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バスの中では、そのまま自然に四人と二人に分かれて座った。車内の揺れに身を任せていたら、途中で優ちゃんが揺れの流れに乗って私たちの元へやって来た。
「あれっ、優ちゃん。晶くんとお喋りしなくていいの?」
私が首を傾げて問うと、優ちゃんは吊り革に掴んで、少し肩をすくめながら答えた。
「えぇ、粗方喋って知ったけど、あたしのお眼鏡にはかなわなかったわね」
「顔はいいんだけどねぇ」と少し残念がって言う優ちゃん。チラッとカナタを見ると、優ちゃんを見てキョトンとした顔をしている。
私はふと、胸の奥でくすぶっていた疑問を口にした。
「ねぇねぇ、優ちゃん」
「ん? どうしたの、莉愛」
振り向いた優ちゃんは、いつもの調子で軽やかに返す。その柔らかな笑みは、聞きにくいことも聞けてしまう空気をまとっていた。
「優ちゃんはさ、どうしてカナタを『カナタちゃん』って呼ぶの?」
初対面の自己紹介から、優ちゃんはずっと「カナタちゃん」と呼んでいる。拓斗や玲央くんには呼び捨てなのに。そこにずっと引っかかっていた。
優ちゃんは、ふっと唇を吊り上げて———まるで悪戯を打ち明けるように言った。
「あ〜。あたしね……お気に入りの男子には『ちゃん』付けなのっ」
その声音は軽やかだけど、言葉の端に甘い響きが混ざる。一瞬、優ちゃんの仕草や視線にどことなく妖艶な色気を感じ、私は思わず瞬きをした。
(カナタがお気に入り。仲良くなりたいってことなのかな?)
心の中で呟きつつ、私はそっとカナタの様子を伺う。
カナタは真っ直ぐ前を見たまま視線を逸らさず、眉間に薄らと皺を寄せていた。何かを考え込んでいるのが表情の揺れで分かる。
そして次の瞬間———
『……っ!』
次の瞬間、カナタは息を呑んで目が大きく見開かれた。まるで優ちゃんの言葉の真意に辿り着いたかのように。
その驚きように、今度は私の方が戸惑ってしまう。
(えっ? 何? どういうこと??)
胸の内で疑問符が膨らみ、カナタの反応と優ちゃんの微笑の間で私の思考は宙ぶらりんになった。
優ちゃんはカナタの変化に気付いたらしい。その唇がゆっくりと持ち上がり、声を抑えるようにして笑みを零した。
「ふっふっふっ……カナタちゃん、安心しなさい」
軽く囁くような声音で告げられたその言葉に、カナタは目を瞬かせる。警戒と困惑の入り混じった空気をまといながら、そっと優ちゃんの方へ視線を向けた。
『……?』
声にしない疑問が、カナタの瞳に揺れていた。
優ちゃんはそんな反応を愉しむみたいに、ふわりと笑みを深める。
「カナタちゃんはね、もう“お気に入り”じゃないわよ」
一拍置いて目を細める。その視線には茶化しとも、本気とも取れる色が混じっていた。
「“お気に入り”から——“推し”へ昇格よっ」
その宣言めいた言葉は、冗談のようでいて妙に真剣味を帯びていた。カナタはどう受け取ればいいのか分からない様子で、表情が固まる。
普段は冷静なカナタが、言葉の意味を測りかねて視線を逸らす姿と、優ちゃんの悪戯っぽい笑みとカナタの困惑の対比が可笑しくて、私は思わず口元を押さえた。
(カナタが完全に翻弄されてる)
そんな他愛ない会話をしているうちに、バスは緩やかに減速し学園のバスロータリーに滑り込んだ。
揺れと同時に車内がざわめき、降車のベルが短く響く。私たちは自然と人の流れに身を任せて、バスを降りた。
外の空気を胸いっぱいに吸い込むと、さっきまでの優ちゃんの言葉がじんわりと頭に残っている。
“お気に入り”から“推し”へ。軽い冗談めかした響きなのに、不思議と心に引っかかる言葉だった。
私の横を歩くカナタの姿は、どこかぎこちなく硬い。優ちゃんの言葉を気にしているのが伝わってくる。
だから私は、思わず優ちゃんに声を掛けた。
「……ねぇねぇ、優ちゃん。推しって、何?」
私の問いにクスリと笑いながら、優ちゃんは一瞬だけ考えるように顎に指を当て、それからそっと説明してくれた。
「推しっていうのはね、心の支えになる存在よ」
「心の支え?」
私が復唱すると、優ちゃんはコクリと頷いた。
「そっ、頑張ろうって思える源泉。好きとか憧れとか尊敬とか……そういう気持ちがごちゃ混ぜになって、心から応援したいと思える存在。見てるだけで元気になれる特別な人のことよ」
優ちゃんは説明しながらチラリとカナタを見る。その視線に気付いたのか、カナタは一瞬だけ目を泳がせるとすぐに前を向いた。
優ちゃんはそんな反応を見逃さず、楽しそうに口元を緩めた。
「だからね、カナタちゃん。もう“お気に入り”レベルじゃないの。あなたはあたしの“推し”! 特等席にいるってことよ、光栄に思いなさい♪」
わざとらしく胸に手を当てて言い切る優ちゃん。その芝居がかった態度に、私も思わず笑ってしまう。
一方でカナタはというと、まるで頭の中で“推し”という単語を何度も分解しては組み直しているみたいに、表情が固まったまま動かない。
『……光栄に……思うべき……なのかな?』
ものすごく真面目に考え込んだ声色に、私と優ちゃんはつい顔を見合わせ、小さく噴き出してしまった。
「カナタちゃん、真に受けなくていいのよ〜。でも、推しってのはね、単なる“お気に入り”よりもずっと特別。だから安心しなさい、あたしはあなたの一番のファンなの♪」
優ちゃんがそう言ってヒラヒラと手を振ると、カナタはさらに混乱したように目を瞬かせた。
普段の冷静さはどこへやら、珍しく子どもっぽい反応に見えて、私は胸の奥が少し温かくなる。
(カナタがこうやって翻弄されるの、ちょっと新鮮かも)
新鮮なカナタを心の中で少し楽しんでいたら、詩乃ちゃんと芽依ちゃんが私たちのところへやって来た。
「あらっ、晶ちゃんは? もうお話はいいの?」
優ちゃんが首を傾げて尋ねる。その声色は軽いけど、晶くんを“ちゃん”付けで呼んでいる時点で、どうやら優ちゃんの中では“お気に入り”の部類に入っているらしい。
お眼鏡にはかなわなかったと言っていたけど、やっぱり何か感じるものはあったのだろう。
「晶くんはクラスの人に呼ばれて、そっちに行ったよ」
「お話も、もういっぱいしたから大丈夫っ」
芽依ちゃんと詩乃ちゃんが順番に答える。ふたりの顔にはそれぞれに余韻のようなものが残っていて、言葉の奥に含みを感じさせた。
「晶くんって……どんな人だった?」
私はまだほとんど話していなかったから、素直に気になって尋ねてみる。
すると、詩乃ちゃんが少し首を傾げながら言った。思い返すように眉を寄せて、言葉を探している。
「うーん……ひたすらに優しい感じだけど『あぁ、この人、本心で話してないなぁ』って思ったかなぁ」
「あっ、それは少し思ったっ。悪い人ではないんだろうけど、『こう言われたら嬉しいでしょ?』って感じで話してるなって思った」
芽依ちゃんも、同じ印象を持ったようで、少し困ったように笑いながら続ける。ふたりの言葉は不思議なほど揃っていて、まるで鏡を覗き込むみたいだった。
それを聞いて優ちゃんは軽く片眉を上げ、すぐに納得したように頷いた。
「そうそう、あの人は“人を喜ばせるために生きてる”タイプよね」
優ちゃんが少し心配するような声色で言った。私はその言葉を聞きながら、晶くんの柔らかい笑顔や周囲を自然に和ませる雰囲気を思い浮かべていた。
確かに悪意はないけど、計算された優しさの裏に何か狡猾さを感じるのも事実だ。
「でも、悪い人じゃないのは間違いないよね」
詩乃ちゃんが小さく頷きながら付け加える。その顔は安心したような柔らかさを帯びていた。芽依ちゃんも同意するように目を細めて頷く。
私はそんなふたりを見て、少しだけ微笑む。晶くんの人たらしぶりに振り回されつつも、その場の空気を温かくする力は確かにあるのだと改めて感じた。
「……まぁ、あたしたちの周りは賑やかだから、晶くんも楽しんでたんじゃない?」
優ちゃんがクスリと笑う。目の端にほんの少しだけ、揶揄うような光が宿っている。そんなちょっとした会話のやり取りだけでも、温かい空気が広がっていくのを感じた。
私たちは笑い声を交わしながら、学園へと向かって歩き出した。その小さな日常の一コマが、ほんの少し特別に感じられた。
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