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2-5 その男のことを思い出したのは、左手の蝶のタトゥー

その男のことを思い出したのは、左手の蝶のタトゥーのせいだ。


羽を縁取る黒の中に、グラデーションのかかった目の覚めるような青がたっぷりあしらわれている。

ところどころ、クリームの上にまぶされた色とりどりの砂糖菓子みたいに、オレンジと黄色、ライトグリーンに赤と白が配されていて目を引く。

目が眩むような極彩色の蝶は羽をはばたかせるが、その男の左手から離れられない。

以前に会った時、入れ墨の蝶は左手と共にギターネックの根元と先端を行ったり来たりしていた。

同じ左手が、今日は吸いさしの葉巻を掴んでいて、口元と灰皿を忙しく往復している。


「まあ、そりゃ、酷いもんだよ。

マニラのカジノじゃ台湾人がたくさん働いていて、本土から来た連中にかしずくってわけだ。

そういう店で演奏するバンドの手配が俺の仕事なんだ。

シンガポールやクアラルンプールにも似たようなカジノがあるから、そういうところに若くて生きのいいミュージシャンを送り込んでリベートを得る。

アコギな商売だと我ながら思うよ。

それなりにリスクも取ってるから、金にならなきゃ困るんだけどね。」


その男の周りでは、彼と同じように煙草を吸う連中が店にひとつしかない灰皿に群がっている。

喫煙者が奇妙な連帯感を抱くのは万国共通らしく、西洋人も東洋人もお互いにざっくばらんに話をしている。


「フィリピンには、マニラだけじゃなくて、全土にすげえいい女が履いて捨てる程いるって聞いたが、本当か?」


背の低い、中華系の坊主頭の男が大きな声で聞く。

「随分必死だなあ、おい。」なんて野次や、「香港にもいい女がいるんだけど、眼中にないってこと?」なんて女性側からの鋭い一言なんかが、あっちこっちから飛んでくる。


蝶のタトゥーの男は笑う。


「そりゃ一杯いるけど、相手をしてくれるかどうかは別問題だぜ?

それに、フィリピンじゃ、いい女ってのは金がかかるんだ。

俺は香港の女の方が好きだな。」


その言葉に別の男が、「香港でだって、いい女には金がかかるよ。」と混ぜっかえす。

笑い声が上がり、紫色の煙が吐かれて浮かぶ。


「まあ、女の話はともかくだ。

若いバンドマン連中は、音楽の仕事になかなかありつけないから、かなり胡散臭い地域のカジノで延々とオールディーズを演奏させられるようが、多少労働環境が悪かろうが、大抵何も言わない。

給料が少ないって不満たらたらの連中も、一回現地のインディーシーンのイベントにブッキングしてやれば、途端に態度を変える。

連中にとっては大チャンスに思えるんだろうな。

海外でライブやったって言えば箔がつくし。

まあ、Win-Winってやつだよ。

大まかに言って、みんなハッピー。

細かいことは気にしてたら、商売なんてできやしない。

健康に気を使ってたら、煙草なんて吸えないようにな。

そこのあんた、さっきからぼうっと突っ立ってるけど、煙草持ってないってんなら、良かったら1本吸うかい?」


蝶のタトゥーの男は僕の方を見て言う。

この場にいながら煙草を吸っていないただ一人の人間である僕に気を使ったのか、それとも話の流れを変えたかったのか。


「いや、いいよ。

それにしても、あんたがそんなに商売上手だとは知らなかったな、デリック。」


僕がデリックと呼んだ男は眉をはね上げた。


「まあな、隠された才能って奴だよ。

何か特別なものが自分にもあるなんてこと、想像もしてなかった。」

「あんたのギターは、なかなかのもんだと思ったけどね。」

「随分俺のことを知ってるんだな。

前に会ったっけか?」

「4年前に、あんたに九龍湾(カオルーンベイ)のスタジオに連れてってもらった。

そこで起こったことは他言しないって条件で。

覚えてないか?」


デリックは惚けたように僕の顔を見つめていたが、やがて言うべき言葉を見つけた。


「トーキー・イーストタートル。」

「そんな風に名乗ったかもしれないな。」

「あの時のカメラマンか。

信じられないな、こんな所でまた会うなんて。

まだ香港にいたのか?

奇遇だな。」


前髪だけ茶色に染めたデリックの顔が近づいてきて、アルコールと煙草の匂いと一緒に僕をハグした。


「ちなみに、本名は東亀っていうんだ。東の亀って書いて、『トウキ』って読む。」

「何だよ、それ。

ほとんど本名じゃないか。

俺はデリックじゃなくて、エリックだ。

まあ、俺のも似たようなもんか。」


さっきまでの話の中心だったデリック改めエリックが僕と話し込み始めたせいで、喫煙所の人波が他の話し相手を求めて動き出す。


「あん時は世話になったな。

急にカメラマンに仕立てあげて悪かった。」

「別にいいよ。

バンドのMV撮影の裏側に潜り込むことなんてそうそうないから楽しかった。

むしろ、素人の撮った写真で大丈夫だった?」

「SNSに載せるためのオフショット用だったから、問題なかった。

むしろいい味出てたぜ。

ユニークアクセス数もいい感じだった。

ところで、本当に煙草はいいのか?」


僕は首を振った。

エリックは新しい煙草を咥えて火をつけた。


「今思えば、変な現場だったね。

無許可のゲリラ撮影で、逮捕時の対策用に一部の人間を除いて全員偽名で、バンドのメンバー含めて全員ベネチアンマスク着用。

トラブル防止用に参加者には全員守秘義務を課して、プライバシーも厳守。

左手のタトゥーを見なけりゃ、あの時現場を仕切ってたギタリストがあんただって分からなかったよ。」

「忙しい現場だったよな。

撮影のコーディネートも俺、現場の仕切りも俺、サポートに入るギタリストも俺。

あれ、ギャラなんかほとんどなかったんだぜ。」


4年前の思い出話はことの他、話が弾む。

僕がジャニスにエキストラとして無理やり引っ張られていった古いビルは、貿易会社の倉庫として使われていた。

そのうちのワンフロアが、エリックたち音楽関係者が金を出し合って借りて、スタジオに改造して、共有していた。

エリックはその日、自分がサポートしていたバンドのプロモーションビデオの撮影のコーディネートをそこで担当していた。

当日はトラブルの連続で、予定していた人数のスタッフが集まらなかったのだが、急遽エキストラにメイクや照明を担当させたりして、何とかその場を乗り切った彼の手腕は見事なものだった。


「日本に帰ってから、ネットで完成したMV見たよ。

すごく良かった。」

「低予算であのクオリティは、手がけた俺も未だに信じられないよ。

あれのお陰でプロデュースなり、コーディネートなりの仕事がどんどん舞い込んで、それで食って行けるようになったんだから不思議なもんだよな。」

「それで、もうギターは弾かなくなった?」


エリックはまた眉を釣り上げた。


「なんでわかる?」

「左手の爪が伸びてる。」

「目敏いな、本業は探偵か何かなのか?」

「まさか。

何となくそう思っただけだよ。

今の仕事はベビーシッターみたいなもんだよ。

あそこて鼻の下を伸ばしてるのがクライアント。」


僕は奥のソファでリタと一緒に楽しそうに笑う月見之介の方に視線を向けた。


「ありゃ、また、なんというか、ものすごく金持ちのボンボンっぽい男だな。」

「ご名答。

予算度外視で旅をして、世界中のいい女を抱くんだってさ。

でも、プロのお姉さま方は嫌だって言うから、閉口してるよ。

英語も話せないから、自分で口説くこともできやしないのに。」


僕は肩を竦めた。

エリックは笑って、吸いさしの煙草を灰皿に押し付けた。


「何か飲むか?

せっかくだし、奢らせてほしい。

久しぶりに会ったんだし。」

「景気がいいな。

さすが予算度外視。」

「そのかわり、誰かいい女の子を紹介してくれ。

そうじゃないと経費扱いにならない。」


2人でバーカウンターに行き、僕がスミノフアイスを2本注文する。

エリックはカウンターにもたれかかりながら、また月見之介とリタの方を見ていた。


「ただの思いつきなんだが、リタとあの男、一緒にマカオかどっかに放り出してみたらどうだ?」

「は?」

「リタは、去年まで語学学校の教師だったんだ。

語学オタクで、広東語の他に何ヶ国語か話せる。

俺らも翻訳関係とかでよく世話になってる。

今はフリーランスとして、翻訳やら文書作成やら、細々とした仕事を受注して食いつないでるから、時間の自由は利くだろう。

旅費も遊興費も出すって言ったら、意外と食いついてくるんじゃないか?」


エリックの視線の先では、リタが月見之介の肩に手を置いている。

月見之介は、少し離れても分かるくらいに表情を緩めている。


「あの様子じゃ、リタに教えさせたら、意外とすんなり英語を話すようになるかもな。」

「確かにそうかもしれない。」


スミノフを受け取り、支払いを済ませる。

エリックと僕の持つ瓶がカチンと音を立てる。


「ま、あんたが話ししづらいってんなら、俺から話してやるよ。」

「そしたら仲介料を取るんだろう?」

「当然。

それが俺の仕事だしな。

それにだな、イーストタートル、ここは香港だぜ?

金で大概のサービスが買える。

この街自体、100年契約でリースされてたんだ。

Borrowed place, borrowed timeってね。

返還されて20年経つ今でも、そういう場所なのは変わってないんだよ。」



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