第2話_寡黙な見回り兵と真鍮の薪竈
正午を過ぎた頃、薪竈の火が穏やかな熾火へと変わった温室の中に、微かな衣擦れの音が響いた。
毛布の上に横たわっていた男が、不意に目を見開いたのだ。その琥珀色の瞳は、意識を取り戻した刹那から夜鷹のように鋭く、右手は反射的に腰の剣へと伸びていた。
「動いては駄目です。傷口がまた開いてしまいますわ」
静かで柔らかな声が、男の張り詰めた殺気を優しく押し包んだ。
男は息を呑み、視線を巡らせた。視界に入ったのは、天井一面に広がるガラス越しの柔らかな木漏れ日と、土の匂い、そして竈の前にしゃがみ込んで小さな素焼きのカップを手にした、一人の小柄な娘の姿だった。
「ここは……」
掠れた乾いた声が、男の喉から漏れた。
「王立旧植物園の古い温室です。今朝、吹雪の石段で行き倒れていた貴方を、中へお運びしました。肩と脇腹に毒を塗られた深い傷を負っていらっしゃいましたので、解毒の薬草を塗り、包帯で傷口を固く押さえてあります」
クラリッサは立ち上がると、湯気を立てる素焼きのカップを男の枕元へと運んだ。
「まだ微熱があるはずです。まずはこのヤナギとカモミールの煎じ薬をお飲みになって。とても苦いですが、熱と痛みを散らしてくれます」
男は差し出されたカップを無言で見つめた。戦場と宮廷の暗殺劇の中で生き抜いてきた男の習性として、素性の知れぬ他者から差し出された液体を警戒するのは当然のことだった。
だが、クラリッサの淡い緑の瞳には、打算も、恐怖も、そして毒殺を企む者の暗い影も微塵もなかった。ただ、目の前の手負いの命を救いたいという、純粋で透き通った真摯さだけが宿っていた。
男は少しの躊躇の後、震える手でカップを受け取り、一気に飲み干した。舌を刺すような強烈な苦味が広がったが、喉を通り過ぎた途端、胸の奥の重苦しい熱感がスーッと引いていくのが分かった。
「……苦いな」
「ふふ、良薬は口に苦いと申しますもの。苦味を消すために、温かいスープとパンをどうぞ」
クラリッサは手際よく、木椀に並々と注がれた根菜のスープと、竈で温め直した麦パンをトレイに載せて差し出した。
スープには、人参や蕪、玉ねぎが形を留めないほど柔らかく煮込まれ、干し肉から溶け出した濃厚な出汁とハーブの香りが立ち上っている。パンの端をちぎって口に運んだ男の瞳が、驚きに見開かれた。外側の香ばしさと、内側のふんわりとした小麦の優しい甘みが、飢えと疲労で限界に達していた胃袋をじんわりと満たしていく。
男は言葉もなく、一心不乱にスープとパンを平らげた。
「お口に合いましたようで、安心いたしました」
クラリッサが微笑んで空になった椀を片付けると、男は深々と息を吐き出し、自らの左肩に巻かれた手際の良い包帯に触れた。
「……見事な手当てだ。宮廷医師の手にかかるよりも傷の痛みが引いている。貴女の名を伺ってもいいか」
「私はクラリッサと申します。この温室の管理を任されている、ただの庭番のような者です」
実家から追放されたことや、伯爵令嬢であることなど、名乗る必要もないとクラリッサは思っていた。
男は少しの間、沈黙を守っていたが、低く落ち着いた声で短く答えた。
「……アルだ。王宮の周辺警備を担当している近衛の見回り兵だ。夜警の最中に、不審な刺客の一団に急襲され、森へと逃げ延びたところで力尽きた」
男――アルが語った素性は、明らかに偽りだった。
その身のこなし、鍛え抜かれた無駄のない体躯、そして何より瞳の奥に宿る絶対的な威厳は、下級の見回り兵などが持ち得るものではなかった。だが、クラリッサはそれを追求しようとはしなかった。どんな重い事情を背負っていようと、この温室の中では、ただ傷を負って倒れていた一人の人間にすぎない。
「そうでしたの。大変な任務をお勤めなのですね、アル様。雪が完全に止むまで、ここでお休みになってください。ここには誰も参りませんから」
夕闇が迫る頃には、アルの熱は完全に下がり、自力で立ち上がれるまでに回復していた。
「恩に着る、クラリッサ。この借りは必ず返す」
アルは腰の長剣を確かめると、黒い軍用外套の襟を立て、温室の扉を開けた。去り際、彼は作業机の上に一枚の金貨を置こうとしたが、クラリッサは首を横に振ってそれを押し戻した。
「お金はいりません。手持ちの薬草と、私の朝ごはんを少し分けただけですもの。怪我を治して、無事にお務めへお戻りくだされば、それだけで十分です」
アルは驚いたように目を見張り、やがてその薄い唇に、微かで不器用な笑みを浮かべた。
「……変わった娘だな」
男の大きな影は、夕暮れの森の静寂の中へと音もなく消え去っていった。
雪が上がり、澄み渡った冬晴れの陽光がガラス屋根に降り注ぐ中、クラリッサは竈の前にしゃがみ込み、いつも通りに自分のための麦パンを焼いていた。
昨日の出来事は、まるで吹雪が見せた一夜の幻だったかのように、温室にはいつもの静寂が戻っていた。
その時、カチャリと温室の入り口の扉が鳴り、静かに開かれた。
「え……?」
振り返ったクラリッサは、目を丸くして立ち上がった。
そこに立っていたのは、質素な黒いフード付きのマントを纏ったアルだった。その腕には、綺麗に薪割りされた乾燥楢の木の太い薪の束と、王都の高級商会でしか手に入らないような上質な黒茶の缶が抱えられていた。
「アル様……!? お怪我は大丈夫なのですか? なぜまたここに……」
アルは平然とした顔で温室の中へと足を踏み入れると、重い薪の束を竈の脇へと丁寧に積み下ろした。
「傷口は塞がっている。……この区画の巡回任務が正式に割り当てられた。冷たい風の中を歩き回っていたら、腹が減った」
アルはマントを払い、作業机の丸椅子を引いて腰を下ろすと、琥珀色の瞳を真剣に向けて言った。
「薪と茶葉を持参した。昨日のような美味いパンとスープを、もう一度私に分けてくれないだろうか」
無骨で不器用極まりないその頼み込みに、クラリッサは思わず吹き出してしまった。
「まあ! 見回り兵様が、毎朝温室でお食事をなさるおつもりですの?」
「駄目だろうか」
少しだけ不安そうに眉を寄せる大男の姿が、どうしようもなく愛らしく見えた。
「いいえ、喜んで。ちょうどパンが焼き上がったところですわ」
真鍮の薪竈の前で、二人のひそやかで温かい朝食の時間が、静かに始まった。




