17
「ラン様って、七賢者の中でも、本当に姿を見せない方だよね」
京司先輩が、ふと思い出したようにそう言った。
「俺たち、四歳の時に一度だけお目にかかったらしいんだけど……さすがに覚えてなくてさ」
そう言いながら、京司先輩は少し首をかしげて、記憶を探るような仕草をした。その間に、隣にいた京香副寮長がふわりと口を開いた。
「一応、噂だけどね。『従者』がいらっしゃらないからだって言われてるの。情報としては、まあまあ有力みたいよ」
「……従者?」
詩乃ちゃんが反応すると、京司先輩が頷いた。
「そう。賢者の側近っていうか……お世話したり、護衛したり。実際は、仕事の補佐もする秘書みたいな役割が多いらしいんだけどね」
“従者”———
それぞれの賢者の“色”に合わせて、“◯色の従者”と呼ばれている存在。私も、お父さんから名前だけは聞いたことがある。
でも……ラン様には、従者がいない。
(藍の賢者は、危機管理担当なんだよね……)
もしかしたら、他の賢者たちよりも危ない場面に関わることが多くて、だから簡単に護衛なんて就けられないのか……
もしくは、危険だからこそ、従者の護衛がいないから表に出られないのか……
あるいは、護衛が必要ないくらい、自分の力で全部こなせてしまうからなのか……
私は、何となく胸の奥が冷んやりとするような不思議な感覚を覚えた。
藍の賢者。ラン様——
きっと、私たちがまだ知らない“何か”を、その背中にたくさん背負っている人なんだ——。
「えっ、でも……ラン様って、授業の先生で来てくれるんですよね?」
芽依ちゃんが、小首を傾げながら尋ねる。
すると、京香副寮長は頷いた後、ほんの少しだけ声の調子を下げて言った。
「他の賢者の方々は、学園に来て、実際に教壇に立ってくださるよ。でも……ラン様だけは別。いつも『向こう側』からの授業になるの」
「向こう側……?」
私たちが思わず同じように首を傾げると、京司先輩が軽く笑った。
「って言っても、ただの遠隔授業だよ。画面越しってこと。でもね、それでも、空気が変わるんだ。言葉にし辛いけど……教室の空気が、ふっと静かになるというか」
「「へぇ〜……」」
私たちは声を揃えたけど、どこか腑に落ちない気持ちが残った。
ただ画面の向こうにいるのに、空気が変わるって……。
私はふと、目を閉じたくなった。ラン様という人物の輪郭が、返って曖昧になっていくような不思議な感覚。
姿を見せない。従者もいない。
だけど遠くからでもその存在を届けられる。
存在しているのに、確かにそこにいるのに、触れようとした瞬間、ふっと消えてしまいそうな……。
そんな、夢の端っこにいるみたいな存在。
——まるで、現実に溶けた幻のような人。
その存在の輪郭が曖昧である程に、逆にこっちの意識は深く惹かれてしまう……。
私は、ぼんやりと考えていた。
遠くにいるのに、言葉が届いてくる。
姿は見えないのに、心に残るものがある。
(……言葉って、届き方で全然違うんだなぁ)
ふと、胸の奥が静かに震えた。
さっきの演劇でも感じた“言葉じゃない何か”が、今自分の中でかすかに共鳴した。
——ねぇ、カナタ。
私は、胸の奥にそっと語りかける。
声には出していない。でも、その名前を心に浮かべた瞬間、不思議と意識の奥がふわりと揺れた。
(……今なら、届く気がする)
ただ、話したかった。
言葉じゃなくて、“気持ち”で。
さっきまでの不思議な話や、あの演劇の余韻が、心のどこかを静かに開いてくれたような気がしていた。
私は、詩乃ちゃんに声をかけようとしたけど、楽しそうにみんなと話し込んでいた。
(勝手にいなくなるのは、ダメだよね……)
迷いながら周りを見渡すと、ふと京香副寮長と目が合った。
その視線に、私は少しだけ勇気をもらって、京香副寮長まで歩く。
そして、小さく声を落として耳元で伝えた。
「すみません、少しだけ席を外してもいいですか……?」
京香副寮長は、すぐに私の顔を覗き込んだ。
「あらっ、体調でも悪いの?」
その声に、私は慌てて首を横に振る。
「あ、いえっ……ちょっとだけ、他の寮の子と……菊理で話したくなって……」
伝えながら、自分で言った言葉に少しだけ顔が熱くなる。何だか、少し照れくさかった。
京香副寮長は、私の言葉にふっと安心したような微笑みを浮かべた。
「そう? それならよかったっ。もう玄関扉は閉めちゃってるけど……中庭なら静かだし、お話しするにはちょうどいい場所よ」
その声には、どこか見守るような優しさが滲んでいた。
「そうなんですねっ。ありがとうございます、行ってきます」
私は軽く頭を下げてお礼を言うと、目立たないように気を付けながら、大広間をそっと後にした。
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一階に降りて、私は中庭へ続く入口を探して歩き出す。
ロビーを抜けて、食堂を通り過ぎたその先、談話室に出ると、ガラス張りの景色の向こうに中庭が広がっていた。
夜の闇に包まれたその空間の中心に、立派な梅の木が静かに立っていた。
昼前にエレベーターホールから眺めたものと違って、魔法で淡く光る花びらが、まるで空気の中で浮かんでいるように見える。花一つ一つが、そっと光を灯しているようで、辺りは幻想的な雰囲気に包まれていた。
中庭へ続くガラスの扉をそっと開いた。すると、ふわりと鼻先をかすめたのは、梅の花の優しい香りだった。ほんの少し冷たい夜の空気と一緒に流れてきて、思わず深呼吸したくなる。
私は辺りを見渡しながらゆっくりと歩いて、中庭の片隅に置かれていたベンチに腰を下ろす。
木の優しい温もりと、アイアンでできた猫足の装飾。可愛らしさの中に、どこか落ち着く雰囲気があるベンチだった。
私は、胸元にかかる菊理をそっと外す。
手の平に乗せて、魔法石を二回タップして静かに目を閉じる。さっきのように、カナタのことを心の中でゆっくりと思い浮かべた。
二度目の呼びかけ。それなのに、胸の奥がまたざわついてくる。何だろう、落ち着かない。
だけど、嫌な感じじゃなかった。
そしてそっと、カナタの名前を呟いた。
(今度は出てくれるかな……? 歓迎会で忙しいかな……?)
ドキドキしながら、菊理の魔法石が強く光り出すのを待つ。
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(ん〜……やっぱり忙しいか……)
さっき程は待っていないけど、それでも今はやっぱり出られないのかもしれないなって、自然と思ってしまうくらいの時間が過ぎていた。
(忙しいのに、ずっと呼び出してるのは悪いな)
そう思って、菊理の通信を切ろうとしたその時——
[——莉愛っ!]
「へぁっ!?」
菊理の魔法石が強く光ったと同時に、カナタの声が聞こえて来た。思わず肩を跳ねさせて、間の抜けた声が口から溢れる。
「び、びっくりしたぁ……」
[あっ、ごめん。話せる場所まで走ってたから、つい勢いで……]
菊理の向こうから、少し息を切らせたカナタの声が返ってくる。
「あ……そうだったんだ。わざわざ出てくれたんだ。……ごめんね。歓迎会の最中だったでしょ……?」
少し申し訳なさそうに問いかけると、通信の向こうから、ふっと安堵したような声が返ってきた。
[もう終わるところだったから、平気だよ]
カナタの声は、息を切らせながらもどこか楽しげで、聞いているうちに、私の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
「……あの、……昼間にも私、連絡しちゃってたんだけど、忙しかった?」
小さな声でそう尋ねると、ほんの少し間を置いてカナタが答えた。
[えっと…………うん、ちょっとだけ、忙しかった……かな]
(やっぱり、忙しかったんだ……)
胸の奥が、きゅっとなった。申し訳なさが募って、思わず言葉が出る。
「ごめんなさい。しつこくしちゃって……」
するとすぐに、カナタの声が慌てたように跳ねた。
[えっ、いや、違うよ! 全然迷惑じゃなかったし……連絡、嬉しかった。ありがとう]
その言葉に、胸のキュッとした痛みが、そっと解けていくのを感じた。
私は、抑えていた気持ちが溢れるように、ぽつぽつと話した。
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