晴れの日のざわめき——初等部
卒業式の朝。
朝食を終えて、
私はお母さんと一緒に部屋へ戻った。
今日は、初めて制服で外に出る日。
鏡の前に立つと、
お母さんが後ろから
静かに手を貸してくれる。
オフホワイトのワイシャツに、
ダークグレーのスカート。
黒のニーハイソックス。
そして最後に、
漆黒の羽織を羽織る。
振袖のような、長い袂の羽織。
背筋が自然と伸びた。
不思議と重たさはなくて、
体にすっと馴染む。
「この羽織はね、成人になったらこの長い袂を落として仕立て直すの。大人の正装になるのよ」
「へぇ……」
鏡の中の自分が、
少しだけ大人びて見えた。
そんな話をしていると、
部屋のドアがノックされた。
「どうぞっ!」
入ってきたのは利玖だった。
同じ黒い羽織でも、
利玖のものには裾と袂に
蔓模様が浮かんでいる。
「おっ、いいじゃん。模様がないの懐かしいな」
利玖が私の袂を見ながら笑う。
その胸元には羽織紐があった。
淡い緑の石が、
光を受けて静かに輝いている。
「莉愛は、どこの寮になるのかしら。入学式も楽しみね」
鏡越しに、お母さんが笑う。
「十二も寮があったら、カナタとは離れちゃうかな?」
私がぽつりと聞くと、
利玖が肩をすくめた。
「いやぁ、そもそもカナタとは違う寮だろ?」
思わず頬を膨らませる。
「カナタは卯月寮か文月寮かな。莉愛は……如月寮か弥生寮、水無月寮あたり?」
「お母さんも、如月寮だと思うなぁ」
名前を聞くだけで、
知らない未来が
少しだけ近づいた気がした。
「さぁ、できたわ。回ってみせて」
私はその場でくるりと回る。
長い袂がふわりと揺れた。
「うん、素敵」
お母さんの笑顔に、
胸の奥がくすぐったくなる。
◇ ◇ ◇
「行ってきます」
学校に着いて、
お母さんたちに小さく手を振って、
教室へ向かう。
見慣れた校舎なのに、
今日はどこか違う場所みたいだった。
教室の前で立ち止まり、
深呼吸をひとつ。
扉を開けた。
「莉愛ちゃん! おはよう〜!」
声を上げたのは、
詩乃ちゃんだった。
「おはよう、詩乃ちゃんっ」
みんなと挨拶をして、
自然と学園の話になる。
制服の話。
髪型の話。
寮のシンボルの話。
いつもの友達なのに、
制服を着ているだけで
少しだけ大人に見える。
私も、誰かにはそう見えているのかな。
そんなことを思いながら教室を見渡した。
(……あれ?)
気づいた。
後ろの席が、空いている。
いつもなら、
そこにいるはずなのに。
頬杖をついて、
静かに窓の外を眺めているはずの
カナタがいない。
今日のような日は、
教会の子たちはいつも
リョク様と一緒に来る。
だから遅刻なんてしないのに。
もうすぐ集合時間になる。
それなのに、来ない。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
さっきまでの浮き立つ気持ちが、
静かにしぼんでいく。
そっと席に座る。
そのとき、
廊下からコツ、コツと
足音が近づいてきた。
教室の扉が開く。
「おはようございます」
入ってきたのは、
袴姿の担任の先生だった。
◇ ◇ ◇
「八時五十分までに、体育準備室へ集合です」
「「「はーい!」」」
先生が教室を出ていくと、
椅子を引く音があちこちで響いた。
私は立ち上がり、
もう一度、後ろを振り返る。
カナタの席。
やっぱり、空っぽのままだった。
特別な日にカナタがいないだけで、
こんなにも落ち着かなくなるなんて。
胸の奥のざわめきを誤魔化しながら、
私は静かに教室を出た。
学校の廊下は、
卒業式の朝らしい、
少し浮き立った空気。
(……きっと、遅れてるだけ)
そう自分に言い聞かせながら、
私は体育準備室へ向かった。
体育館へ続く渡り廊下に出ると、
春の光が静かに降り注いでいた。
(私が一番乗りかな?)
そんなことを思いながら、
角を曲がった、
そのとき――
その先に、
学園の制服を着た
三人の姿が見えた。
その中のひとりと目が合った瞬間、
さっきまで胸の奥にあったざわつきが、
ふっとほどけた。
黒い鋼鉄のマスク。
切れ長の目。
見慣れた黒髪が、
春の日差しを受けて
ほんのり緑色に煌めく。
「カナタっ!」
自然と声が溢れて、
私は思わず駆け足になっていた。
「ん? あ、莉愛だ」
「ほんとだっ、おはよ〜!」
その場にいたもう二人も、
私に気づいて手を振ってくれる。
「おはよっ!」
『おはよ』
短い返事。
それだけで、
胸の奥がふっと軽くなった。
「三人とも、どうしたの?」
私が尋ねると、
ひとりが肩をすくめた。
「いや〜、珍しくリョク様の支度が遅れてさ〜」
「うちらはいつも通り、準備終わってたんだけどね」
私はようやく胸を撫で下ろした。
何かあったわけじゃないらしい。
「事故でもあったのかって、心配しちゃったよ〜」
「あ、体育準備室に集合だって!」
「そっか。じゃあ行こうか」
「先に行ってるね〜」
二人は手を振って、
軽やかに先へ歩いていった。
その場に、私とカナタだけが残る。
春の光が、
カナタのマスクに鈍く反射した。
私と同じ、
袂の長い黒い羽織。
ダークグレーのスラックスに、黒い革靴。
見慣れないはずなのに、
不思議なくらいよく似合っていた。
いつもより少しだけ大人びて見えて、
思わずじっと見てしまう。
胸の奥が、きゅっと甘く鳴った。
それを誤魔化すように、
くるりと回ってみせた。
袂がふわりと揺れる。
「どう? 似合ってる?」
「みんな、大人っぽいって言ってくれたんだっ」
自分から言っておきながら、
声に少しだけ照れが混じる。
カナタは、
目元を柔らかくゆるめた。
『うん、とても似合ってるよ』
その一言が、
なんだか一番嬉しかった。
胸の奥がくすぐったくなって、
私はつい言葉を重ねてしまう。
「この羽織、高等部を卒業しても着るんだって」
「成人になったら、袂を短くするらしいよ」
羽織の袂を軽く持ち上げて見せる。
「中等部からは十二の寮で暮らすんだってっ」
「利玖は、確か睦月寮なんだよ。私たちはどこかな?」
カナタは少しだけ考えてから、静かに言った。
『十二寮か……莉愛と同じなら、楽しいんだろうな』
その言葉に、胸がぽんっと跳ねる。
嬉しくて、
でもちょっと恥ずかしくて、
私は笑って誤魔化した。
「えへへ、本当? 実は私もそう思ってたんだっ」
そう言うと、
カナタの目が少しだけ細くなる。
『でも、どの寮でも、莉愛は大丈夫だよ』
カナタの言葉は、
春の風みたいに優しかった。
「そうかなぁ。そうだといいなぁ」
見慣れない部屋。
まだ知らない友達。
そんな毎日が本当に始まるんだと思うと、
不思議で、でも少し楽しみだった。
すると、
後ろからぽつぽつと
足音が聞こえてくる。
『行こうか』
カナタが静かな声に、
私は頷いた。
並んで歩く足音がぴったり合っていて、
それが妙に嬉しい。
体育館横の準備室に入ると、
さっきの二人が窓の外を見ながら話していた。
私とカナタは、
壁際に並んで立つ。
しばらくすると、
準備室にどんどん
卒業生たちが集まってきた。
詩乃ちゃんたちもやって来て、
私とカナタを見つけるなり目を丸くする。
制服姿のカナタは、
やっぱりいつも通り落ち着いていて、
周りの反応の方がどこか面白い。
そんな空気の中――
準備室の扉が、
乱暴な音を立てて開いた。
ギリギリの時間に、
拓斗とその取り巻きたちが
ぞろぞろと入ってくる。
拓斗の視線が、
真っ直ぐカナタに突き刺さった。
さっきまで少し浮き立っていた空気が、
そこだけ、すっと冷える。
(……また)
どうしてそんなに、
敵意を向けるんだろう。
カナタの何が、
そんなに気に入らないの?
私は少しだけ不安になって
カナタを見る。
でも、カナタは
腕を組んだまま壁に寄りかかり、
視線を逸らしたままだった。
その姿が、少しだけ頼もしく見えた。
私は何も言わず、
カナタの隣に立ち続けた。
◇ ◇ ◇
気づけば整列は終わっていて、
卒業生入場のアナウンスが流れ始めていた。
体育館の扉をくぐると、空気が変わる。
保護者席から向けられる
たくさんの視線。
その中に、
お母さんたちの姿を見つけた。
お父さんの隣には、利玖もいる。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
卒業式は、静かに進んでいった。
校長先生の挨拶。
来賓の言葉。
そして壇上に立ったのは――
ここ常盤町を預かる、
緑の賢者リョク様。
「――今日、この日を迎えられたことを、心からお祝いします――」
少年のようでもあり、
どこか大人びてもいる、
不思議な声。
静まり返った体育館に、
その声が柔らかく響いていく。
(今日、支度に少し手間取ったって言ってたっけ……)
壇上に立つその姿は、
いつも以上に整っていて、
どこか儚げだった。
やがて、卒業証書と羽織紐の授与が始まる。
名前が順番に呼ばれていく。
そして――
「莉愛」
「……はいっ!」
少し震える声で返事をして、
私は立ち上がり壇上へ向かう。
校長先生から卒業証書を受け取り、
次にリョク様の前へ進む。
リョク様は、
淡い緑色の石が付いた羽織紐を、
私の胸元の襟へ丁寧に結んだ。
「おめでとう。莉愛」
その声に、思わず背筋が伸びる。
「ありがとうございますっ」
私は小さく頭を下げて、
それを受け取った。
胸元についた羽織紐は、
思っていたよりも少し重たくて。
その重みが、
なんだか“卒業”そのものみたいに感じられた。
卒業式が終わって、
カナタとお母さんとで教室へ戻る。
中はすでにいっぱいだった。
私は自分の席へ座り、振り返った。
お母さんの姿が、すぐ後ろにない。
見ると、
教室の入口辺りで
誰かと楽しそうに話していた。
話がひと段落したのか、
こちらへ来る。
「誰と話してたの?」
私が尋ねると、
お母さんは少し首を傾げた。
「えーっと、拓斗くんのお母さんよ」
思わぬ名前に、私はカナタを見た。
カナタと視線が合う。
「……お母さん、拓斗のお母さんと仲良いの?」
「仲が良いっていうか、仕事で一緒になることがあるのよ」
お母さんは、
頬に手を当てて微笑んだ。
「心を癒やすために、音楽家さんに協力してもらうことがあるの」
「拓斗くんのお母さん、よくバイオリンを弾いてくださるのよ。とっても素敵な音色なの」
私は小さく瞬いた。
慰者。
それは、心の痛みをやわらげる人たち。
心が自分自身を取り戻すのを助ける人たち。
魔力に呑まれた人を、
支えることもある。
拓斗のお母さんが、
そんな形でお母さんと繋がっていたなんて。
驚きながらも、
どこか納得するような気持ちもあった。
そのときだった。
廊下の方から、
不意にざわめきが起こる。
何事かと、
教室中の視線が
一斉に後ろの扉へ向かった。
そのざわめきが、一瞬だけ止まる。
そして――
扉が、そっと開かれた。
その瞬間、教室の空気が変わる。
そこに立っていたのは――
リョク様だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
特別なはずの日なのに、
どこか落ち着かない時間でした。
続きを見守っていただけると嬉しいです。




