ〜! ホイップクリームうっかりたっぷりプレーンシフォンケーキが待ってるよ!」
『……それだと、ホイップクリームだらけのシフォンケーキってことになるよ?』
「あれっ!?」
詩乃ちゃんは、
目をまん丸にした。
その表情があまりに可愛くて、
私は思わず吹き出してしまう。
さっきまで胸の奥で沈んでいたものが、
ふっと軽くなるのを感じた。
三人の声が、
橙色の風の中に広がっていく。
――あの事件は、終わった。
だけど。
私たちの中に残ったものは、
きっと消えない。
その音が静まる頃。
空には、一番星が瞬いていた。
お読みくださり、ありがとうございます。
家族がいて、迎えに来てくれる人がいて、
「笑って帰ってきてほしい」と言ってくれる人がいる。
事件そのものは終わっても、
残る痛みは消えない。
でも、
その痛みごと抱えてくれる人がいるから、
前を向いて歩いていける。
そんな回でした。
そして、
ちゃんといつもの空気に戻してくれるのが、
詩乃ちゃんの強さかもしれません。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




