06
廊下を歩いていると、他のクラスの友達とすれ違い様に手を張り合ったり、小さく笑い合ったりした。
だけどその度に、やっぱりカナタの姿はどこにも見えなくて、胸の奥が静かにざわついた。
——きっと遅れてるだけ。そう自分に言い聞かせながら、私は体育準備室に向かった。
体育館へ続く渡り廊下に出ると、目の前に広がる空は雲ひとつなく澄みきっていて、春の陽射しが優しく降り注いでいた。
まだ誰もいない準備室に、私が一番乗りかな?そんなことを思いながら角を曲がると——
その先に、中等部の制服を着た三人の姿が見えた。
そして、その中のひとりと、視線が重なる。
見慣れた黒髪が、春の日差しを受けてほんのりと緑がかった光を帯びていた。少し吊り気味で、鋭くもどこか物憂げな眼差しだけど、優しさを含ませた目元。そして、無機質な黒い鉄のマスク。
「カナタっ!」
自然と声が溢れて、私は思わず駆け足になっていた。
「ん? あ、莉愛だ」
「ほんとだっ、おはよ〜!」
その場にいたもう二人も、私の声に気付いてにこやかに挨拶してくれる。
「おはよっ!」
『おはよ』
私は手を振りながら笑って返す。心が一気にほどけていくのを感じた。カナタも短く返事をしてくれた。
その一言が、嬉しくて。会えた喜びと、さっきまでの不安と、駆け足で近付いたせいとが一緒になって、心臓がドキドキしていた。
「教室にいないから、ビックリしたよ! 三人共、どうしたの?」
私が尋ねると、カナタの隣にいた子が、肩をすくめて言った。
「いや〜、珍しくリョク様の支度が遅れてさ〜」
「ね。うちらはいつも通りに、準備終わってたんだけどね」
もうひとりもそう付け加えてくれて、ようやく胸を撫で下ろした。何かあったわけではないようだった。
「事故でもあったのかって、心配しちゃったよ〜。あ、そうだ、八時五十分までに体育準備室集合だって! なるべくクラスでまとまっててくださいって」
「そっか。じゃあ行こうか」
「先に行ってるね〜」
二人は手を振って、軽やかに歩いて行ってしまった。その瞬間、私とカナタだけが、渡り廊下に取り残される。
カナタと目が合った。私と同じ羽織にワイシャツ、ダークグレーのスラックスに黒い革靴。いつもより少し背筋が伸びて見えるその姿に、胸の奥がキュンと鳴る。こんなふうにドキドキするのは初めてかもしれない。
それを誤魔化すように、私はお父さんとお母さんに見せたみたいに、くるりと二回、軽やかに回ってみせた。袖がふわりと揺れて、制服姿を少し誇らしく見せる。
「どう?似合ってる?みんな大人っぽいって言ってくれたんだっ!」
自分から言っておきながら、言葉に少しだけ照れが滲んだ。
カナタは、目元を柔らかく緩めて、ふわっと微笑んだ。
『うん、とても似合ってるよ』
機械混じりの声で褒めてくれる。その一言が、何だか一番嬉しくて、私はますます胸がくすぐったくなる。だから余計に、口が勝手にたくさん動いてしまった。
「知ってる? この羽織って、高等部を卒業しても着るんだって! それでね、成年登証試験に受かったら、振袖みたいなここの部分を短くするんだって!」
私は羽織の袖を軽く持ち上げて、得意げに見せた。
カナタは優しい目をして、うん、うんと頷きながら、私の話を逃さずちゃんと聞いてくれている。それがすごく嬉しくて、私はもっと話したくなった。
「あとね、中等部からはクラスの他に、十二個も寮があるんだって! それぞれの寮で暮らすんだよ! 利玖は睦月寮ってところなんだって! 私たちは、何になるんだろうね?」
カナタは少し考えるように首を傾げてから、私に向かってゆっくり言った。
『十二寮か……莉愛と同じなら、楽しいんだろうな』
その言葉に、胸がぽんっと跳ねた気がした。嬉しくて、でもちょっと恥ずかしくて、私は思わず笑ってごまかす。
「えへへ、本当? 実は私もそう思ってたんだっ」
そう言うと、カナタは嬉しそうに笑った。
『でも、どの寮でも、莉愛ならきっとすぐ馴染めるよ』
カナタのその言葉は、風みたいに優しくて、胸の中にふわりと広がった。
「そうかなぁ、そうだといいなぁ」
私はそう言いながら、中等部での暮らしを想像した。
制服を着て、見慣れない部屋で、まだ知らない友達と笑い合ってる自分。朝は一緒に登校して、夜はこっそりお菓子を摘んで——そんな毎日が、本当に始まるんだって、ちょっと不思議で、でも楽しみで堪らなかった。
そうしているうちに、後ろからポツポツと、他の卒業生たちの足音が聞こえてきた。
『行こうか』
カナタが静かに声をかけてくれて、私は頷いて一緒に歩き出した。並んで歩く足音がぴったり合っていて、それが妙に嬉しくて、心の中で小さく笑う。
体育館横の準備室が見えてきた。元は倉庫として作られたらしいけれど、今は簡単なトレーニングもできるくらいに広くて、ほとんど何も置かれていない。
私たちの学年二五〇人の卒業生が、窮屈にならずに入れるくらいの、ちょうどいい広さ。
中に入ると、さっきの二人が窓の外を見ながらお喋りしていた。私とカナタは壁際に並んで立ち、少し声を潜めながら、またいつものように、他愛ない話を始めた。
卒業式の前なのに、どこか落ち着くこの時間が、私はちょっとだけ好きだった。
しばらくすると、準備室の中にはだんだんと卒業生たちが揃ってきた。詩乃ちゃんたちもやって来て、私とカナタを見つけるなり目を丸くした。
「カナタくん、来てたのっ!?」
そんな声に、私は思わずクスッと笑ってしまう。制服姿のカナタは、やっぱりいつも通り落ち着いていて、周りの反応もどこか面白かった。
「違和感がないね」と、みんな口を揃えて言うその感想に、私もちょっとだけ笑ってしまった。
(まあ、それは秘密だけど)
そんな空気の中、準備室の扉が乱暴に大きな音を立てて開いた。ギリギリの時間に、拓斗とその取り巻きたちがぞろぞろと入ってきた。
目敏く私たちを見つけた拓斗は、すぐにカナタを鋭く睨みつける。
……まただ。どうして、そんなに敵意を向けるんだろう。カナタの何が、気に入らないの?
私は少しだけ不安になってカナタを見る。でも、カナタはまるで気付いていないように、いや、気付いていても気にしないように、腕を組んだまま壁に寄りかかり、静かに目線を逸らしたままだった。
その姿が少し頼もしくもあって、私は何も言わずに、カナタと同じように壁に寄りかかって、そっと隣に立ち続けた。
予定の時間より少し早く、六つのクラスの先生たちが次々と準備室に来た。私のクラスの先生もその中のひとりで、私たちの姿を見つけると、すぐに歩み寄ってくる。
「はい、まとまってますね。では先生を先頭に、男女で出席番号順に並んでください」
そう言いながら、先生は壁際へと移動した。
私は後ろの方、カナタは前の方。ここで一旦、別れのタイミング。小さく手を振ると、カナタも同じように小さく手を振り返して、静かに列の先頭へと歩いて行った。
全部のクラスが整列を終えると、卒業生入場のアナウンスが流れはじめる。一組から順に体育館へと向かっていき、列の最後の生徒が姿を消すと、担任がその後に続いた。
次はいよいよ、私たちの番だ。
体育館の扉をくぐると、ざわりと空気が変わった。保護者席の視線が一斉にこちらへ向けられる。
その中に、お母さんたちの姿を見つけた。そして、利玖はどうやら回復したらしい。
胸の奥がふっと軽くなって、思わず、微笑んでしまった。
卒業生全員が席に着くと、式が始まる。会場はしんと静まり返り、進行する先生の声と、体育館の床に響く足音しか聞こえない。
私たちは静かに椅子に座り、来賓の挨拶や校長先生の言葉を、背筋を伸ばして聞いた。
そして次にスピーチするのは、常盤町の象徴、緑の賢者、リョク様だった。
見た目は本当に私たちと変わらないけど、言い表せない凄みを感じる。お父さんの言っていたことが、少し分かった気がする。
「——今日、この日を迎えられたことを、心からお祝いします——」
少年のような、だけどどこか大人びた青年のような、不思議な声色だった。静まり返った体育館に、リョク様の言葉が柔らかく響く。
今日、支度に少し手間取ったって言ってたな。でも、どうしてだろう?
舞台の上で淡く光る羽織に袖を通したその姿は、いつも以上に立派で、だけどどこか儚げにも見えた。
スピーチが終わると、校長先生から卒業証書、そしてリョク様から羽織紐の授与が始まる。
名前を呼ばれた友達が、一人、また一人と壇上に上がって行く。
私は壇上にいる子をジッと見つめた。証書を受け取る時も、羽織紐を受け取る時も、その顔に浮かぶのは、それぞれ違う”今日だけの表情”。
カナタは、リョク様に何か声をかけられていたけれど、いつも通り無表情だった。
詩乃ちゃんは目元を潤ませながらも、真っ直ぐ前を向いていた。
拓斗は仏頂面のまま、ぶっきらぼうに羽織紐を受け取っていた。
みんな、今この時だけの姿。今この瞬間だけの、卒業の顔だった。
そして、自分の名前が呼ばれる。
「……はいっ!」
少し震える声で返事をして、立ち上がる。壇上へ向かう途中、お母さんが見えた。涙を堪えているような笑顔だった。
私は目頭が少し熱くなりながら、壇上へ上がる。
校長先生から卒業証書を受け取る。そしてリョク様の手には、黒色の皮のケースに入った淡い緑色の石の付いた羽織紐があった。パタンとリョク様が箱を閉じて、私にそっと渡してくれる。
「おめでとう。莉愛」
カナタと仲良くしているからか、私のことは認識してくれているようで、名前を呼んでくださった。
「ありがとうございますっ」
控えめな声で挨拶をして、ケースを受け取る。壇上を降りた先に、卒業証書を筒に入れるための場所に、雷斗先生がいた。雷斗先生に卒業証書を渡すと、丁寧に丸めて筒に入れてくれた。
「利玖、大丈夫そうだったな」
雷斗先生が、小声で私に話しかけて来た。心配してくれていたらしい。
「そぉっぽいですねっ」
私も小さく笑って小声で答える。二人でふふっと笑い合った。筒の蓋を閉めたら、丁寧に私に差し出してくれる。
「おめでとうございます」
「ありがとうございますっ」
そう言って受け取り、自分の席に着いた。あとは、呼びかけと合唱。
「別れの言葉」と題された呼びかけは、ひとつひとつの言葉が丁寧に紡がれ、声を重ねるたびに、誰かのすすり泣きが混じっていった。
そして歌。旅立ちを祝う歌の伴奏が、静かに鳴り始めると、もう涙を堪えきれない子たちもいた。
私も、一音一音に気持ちを込めて歌った。声が揃い、想いが重なって、体育館に響き渡る。
そして、退場の時間が来る。
先生の号令に従って立ち上がり、整列する。拍手の中を一歩ずつ進む。
保護者席の前を通る時、お母さんがそっと手を振っていたから、私も小さく手を振り返して、しっかりと前を向いた。
出口が近付くにつれて、“卒業する”という実感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
最初はふわりと、小さな泡のようだったのに、一歩毎にそれは確かな重みを持って広がっていった。
そして扉を潜って、渡り廊下に出ると——
眩しい光と、ほんの少し肌寒い風が、私たちを迎えた。春の匂いのする空気が、羽織の袖を揺らす。その一瞬、世界がキラキラと音もなく輝いて見えた。
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