新しい一歩——入学
「お母さん! 明日は駅まで、お父さんとお母さんと行くんだっけ?」
リビングへ駆け込むと、
ソファに座っていたお母さんが顔を上げた。
「そうよぉ。利玖は今日、学園に戻っちゃうからね」
「そうだった、そうだったっ!」
私はぱちんと両手を打つ。
明日は、天律学園の入学式。
ついに、新しい生活が始まる。
荷物は数日前に送ってある。
制服も書類も、必要なものはもう揃えた。
あとは、私が行くだけだ。
「莉愛、あんまりはしゃぎすぎて熱出すなよ」
ダイニングの方から、利玖の声がした。
コーヒーを飲みながら、
横目で面白そうに私を見ている。
「大丈夫だよっ!」
利玖は天律学園の生徒会役員だ。
本当なら春休みのほとんどを
学園で過ごしていてもおかしくないのに、
「妹が入学するから」と言って、
後半だけ帰ってきてくれた。
私が迷わないように。
困らないように。
利玖はこの数日、
何度も学園のことを教えてくれた。
だから、少しだけ安心できている。
それでも――
新しい場所へ行くというだけで、
胸の奥はそわそわと落ち着かなかった。
「さて、俺はそろそろ行くか」
利玖がカップを置いて立ち上がる。
窓の外はまだ明るい午後。
「あら、もう行っちゃうの?」
お母さんが名残惜しそうに言うと、
利玖は肩をすくめる。
「これでも生徒会役員なんでね。明日の準備もしないと」
「しっかり者だ〜!」
思わず言うと、利玖はくすっと笑った。
「莉愛」
「なに?」
「明日の持ち物は?」
「鞄に入ってる!」
「制服は?」
「掛けてある!」
「羽織紐は?」
「……!」
私はぴたりと止まった。
利玖が、してやったりという顔で笑う。
「ほらな」
「だ、大丈夫だよっ!」
「いい返事だ。明日忘れたら大笑いしてやる」
「むぅ……」
思わず口が尖がる。
利玖が小さなトランクに荷物をしまう。
「莉愛」
今度は真面目な声。
「ん?」
「中等部、楽しみ?」
「うーん……」
私は少しだけ考えてから、ぽつりと答える。
「楽しみ半分、不安半分かな」
「どんな不安?」
「……カナタや詩乃ちゃんと、学園でも仲良くできるかなって」
利玖が、少しだけきょとんとした。
「初等部であんなに仲良かったのに?」
「でも……クラスとか寮とか離れちゃったら」
そう言いかけたところで、
利玖が小さく笑った。
「……莉愛さ」
「ん?」
「俺とカナタの関係、どう見える?」
「え?」
突然の質問に、私は目を瞬いた。
でも、すぐに思い浮かぶ。
保育所の頃、私を通して知り合った二人。
年齢も違うのに、
いつの間にか自然に話すようになって、
今では私より
気楽そうに話しているときさえある。
「……私より仲良いときある」
「だろ?」
利玖は、満足そうに笑った。
「会ってない時間なんて、案外関係ないんだよ」
「……うん」
トランクの金具が、かちゃりと鳴る。
「久しぶりに会っても『よっ』で終わるし、それで普通に話す」
私は黙って利玖の言葉を聞いていた。
「つまりさ」
「?」
「そんなことで無くなる仲か?」
胸の奥が、ぽっと温かくなった。
「……ううん」
自然と笑ってしまう。
利玖も、ふっと表情をやわらげた。
「ま、何かあったら連絡しろ」
そう言って、トランクを閉める。
「兄ちゃんは一応、生徒会役員だからな」
「頼りになる〜」
「そこは敬え」
そのとき、
リビングの窓をトントンッと叩く音がした。
振り向くと、窓枠には濡羽色の機械の渡鴉。
渡鴉便が、利玖の荷物を受け取りに来たのだ。
渡鴉便は再ひ飛び立ち、
玄関へ向かった。
利玖は渡鴉の足へトランクを固定すると、
大きな翼を羽ばたかせ、
空へ舞い上がっていく。
「それじゃあ、行ってきます、母さん」
「行ってらっしゃい。体に気をつけてね。……莉愛を、よろしくね」
「うん。母さんも体を大事にね。莉愛、明日ちゃんと起きろよ」
利玖は私の頭に、ぽんと手を置いた。
懐かしい。
昔、恥ずかしくなったとき
利玖の後ろに隠れていた頃と同じ匂いがした。
「明日、正門の前で迎えてやるからな」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ落ちてくる。
兄らしくて、でも利玖らしくて。
それだけで、不思議と心が軽くなった。
「はーいっ」
利玖は振り返って歩き出す。
私はお母さんと並んで、
見えなくなるまで手を振っていた。
* * *
翌朝、目覚ましの音で目を覚ますと、
カーテン越しの朝の光が
部屋を淡く染めていた。
(……眠い)
でも今日は、二度寝なんてしていられない。
いよいよ今日から、
中等部の新しい生活が始まるのだから。
ワイシャツに袖を通し、
スカートを整え、
漆黒の羽織を身に纏う。
長い袂が、ふわりと揺れた。
まだ少しだけ大きく感じる制服が、
かえって新しさを際立たせていた。
洗面所で髪を整え、
昨日置いておいた羽織紐を手に取る。
中央に飾られた翡翠が、
朝の光を受けて深い緑を宿した。
鏡の中には、確かに“学園の生徒”がいた。
小さく深呼吸をして、
私はダイニングへ向かう。
朝食は、
いつも通りの匂いと温度に満ちていた。
「今日は忙しくなるから、しっかり食べて行きなさいね」
お母さんが、テーブルにスープを置く。
「今日は一人で起きられたね」
「私だって、やればできるもんっ」
そんな何気ないやり取りが、
今日は少しだけ愛おしい。
食後にお父さん特製の紅茶を飲みながら、
私はふと胸の奥がきゅっとするのを感じた。
(……しばらく、この味ともお別れなんだ)
それでも今日は、前を向く日だ。
◇ ◇ ◇
三人で駅まで歩く道も、
今日は特別に感じられた。
春の風が羽織の裾を揺らし、
道端の花が朝日に照らされている。
改札の前で、私は足を止めた。
ここを越えたら、
しばらくはお父さんとお母さんと
離れて暮らすことになる。
「……行ってきます」
そう言うと、
お母さんがそっと私の手を取って微笑んだ。
「行ってらっしゃい。困ったことがあったら利玖を頼ってね。お母さんやお父さんにも、なんでも話してね」
お父さんも肩に手を置く。
「いっぱい学んで、いっぱい笑って、ちゃんと帰ってくるんだぞ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
ここを越えたら、
しばらくは毎朝この二人に
おはようを言えない。
そう思った瞬間、
たまらなくなって、
私は二人にぎゅっと抱きついた。
お父さんの大きな手が、
頭を撫でる。
お母さんの腕が、
背中をそっと包み込む。
「行ってきますっ!」
「いってらっしゃいっ」
今度はちゃんと、明るい声で言えた。
改札を抜け、もう一度だけ振り返る。
二人は変わらず手を振ってくれていた。
ホームには、
同じ制服を着た新入生がたくさんいた。
(詩乃ちゃん、いないかな)
そう思って辺りを見渡した、そのとき――
「莉愛ちゃーんっ!」
ぱっと振り向いた先にいたのは、
詩乃ちゃんだった。
――そして。
その隣には、拓斗の姿があった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
新しい一歩の前の時間と、
小さな変化が重なった回でした。
これから始まる日々の中で、
どんな関係が変わっていくのか。
見守っていただけると嬉しいです。




