01
「お母さん! 明日は駅まで、お父さんとお母さんと行くんだっけ?」
私がそう声を弾ませると、お母さんはニコッと笑って頷いた。
「そうよぉ。利玖は今日、学園に戻っちゃうからね」
「そうだった、そうだったっ!」
私は両手を打って、ようやく思い出したように声を上げる。
明日は天律学園の入学式。遂に、新しい生活が始まる。
荷物はもう数日前に先に送ってあって、あとは私自身が向かうだけ。制服もきちんと準備したし、必要な書類も鞄に入れた。
「莉愛、あんまりはしゃぎすぎて、熱出さないようにな」
ソファに深く腰を沈めた利玖が、僅かに笑いながらコーヒーを口に運ぶ。
「大丈夫だよっ!」
生徒会の役員は、春休みはほとんど帰省できないらしい。入学準備や新学期の手配で、学園に缶詰になっていることが多いのだと前に利玖が話していた。
だけど「妹が入学するから」って利玖は春休みの後半だけ、無理を言って帰ってきてくれていた。
私が迷わないように、困らないように。何度も丁寧に説明してくれて、制服の着こなし方から持ち物の確認、心配事まで、ひとつひとつ真剣に聞いてくれた。
「大丈夫だよ」って笑ってくれるその顔が、心強くて嬉しかった。
入学は私にとって大きな節目だけど、それをちゃんと誰かが一緒に歩いてくれていると思うと、ほんの少しだけ、心の重荷が軽くなる気がする。
「さて、俺はそろそろ行かないとな」
コーヒーを飲み終わった利玖が腰を上げたのは、午後のまだ早い時間——時計の針は十四時半を指していた。夕方にはまだ少し間があるけど、利玖にとってはもう出発の時刻だった。
「あら、もう行っちゃうの?」
名残惜しそうに声をかけたお母さんに、利玖はコーヒーカップを持ってキッチンへ向かいながら、肩をすくめて笑って見せる。
「これでも生徒会役員だからね。明日の準備もしないとさ」
「しっかり者だ〜!」
思わず私がそう言うと、利玖は軽く笑った。
いつもは、ちょっと抜けてたり、茶化してきたり、そんなところもあるけど——やる時はきちんとやる、頼れる人だ。
「莉愛、明日持って行くものはもう鞄に入ってる。制服も掛けてあるから、あとは羽織紐を忘れないようにな」
「はーいっ!」
「うむっ! いい返事だ。明日忘れたら、大笑いしてやるからな」
そう言って指差してくる利玖に、私は小さく笑い返して、絶対に忘れないように、私は毎朝必ず見る場所を思い浮かべた。
自分の部屋の勉強机。
リビングのライティングデスク。
洗面所の鏡の前。
玄関の靴箱。
(うーん。どこだろう……)
やっぱり、髪を整えて、羽織の衿を直して、心を整えるその場所に、そっと置いておこう。
明日、新しい一歩を踏み出すその時も、ちゃんと一緒に歩いていけるように。
学園から持ち帰ってきた荷物を、利玖は手際よくまとめていた。といっても、中身は着替えといくつかの書類くらいで、大きな鞄ではなかった。
茶色の革張りの小さめのトランクに、松葉色で魔力刺繍で校章があしらわれた、使い慣れた学園指定の旅行鞄だ。
「渡鴉便呼んだから、もう少し待っててね」
お母さんがダイニングから、利玖に声をかけた。
渡鴉便は、飛行義体の郵便配送サービスのこと。渡鴉を模した黒鉄の魔械機器が、羽ばたくように空を駆けて荷物を届けてくれる。
今ではどの街でも一般的な配送手段だが、それでもあの独特な羽音と影が空に見える度に、少し胸がときめいてしまう。
「ありがとう!」
利玖は振り返り、軽く手を上げて笑った。その表情はどこか晴れやかで、大人びて見えた。
「莉愛。中等部楽しみ? 他に不安なこと、ない?」
利玖の声が、不意に真面目な色を帯びた。いつもの冗談混じりの口調とは違って、今は真っ直ぐに私の目を見て尋ねている。
「うーん……楽しみ半分、不安半分、かなぁ?」
そう答えると、利玖はふっと優しく笑った。
「そっか。じゃあ、他に聞きたいことは? もう無い?」
「ん〜……もういっぱい聞いたからなぁ……」
言いながら、私は少しだけ考えてから、ふと胸の奥に引っかかっていたものを口にした。
「……じゃあ、……友達、できるかなぁ?」
利玖はキョトンとした顔になったが、すぐに目を細めて笑った。
「ん? カナタや、詩乃ちゃん? だっけ。いるじゃん、もう」
「そうだけど……」
言葉を濁しながら、私は視線を落とした。
今、私の周りにはちゃんと友達がいる。でも、中等部になったら、空中大陸中の同い年の子たちが集まってくる。クラスも寮もバラバラになるし、詩乃ちゃんやカナタだって、もっと気が合う子に出会うかもしれない。
そう思うと、ちょっとだけ、怖かった。
「莉愛、“友達100人できるかな”何て歌があるけどさ、本当に心を許せる友達が、ひとりでもいればいいんだよ」
「でも……クラスや寮が離れちゃって、全然会えなかったら?」
その言葉に利玖はちょっとだけ首を傾げて、クスッと笑った。
「んー……莉愛はさ、俺とカナタの関係とか、どう思う?」
「え?」
突然の問いかけに、私は少し驚いた。けどすぐに思い出す。
保育所に通っていた時に、緑の教会の図書室で出会った私とカナタ。土日にお母さんが仕事の時は、利玖も一緒に保育所に行った時、私を通して自然と二人は知り合った。
年齢も違うのに、まるで同い年の友達みたいに、気が合っていて——
「そうだなぁ……私の方が、カナタといっぱい一緒にいるのに、同じくらい仲良い感じがする」
「だろ?」
利玖は得意げに笑った。
「会ってない時なんて、関係ないんだよ。久し振りに会っても『よっ』の一言で済むし、当然話だって弾む。それってつまり、俺たちがそんなんで無くなるような仲じゃないってことだろ」
その言葉は、ポッと胸に灯るようだった。そうだ。離れることが、全てを壊すわけじゃない。ちゃんと繋がっていれば、また直ぐに、笑い合える。
利玖の言葉が胸にじんわりと染みて、私は小さく息をついた。
「……そっか。そっかぁ……」
頷きながら、自分でも気付かないうちに笑っていた。
不安が消えたわけじゃない。でも、利玖が言ったようにちゃんと繋がっていられるなら、きっと大丈夫。そう思えた。
「ま、何かあったら、これからは俺もいるし気軽に連絡してこいよ。カナタと詩乃ちゃんて子にも、言っといてもいいんじゃない?」
「うん、自分で言うよ。ちゃんと」
「おっ、偉い偉い」
利玖はまた、いつもの調子で頭をポンポンと撫でてきた。くすぐったくて、少し照れくさくて、でもなんだか嬉しい。
するとその時、リビングの窓をトントンッと叩く音がした。私と利玖は同時に音のする方へ振り向いた。
窓の外には、機械仕掛けの濡羽色の渡鴉が魔法石が嵌め込まれた鋭い眼でこちらを見ていた。
私たちが気付いたのを確認すると、渡鴉は一度大きく羽ばたいた。どうやら玄関前で待ってくれているらしい。これが“渡鴉便”のやり方。本物の渡鴉みたいに賢い動き。
「さてと、それじゃあ渡鴉便も来たし、そろそろ行くかな」
利玖がそう言って、茶色のトランクを手に持ちショルダーバッグを肩にかける。
私はお母さんへ渡鴉便が来たことを知らせて、一緒に玄関へ向かった。
玄関の扉を開けると、渡鴉はすでに玄関前の渡鴉便用の留まり木に立っていた。
利玖が鞄を手渡すと、渡鴉は足の部分をカシャリと変形させ鞄の取手を巧みに固定する。利玖が荷物の固定を確認して少し離れると、濡羽色の大きな翼を広げ風を巻き起こして宙へと舞い上がった。
荷物を携え、渡鴉便はあっという間に空の彼方へと消えていく。
「それじゃあ、行ってきます、母さん」
「行ってらっしゃい。体に気をつけてね。……莉愛を、よろしくね」
そう言ってお母さんと利玖は、ギュッと抱きしめ合った。
驚いた。中等部の頃の利玖なら、こんなことしなかった。だけど今は、お母さんよりも頭ひとつ分背が高くなった利玖が、まるでそれが当たり前のようにお母さんを包み込んでいた。
その姿がとても大人っぽく見えて、私は思わずポカンとしてしまった。
(……私もしなきゃ、かな?)
何となくそんな気持ちになって、私は両手をパッと広げてみた。
それに気付いたお母さんが、クスッと笑う。お母さんの笑い声に反応するように、利玖も振り返って私を見て同じように笑った。
「はいよ。人気者は大変だ」
そう言ってクスクス笑いながら、利玖は私をそっと抱きしめてくれた。
その腕の中は、温かくて懐かしかった。
昔、利玖の友達と会った時、恥ずかしくて利玖の後ろに隠れてしがみついていたあの頃をふと思い出す。
利玖の匂いも、温かさも、背は大きくなったけど変わっていなかった。
温もりが離れると、利玖は私の頭に手を乗せて、優しく撫でてくれる。
「明日、正門の前で迎えてやるからな。羽織紐、忘れるなよっ」
それは、ちょっとお兄ちゃんっぽくて、でもいつもみたいに軽やかで、私の胸をまた少しだけ強くしてくれる言葉だった。
「はーいっ!」
胸の奥がじんわりと温かくなる。その余韻のまま利玖が歩き出すのを見て、私はお母さんと並んで立ち手を振った。
「行ってらっしゃい!」
私の声に合わせてお母さんもにこやかに手を振る。利玖は振り返りざまに、軽く片手を上げて応えた。
いつもの、あの飄々とした笑顔。だけど、それが少しだけ大人びて見えた。
お母さんと家に入り、扉が閉まると静けさが戻る。でも心はどこか浮き立っていた。
明日から、私は中等部の一年生。新しい制服に袖を通して、新しい日々を歩き始める。
カナタと、詩乃ちゃんと、そしてまだ出会っていない誰かと。私は私の一歩をちゃんと踏み出すんだ。
窓の外には、春の風に乗って、桜の花弁がまたひとひら、くるりと舞っていた。
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