知らない横顔——初等部
卒業式前日。
最後の卒業練習を終えた体育館は、
どこかいつもより静かだった。
私と詩乃ちゃんは、
教室へ戻る廊下を並んで歩いていた。
窓の向こうには、柔らかな春の光が差している。
「最後の卒業練習、終わっちゃったね。莉愛ちゃん」
詩乃ちゃんが、少し寂しそうに笑う。
「そうだね。なんだか、あっという間だったなぁ……」
六年間。
長かったはずなのに、
こうして終わりが見えると、
不思議なくらい短く感じる。
「中等部からは、魔法の実技授業もあるんだよねっ。ちょっと楽しみ!」
詩乃ちゃんはそう言って、
胸の前で両手をぱちんと合わせた。
「寮も、一緒だったらいいなぁ」
「ねっ!」
笑って頷く。
そんな他愛ない話をしているうちに、
教室の扉が見えてきた。
扉を開けると、
窓から差し込む午後の光が教室を
優しく照らしていた。
もう何人かのクラスメイトが席についている。
私は詩乃ちゃんと別れて自分の席へ向かった。
後ろの席には、もうカナタがいた。
いつものように静かに席に座り、
頬杖をつきながら窓の外を眺めている。
黒い鋼鉄のマスクが、春の光を鈍く反射していた。
「明日は卒業式だね」
私がそう声をかけると、カナタがこちらを見る。
切れ長の目が、ふっと柔らかく細まった。
「初等部生活、どうだった?」
少しだけ考えるように視線を揺らした後、
チョーカーから機械混じりの声が静かに響いた。
『……楽しかった、って言えるほど簡単じゃないし』
少し間があって、
『辛かった、って言い切るほど悪くもなかった』
私は黙って、その続きを待つ。
カナタは窓の外へ視線を戻し、
それから小さく息をついた。
『……でも』
もう一度、私を見る。
『大切な時間だったと思う』
その声はとても静かで、
でも不思議とまっすぐ胸に落ちてきた。
『……莉愛もいたしね』
「……えへへ」
不意打ちみたいにそんなことを言われて、
思わず変な笑い方になってしまう。
なんだかくすぐったくて、でもすごく嬉しい。
帰りの会が終わると、
教室は一気に放課後の空気になった。
(カナタと帰ろうかな)
そう思った、そのときだった。
「お前さ」
空気が、ふっと冷えた。
私は振り向く。
拓斗が、カナタの机の横に立っていた。
その後ろでは、
取り巻きたちがクスクスと笑っている。
「ほとんど一人だったけど、寂しくなかったの?」
さっきまで教室に残っていた柔らかい空気が、
一瞬で消えた。
卒業式前日まで、こんなことを言いに来るなんて。
胸の奥に怒りが込み上げて、
思わず立ち上がりかけた。
その瞬間――
『うん。寂しくなかったよ』
機械混じりの声が、静かに落ちた。
拓斗を見もしないまま、
帰り支度を続けながら。
『……ずっと一人だったわけじゃないからね』
その言葉に、
私の胸が少しだけ熱くなる。
拓斗は眉をひそめた。
「は?」
でもカナタは、
そこで終わらなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
そして、拓斗と同じ高さで向き合った。
表情は穏やかなまま。
なのに、
その目だけは少しも揺れていなかった。
『……誰とでも仲良くなれる人って』
一瞬だけ言葉を切る。
教室の空気が、ぴんと張りつめた。
『逆に、誰とも深いところまでは繋がれない気がするんだよね』
「……っ」
拓斗の表情が、目に見えて固まる。
カナタを見ると、
その後ろの取り巻きたちを
じっと見ていた。
そして、静かに言った。
『……君は』
僅かに首を傾ける。
『どっちだろうね?』
一瞬、教室が完全に静まり返った。
誰も、何も言わない。
チョーカーから、
空気の抜けるような小さな音が漏れる。
それがまるで、鼻で笑ったみたいに聞こえて――
私は、思わず息を呑んだ。
(今……カナタ、嗤った……?)
その音は、
いつもの優しいカナタとは
少しだけ違っていた。
ひやりとするほど静かで、冷たかった。
拓斗はカナタを睨みつけたまま、
何も言い返さない。
やがて舌打ちだけを残して踵を返し、
そのまま教室を出ていく。
取り巻きたちも慌てて後を追った。
残された教室には、
妙な沈黙だけが残る。
しばらくして、
カナタは何事もなかったかのように
椅子に座り直した。
そしてまた、
窓の外を見る。
頬杖をついた横顔は、
さっきまでと同じようで――
でも、少しだけ違って見えた。
どこか遠くて。
今にも、
手の届かないところへ
行ってしまいそう。
「……カナタ?」
カナタが、
ゆっくりと振り向く。
『ん?』
その目は、
いつものカナタだった。
柔らかくて、静かで、
少しだけ眠たそうな瞳。
それだけで、
胸の奥にあった変なざわつきが
少しやわらぐ。
「えっと……その……大丈夫?」
自分でも、
情けないくらい
曖昧な言葉だった。
本当はもっと、
ちゃんとしたことを言いたいのに。
でも、カナタは小さく目を細めた。
『……うん。大丈夫だよ』
それから少しだけ間を置いて、
『ありがとう』
その声が、
いつも通り優しくて。
私は、少しだけ安心する。
「……ねぇ、途中まで一緒に帰ろ?」
そう言うと、
カナタは静かに頷いた。
『うん、帰ろっか』
私はほっと息をつきかけて、
すぐにハッとする。
「……あ、でもちょっと待ってからにしよっか」
「今出たら、拓斗たちと鉢合わせしそうだし」
そう言いながら、
私はカナタの机に突っ伏した。
カナタは、
少し困ったように目を伏せる。
『……ごめんね』
「え?」
『嫌なところ、見せちゃった』
私は、がばっと顔を上げた。
「なんでカナタが謝るの!?」
思わず身を乗り出す。
「絶対、悪いのは向こうでしょ!」
カナタは、
少しだけ視線を逸らした。
『それでも、嫌な空気にしちゃったし……』
「きっかけは向こうからだよ!」
「だから、カナタは気にしなくていいの!」
強めに言い返すと、
カナタの目元が
ほんの少しだけやわらいだ。
それでもまだ、
どこか納得していない顔をしている。
『……ありがとう』
そう言って、
目元が小さく笑う。
その顔を見ていると、
怒っていたはずなのに、
どうしてか、頬がゆるんでしまう。
(……ほんと、ずるいなぁ)
優しくて、真面目で。
たまに、
びっくりするくらい
冷たい目をするのに。
それでもやっぱり、
カナタはカナタだった。
私は机に頬を乗せたまま、
こっそり笑う。
窓の外では、
春の終わりみたいな風が吹いていた。
明日、私たちは卒業する。
でも――
たぶん私は、
今日のこの放課後のことを、
ずっと忘れない気がした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
カナタの言葉や表情、どう感じられたでしょうか。
優しさの中にあるものも、
少しずつ形になっていきます。




