第3話_温かいハーブバターとほどける鉄仮面
冬の朝の冷気が森の木々を白く凍らせる時間帯、旧温室の中だけは、春の陽だまりのような暖かさに包まれていた。
パチパチと爆ぜる真鍮の薪竈の火が赤煉瓦の床を温め、鉄板の上では、クラリッサが今朝焼き上げたばかりの香ばしいライ麦パンが、湯気を立てながら並んでいる。
「アル様、その窓枠の建付け、ずっと気になっていましたの。ありがとうございます」
脚立に乗り、軋んでいたガラス窓の蝶番に油を差し、歪んだ真鍮のネジを締め直していたアルは、手にしたネジ回しを置くと身軽に床へと飛び降りた。
「これですきま風は完全に遮断できる。……他には何か力仕事はないか。土嚢の移動でも、裏庭の除雪でも何でも申し付けてくれ」
額に微かな汗を浮かべたアルは、粗野な見回り兵の服を着ていながらも、どこからどう見ても高潔な騎士の立ち振る舞いだった。
アルがこの温室の朝食に通い詰めるようになってから、温室の環境は劇的に改善されていた。重くてクラリッサ一人では運べなかった堆肥や腐葉土の大袋はすべて棚の上へと整理され、枯れ葉が積もっていた排水溝は綺麗に浚われ、竈の横には割られたばかりの上質な楢の薪が山のように積み上げられていたのだ。
「そんなに働いていただいては、私の朝食代が安すぎて申し訳なくなってしまいますわ。さあ、手を洗っていらしてくださいな。今日は特別なものをご用意しましたの」
作業机の上には、焼きたてのライ麦パンと、冬大根とレンズ豆を煮込んだクリームスープ、そして小さな白磁の壺が置かれていた。
壺の蓋を開けると、ふわりと爽やかで甘やかな香草の匂いが広がった。
「これは……バターか?」
アルが席に着き、不思議そうに壺の中を覗き込んだ。
「ええ、特製のハーブバターですの。温室で育てたローズマリーとタイム、粗挽きの岩塩、それに裏森の蜂の巣から分けてもらった野生の百花蜜を、練り上げた無塩バターに混ぜ込みました。熱いパンにたっぷり塗って召し上がってみてください」
クラリッサがナイフで淡い緑色の混ざったバターをすくい、パンの断面へと滑らせると、パンの余熱でバターがじわりと黄金色に溶け出し、香ばしい湯気とともに芳醇な香りを放ち始めた。
アルはパンを手に取ると、大きく一口頬張った。
咀嚼した瞬間、男の琥珀色の瞳が見開かれ、微かに息を呑む音が聞こえた。
濃厚なバターのコクと蜂蜜のまろやかな甘み、そして鼻腔を抜けるローズマリーの清涼感と岩塩のアクセントが、素朴なライ麦の香ばしさと完璧に調和している。
「……美味い。信じられないほど美味いな」
アルの口から、飾り気のない本音の呟きが零れ落ちた。いつも厳格に引き結ばれていた口元が、心底からの幸福感に緩み、少年のように無防備な表情を見せている。
その横顔を眺めながら、クラリッサは胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚えた。
「よかったです。アル様はいつも眉間に険しい皺を寄せていらっしゃいますから、少しでも肩の力を抜いていただけたらと思って」
「……私の顔は、そんなに険しいか」
「ええ、とても。まるで敵軍の軍勢を一人で睨みつけているようなお顔をなさいますわ」
クラリッサがくすりと笑うと、アルは困ったように視線を落とし、パンの耳をちぎった。
「職業病のようなものだ。……私の家は代々、軍事と宮廷の防衛を担う家系でな。幼少期より、感情を見せることは弱点であり、隙を見せた瞬間に命を落とすと叩き込まれてきた。誰にも心を許せず、常に疑い、刃を研ぎ続けることだけが私の人生だった」
低く乾いた声で語られる男の過去に、クラリッサの胸がちくりと痛んだ。
身分は違えども、周囲の期待や冷酷な掟に縛られ、自分の心を押し殺して生きてきた孤独の深さは、痛いほど理解できたからだ。
「クラリッサ、君はどうしてこの温室に一人でいるのだ。……貴族の娘であることは見れば分かる。なぜ、こんな森の片隅で、一人で薪を割りパンを焼いている」
アルの真摯な問いかけに、クラリッサは自らの手元を見つめた。
「私は、アシュレイ伯爵家の生まれです。ですが、私には魔法の才能がまったくございませんでした。妹や継母からは『魔力を持たぬ役立たず』と罵られ、父からも見放されて、半年前、この廃温室の管理人として追いやられたのです」
「……そのような理不尽な理由で、実の娘を切り捨てたというのか」
アルの声が、氷点下の怒りを孕んで低く沈んだ。テーブルの上の拳が、白くなるほど強く握りしめられている。
自分のことのように激しい怒りを露わにしてくれる男の姿に、クラリッサは驚きながらも、優しく首を横に振った。
「怒らないでくださいませ、アル様。私は今、ちっとも不幸ではありませんの。実家にいた頃は、息を吸うことさえ罪のように感じておりました。けれど、ここへ来てからは、土に触れ、種を育て、こうして自分で焼いたパンを美味しいと喜んでくださる方がいる。……私にとって、この温室での日々は、何物にも代えがたい宝物なのです」
クラリッサの淡い緑の瞳は、朝の光を宿して静かに澄み渡っていた。
その無垢で誇り高い笑顔を見つめるアルの瞳に、先ほどの怒りは消え失せ、代わりに深い畏敬と、言葉にできないほど熱く切ない光が宿っていた。
「……強いな、君は」
アルは静かに息をつき、自らのカップの紅茶に口をつけた。
「朝、この温室の扉を開け、君の淹れた茶を飲み、君の焼いたパンを食べる。……この短い時間だけが、私の生涯で唯一、息を吸うことのできる瞬間だ。君の温もりが、私の冷え切った心を救ってくれている」
その言葉に、クラリッサの胸の奥で、カランと小さな鐘が鳴り響いた。
食後、二人は並んで真鍮の水差しを持ち、棚の上の冬咲きジャスミンに水をやった。水差しの取っ手を握る指先がふと触れ合い、互いの体温が肌を通して伝わった瞬間、クラリッサの頬にカッと熱が集まった。
「……また明日の朝、来てもいいだろうか。北の森で採れる野薔薇の実を持参したい」
「ええ、喜んでお待ちしておりますわ」
去り際に振り返ったアルの瞳は、朝の光よりも温かく、クラリッサの胸を高鳴らせていた。温室の片隅では、可憐な白い花びらが甘い香りを放ちながら、静かに満開の時を迎えていた。
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