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08

 驚きの余韻がまだ教室の空気を支配していた。


 クラスメイトたちは口を半開きにしたまま硬直し、お母さんたちも、ただ呆然と立ち尽くしていた。まるで現実と夢の間に取り残されたような、そんな沈黙が流れる。


 その静かな空間を現実へ引き戻したのは、ゆっくりと開く教室の扉を開けた先生だった。


 袴姿の先生が入ってきた瞬間、今私たちは卒業の日だったことを思い出した。


 前に立った先生の目元は、ほんのり赤く滲んでいるように見えた。


「お待たせしました。……それでは、…..最後の学活をしたいと思います」


 “最後の学活”


 その言葉に、教室の空気がふっと張りつめた。ざわざわと心が揺れて、言葉にならない思いが胸の奥で波打つ。


 本当に、これでおしまいなんだ——その実感が、ようやくみんなに降りてきた。


「先生、昨日フライングしていろいろ喋っちゃったので、今日は何を話そうかずっと悩んでいたんです。でも……やっぱり、みんなには、感謝しかありません」


 先生は静かに目を閉じて、少しだけ微笑んだ。その表情は、過ぎ去った日々を胸の中で辿っているように見えた。


「実は先生、一年生から六年生まで担任を続けられたのは、みんなが初めてなんです。産休や育休で、途中の学年を受け持ったことはあります。でも…本当に、一から卒業まで見届けたのは、初めてでした」


 声は時々かすれながら、真っ直ぐ私たちに向けられていた。


「だから、毎年毎日、たくさん悩みました。落ち込んで、不安で……。それでも、みんながいてくれたから、前を向けました」


「みんなは、優しくて、強くて、やんちゃで……時にはぶつかったこともあったけど、私はそんなみんなが大好きです。……私は……まだまだ未熟な教師です。でも……そんな私を、みんなが支えてくれました」


 抑えていた感情が、先生の瞳から零れ落ちる。教室のあちこちから、啜り泣く声が静かに広がっていく。


 私の目にも、涙が溢れてた。


 それでも、先生は最後まで言葉を止めなかった。


「私を……みんなの先生にさせてくれて……ありがとうございました」


 先生が、教卓にぶつかってしまうのではないかと思うほど深々と頭を下げた、その瞬間だった。


 教室の空気が、ふわりと柔らかく、だけど胸の奥がきゅっと締めつけられるような、温かくて切ない何かで満たされていくのを感じた。


 誰もがそれを言葉にはしなかった。ただ、心の波紋が、ひとつになって広がっていた。


 静かに啜る泣き声の中から、一際大きな声が飛ぶ。


「……穂花(ほのか)先生ぇっ」


 泣きながら叫んだのは、誰だったろう。だけど、そのひと声が合図のようになって、クラス中に感謝の声が溢れ出した。


「先生っ! ありがとうございましたっ!」


穂花(ほのか)先生、大好きっ!」


 それぞれの想いを乗せて、クラスメイトたちが叫ぶ。その声は震えていて、それでも真っ直ぐで、どこまでも本物だった。


 穂花(ほのか)先生は驚いた顔で私たちを見ると、目元を何度も拭いながら、小さく何度も頷いていた。


「…….名前は呼ばないって約束でしょ」


 そう言った穂花(ほのか)先生は、笑っていた。


 私たちが五年生になった時、先生は「先生を名前で呼ぶのは、もうやめよう」と言った。


「今までは友達のような距離感でもよかったけど、中等部に上がると、先生と生徒の線引きをきちんとしなければならない」———そう言って、私たちに距離を教えてくれた。


 だけど今、この教室には、もう線なんて残っていなかった。名前で呼ばれることを、きっと先生も、嬉しいと思ってくれている。


 だって、私たちの「ありがとう」は、ちゃんと先生に届いているんだから。


 ふと、カナタのことが気になって、私はそっと後ろを振り返った。カナタは、先生のことをジッと見つめていた。


 その視線から、先生への感謝の気持ちが見えた。


 穂花(ほのか)先生は、カナタが拓斗の取り巻きたちに嫌なちょっかいを出されていた時、いつもきちんと気付いて、止めてくれる人だった。


 ただ注意するだけじゃなくて、相手にも真剣に向き合って叱ってくれる先生だった。しばらくすると取り巻きは、カナタに直接は手を出さなくなった。


 少しでも、カナタの学校生活が穏やかであってほしいと、先生は本気で思ってくれていたんだと思う。


 それが、カナタにもちゃんと伝わっていたんだ。だから今、カナタはこんなふうに、しっかりと穂花(ほのか)先生を見つめているんだ。


 私はそっと視線を前に戻した。クラスメイトたちはみんな、穂花(ほのか)先生の方を見つめている。何人かは席を立ち、堪えきれずに先生に駆け寄っていた。


 抱きつく子たちを、先生は驚いたように一瞬目を見開いた後、泣き笑いの表情で迎え入れた。温かく、ひとりひとりの頭をそっと撫でる。


 その手は、きっと誰よりも優しくて、頼もしくて、最後まで先生でいてくれる手だった。


 教室の空気が、温かく揺れている。感謝と別れが重なって、言葉ではもう言い表せない何かが、みんなの胸に溢れていた。


 その様子をを見守る後ろのお母さんたちは、ハンカチで目元を拭いていた。声を立てずに、そっと涙を拭う姿。


 私たちの成長と、先生との絆に心を打たれているのが、よく分かる。


 この教室にいる全員が、同じ想いを共有している。


 別れは寂しいけれど、それだけ大切な時間を過ごした証でもあるのだと、私は自分の涙を拭きながら思った。


 みんなが落ち着くと、先生は席を立った子に座るように言い、もう一度、深く深く頭を下げた。


「……それでは、これで最後の学活を終わります。……日直、号令をお願いします」


 そう言う声は少し震えていて、それでも精一杯、明るく言おうとしてくれていた。


 今日、最後の日直の子が、涙を拭きながら号令を始める。



「起立っ!」


「気をつけ、礼っ!」


「「「「ありがとうございましたっ!!!」」」」



 最後の号令が終わり、後ろにいるお母さんたちと、廊下のお父さんや家族の人が、拍手をくれた。


 私たちへの“おめでとう”の意味と、穂花(ほのか)先生へ向けた“ありがとう”の意味が込もった拍手。


「……それじゃあ……みんな、気を付けて帰ってね」


 先生の挨拶の後、自然とみんな順番に、それぞれのお母さんと一緒に先生の元へ向かう。


「ありがとうございました」


「お元気で」


「こらからも、頑張ってくださいね」


 お母さんたちが口々に声をかける。その言葉には、六年間の感謝と、穂花(ほのか)先生への深い敬意が滲んでいた。


 先生は、少し目を潤ませながらも、最後まで笑顔を絶やさずに、ひとりひとりに向き合った。何度も頭を下げながら、丁寧に応える。


「こちらこそ……本当にありがとうございました」


「お子さんたち、とても素直で素敵でした」


 その姿を見ていると、この教室のすべての時間が、確かに愛情の中にあったのだと実感する。


 私とカナタも、お母さんと一緒にゆっくりと先生のところへ向かった。声はかけなくても、周りの友達が自然と道を開けてくれる。


穂花(ほのか)先生、本当にありがとうございました」


 お母さんがそう言うと、先生は笑顔で頭を下げてから、少しお母さんと喋った後、少し涙ぐんだまま、笑って私の肩に手を置いてくれる。


「莉愛ちゃん。中等部でも、莉愛ちゃんらしくね。自分の気持ち、大事にしてね」


「はい……」


 潤む涙を止めることはできないけど、精一杯の笑顔で返事をする。


 そして、カナタの番。カナタは、少し目を逸らしながらも、しっかりと頭を下げた。


『……ありがとうございました』


 それだけを言うと、先生はそっと微笑んで、何も言わずにカナタの肩をポンと叩いた。


 言葉なんてなくても、気持ちは伝わっている。そういう関係が、ここにちゃんとあった。


 教室を出ると、廊下では、他の保護者や友達の声が飛び交っていた。お父さんと利玖が、私たちを手招いているから、そっちへ向かう。


「お疲れ様。……とても良い先生なんだね」


 お父さんが嬉しそうに私に聞いてくる。


「うんっ、大好きなの!」


 私は飛び切りの笑顔で答えた。


「まさかリョク様が来てくださるなんてな。良かったな、カナタ」


 利玖が感心したように声をかけると、カナタは軽く肩をすくめて答えた。


『まぁ……うん』


 毎日顔を合わせているからだろうか、特別な感慨はないらしい。その反応があまりにも自然で、返って彼らの距離の近さが際立って見えた。


「この後はどうするの?」


「ご飯を食べに行こうかと思ってるんだ。カナタ君も、一緒にどうだい?」


 その言葉に、私は嬉しさを隠しきれず、すぐにカナタへ向き直る。


「カナタっ! 行こうっ!」


 当然一緒に行けると思っていた。

 だから、次の言葉に、心の底から驚かされた。


『ごめん、今日はこの後、用事があるんだ』


「えーっ!……」


 想像もしていなかった返答に、思わず落胆の声が漏れた。自分でも情けないと思うほど、はっきりと、がっかりした声だった。


「そうか……それじゃあ、しょうがないね。じゃあ、次に会うのは、入学式かな?」


 お父さん笑って言うと、カナタは少し俯いて、申し訳なさそうに頭を下げた。


『すみません、誘っていただいたのに……』


「じゃあさ、せめて校門の所で、一緒に写真を撮らないかい?」


 お父さんの提案に、私はすぐさま身を乗り出して頷いた。


「うんっ! カナタ、一緒に撮ろうっ!」


 カナタは一瞬だけ戸惑ったように私を見て、それから、ふっと微笑んだ。


『……うん、ありがとう』


「俺、ちょっと雷斗先生に挨拶してくるから、先に行ってて」


 利玖がそう言って手を振ると、職員室の方に歩いて行ってしまった。


「それじゃあ、行こうか」


 お父さんの声に、私は隣にいるカナタと視線を交わす。静かに、でも確かに、通じ合うような一瞬のまなざし。


 私たちは揃って、教室に振り返った。


 今まで何度も過ごしてきた教室。笑って、怒って、泣いて、時には立ち尽くして。それでも、毎日を重ねてきた場所。


 もう二度と、ここに通うことはないのだと思うと、胸の奥がキュッと締めつけられる。


 それでも、寂しさだけじゃなかった。ありがとう、という気持ちが、ちゃんとそこにあった。


「うん」


 私はお父さんにそう返事をし、カナタも静かに頷いて、私たちは教室を後にした。


この物語に触れてくださり、ありがとうございます。

もし少しでも心に残る瞬間がありましたら、ブックマークやレビューで、この世界を広げるお手伝いをいただけると嬉しいです。

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