走り出す絆 20
『迷路を進む時に、何か目印を付けられる?』
唐突に投げかけられた問いに、私は瞬きをした。
「目印?」
聞き返すと、カナタは軽く頷いて補足する。
『うん。そのまま線を引いてもいいし、何か印を置いていく感じでも』
その言葉を聞いた瞬間、また胸の奥でカチリと音がした気がした。
そっか。カナタが言いたいのは口頭で指示するんじゃなくて、視覚的な“道標”を残す方法。言葉ではなく、目に見える合図で導くこと。
(これなら、命令っぽくないっ)
私の足取りを詩乃ちゃんが追ってくれるように、ただ前を示すだけ。上下関係ではなく、同じ地図を共有して同じ景色を見ながら進む。そう考えたら、胸にあった重苦しいものが少しだけ軽くなった。
「……確かに、それならできるかもしれないっ」
小さく呟くと、カナタは安心させるように目元を和らげて頷いてくれた。
「……でも、どうやって……」
どんな目印を付ければいいんだろう。
分かりやすいのは、やっぱり——光?
(光を、集める?)
頭の中でぼんやりとしたイメージを浮かべてみるけど、何だか掴み切れない。
暗闇の中でも辺りを見えるようにする魔法なら慣れている。だけど、小さな灯りをランプみたいにそこへ“置く”なんて……やったことがない。
光を「集める」って、どういうことなんだろう。
掴めそうで掴めない感覚がもどかしくて、胸の奥がじりじりと熱を帯びる。
『…………影を……』
「ん?」
その時、カナタがボソッと呟いた。金属のマスクに覆われた下半分は、カナタの思考を隠す。チョーカーからの小さな声を聞き逃すまいと、私は自然とカナタの横顔に視線を向ける。
『影を……使えないかな? ……迷路の中って、意外と暗いから……』
歯切れの悪い口調。カナタ自身も確信が持てていないのかもしれない。でも、その提案は私の胸にスッと落ちてきた。
「影かぁ。……うん、それなら分かりやすいかも」
思わず口にすると、自分でも驚くくらい納得できた。光を集めるより、影を「見つける」方がずっと得意だ。目に映る濃淡を辿るのなら、私でもできそうな気がする。
(影を動かして、道標みたいに伸ばせたら……うん、できるかもっ)
胸の奥で小さな光が灯る。
『じゃあ、迷路に行ってみようか』
カナタが促すように扉へ向かう。その背中を見ていると不安よりも挑戦したい気持ちが勝って、私は自然と小走りになった。
鼓動は少しずつ速くなり、階段を降りる足取りも軽くなる。やがてスタート地点に辿り着いたカナタが立ち止まり、私もその横に並ぶ。
目の前に広がるのは、壁がそびえ立つ巨大な迷路。飛び越えるなんて到底できそうにない高さで、下の方には宵闇のような影が幾重にも折り重なっている。
その影を見つめた瞬間、胸がドキッと跳ねた。
(ここなら、できるかもしれない)
私は壁の下に重なる影を、まるで深い水底を覗き込むようにジッと見つめた。漆黒の奥に、何か掴めるものがある気がしてならなかった。
『……どうかな? やってみてごらん』
隣でカナタが穏やかに促す。その声が背中を押してくれて、胸の奥で固くなっていた緊張が少しほぐれる。
「うん、やってみるっ」
自分に言い聞かせるように返事をして、私は深く息を吸い込んだ。冷えた空気が肺に満ち、心臓の鼓動がゆっくり落ち着いていくのを感じる。
義手を静かに持ち上げる。一度握り込み、キンッ、と硬質な音を響かせる。そして瞬きをすると、私の視界に影がくっきりと浮かび上がる。
——見える。
瞬きをして視覚を研ぎ澄ませ、影を捉える。手を伸ばし、引っ張り出すように意識を向けた瞬間——
壁にまとわりついていた影がゆらりと揺れ、まるで煙のように流れ出した。
「っ!」
『っ!』
私とカナタは同時に息を呑む。胸が跳ね上がり、ぞくりと背筋に震えが走った。
だけどその驚きの波が広がった瞬間、影はふわりと解けるように消えてしまった。まるで掴みそこねた夢の欠片のように。
残されたのはまだ震えている自分の手と、心臓の早鐘だけだった。
(今のは、確かに動いた)
『……莉愛、どう? 手応えはある?』
カナタの問いかけに、胸の奥が一気に弾ける。
「うんっ、できるかもしれないっ!」
言葉が自然と熱を帯びて飛び出した。私は思わず胸の前で両手を結んだ。
影がふわりと動いた、あの一瞬の感覚。確かに手応えがあった。それが嬉しくて、鼓動まで軽くなる。
「……カナタ、ありがとう。私、もうちょっと頑張ってみるねっ。だからカナタは創駆の方に行ってもいいよっ」
笑顔を作って言葉を繋げる。折角の時間を、私の練習で奪ってしまうのは悪い気がした。ここから先は、自分ひとりで挑戦すべきだと思ったから。
カナタはふと考えが遠くへ飛んだみたいに、静かに宙を仰ぐ。これもいつもの癖。
『……うん、じゃあ創駆の方に行ってくるね。莉愛はここで練習するでしょ?』
「えっと……うんっ。折角だからここで練習しようかなっ」
自分でも驚くくらい、前向きな言葉が出た。まだ上手くいくかは分からないけど、それでも「やれるかもしれない」と思えるだけで足が地についた気がする。
『分かった。じゃあ、また後で』
カナタは私に向かって軽く手を振る。その仕草がどこか優しくて温かくて、胸の奥が少しだけくすぐったい。
私も慌てて手を振り返す。
(また後で?)
その言葉が、不思議と耳に残った。ごく当たり前のような挨拶なのに妙に胸に引っかかる。
だけど当のカナタは振り返らず、廊下へ続く扉の向こうへ消えてしまった。静寂が戻り、広い迷路の中に私ひとりが取り残される。
「……よしっ!」
両手を胸の前でギュッと握りしめた。気合いを入れて、もう一度影を見つめる。
・
・
・
どれくらいの時間、しゃがみ込みながら影と睨みっこしているだろう。いくら見つめても、さっきできた時とは違って影は微動だにしない。冷たい迷路の壁の下で、影はただそこにへばりついているだけだった。
(あれ〜?)
首を傾げる自分に、少し苛立ちと焦りが混ざる。どうしてさっきはあんなにすんなり動いたのに、今は全然反応しないのだろう。
私は両肘を膝に置き、頬杖をついた。そして影のことを頭の中で考えてみる。
(そもそも影って、何だろう?)
光が当たらない場所に影ができる、そう教わった。光の当たる物の裏側にできる色の濃い部分。理屈で言えば、影は「無い」ものかもしれない。
だけどさっきのあの煙のような動きは、無視できない何かだった。
——光に隠れるように、どこかに“いる”もの。
その言葉の方が、なぜかしっくりきた。物の裏に“ある”じゃなくて、そこに居る小さな存在。
そう考えると不意に、弥生寮のエレベーターにいるあの影猫ちゃんたちを思い出す。壁に潜んでいて、指を差し出すとじゃれついてくるあの子たちも、やっぱり影だ。あの子たちは確かに“いた”。
そう感じた瞬間、暗いところで息を潜めている影が急に可愛く思えてくる。
(光とかくれんぼしてるんだね、きっと)
思いついた考えに、小さく笑いが溢れた。緊張で強張っていた肩が、ふっと緩む。怖がる相手ではない。遊び相手にだってなれるかもしれない——そんな気持ちが湧いてくる。
私は左手の義手を軽く鳴らした。キンッという金属音が周囲に響く。義手の指先が微かに振動するのを感じ取りながら、今度は生身の右手をゆっくりと伸ばした。
まるで恥ずかしがり屋な猫に話しかけるみたいに、そっと誘う。
「……おいでっ」
するとその瞬間、宵闇のような影が煙のようにふわりと動いた。壁から剥がれるように、スーッと寄って来て、私の右手にまとわりつく。
「っ! ……ふふっ、こんにちは」
目の前の影はもう、ただの暗がりではなかった。温度や匂いはないのに、確かにそこにいる柔らかい何か。
思わず私は笑ってしまう。胸の奥にじんわりと広がる暖かさが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ねぇねぇ、私のこと、手伝ってくれる?」
影に声をかけるなんて、もし誰かに見られたらきっと笑われる。だけど今の私には、不思議とそんな恥ずかしさよりも「通じ合いたい」という気持ちの方が強かった。
胸の奥で小さく息を溜め、心の中で形を強く思い描く。
(詩乃ちゃんをゴールまで導けるように。迷わず進めるように、道標を)
その願いに応えるように、影はふっと震えて、私の右手からスルリと抜け出した。黒い煙が線になるように、道の真ん中をなぞりながら漆黒の線を描いていく。
「っ!」
胸が跳ね上がる。本当に思い通りになった。
(伝わった! 私の気持ち、届いたんだ!)
嬉しさが一気に込み上げてきて、私は無意識に笑みを浮かべていた。
「うんっ、そうっ! ありがとう!」
嬉しさを抑え切れず胸の前で手を組み、影に向かって声をかける。お礼を言わずにはいられなかった。
ただの現象だと思っていたものが、こうして応えてくれる存在になっていく。そんな不思議な感覚に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
(一人じゃないっ。私のそばには、ちゃんと“いる”んだ)
そう確信した瞬間、影がただの漆黒ではなく、生きて寄り添う仲間のように見えた。
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