第1話_木漏れ日の旧温室と雪の日の遭難者
王都の北東の森深くにひっそりと佇む王立旧植物園の片隅には、半世紀前に建てられた石造りの温室がある。
高いドーム状のガラス屋根には蔦が青々と絡みつき、曇りガラス越しの白い光が、床に敷き詰められた赤煉瓦をぼんやりと照らしていた。温室の中には、甘く爽やかなカモミールやタイム、ローズマリーの香りが満ち、中央に据えられた小さな真鍮の薪竈からは、パチパチと薪が爆ぜる快い音が響いている。
アシュレイ伯爵家の長女であるクラリッサは、白麻のエプロンの紐を締め直し、竈の鉄扉を火箸で静かに開けた。
立ち上る熱気とともに現れたのは、こんがりと黄金色に焼き上がったばかりの丸い麦パンだった。表面は香ばしくパリッと張り、割れ目からは焼きたての小麦の甘い香りが湯気とともに溢れ出してくる。
「うん、今日も綺麗に膨らんでくれたわ」
クラリッサは満足げに息をつき、手編みの鍋つかみで焼き型を取り出した。
世間の人々から見れば、彼女の置かれた境遇は「悲惨な追放」と呼ばれるものだった。
魔法の才能こそが高貴さの証とされる王国において、伯爵家の直系でありながら微弱な生活魔力しか持たなかったクラリッサは、幼い頃から家族の失望の対象だった。後妻である継母や、強力な炎魔法を受け継いだ異母妹からは「アシュレイ家の恥晒し」と冷遇され、半年前、老朽化して打ち捨てられていたこの旧温室の管理という名目で、実質的に王都の本邸から追い出されたのだ。
実家の者たちは、クラリッサが寒さと孤独に泣き崩れ、許しを請いに戻ってくると思っていたに違いない。
だが、クラリッサにとって、この場所は生まれて初めて手に入れた天国そのものだった。
日当たりの良い温室の土を耕し、薬効のあるハーブの種を蒔き、枯れかけた樹木を手入れする。誰にも軽蔑の視線を向けられることなく、自分の手で育てた植物に囲まれ、好きな時に温かいお茶を淹れて焼きたてのパンを食べる。そこには、他人の機嫌を窺って怯え続ける日々など、どこにも存在しなかった。
木製の小さな作業机の上に、素焼きの皿と、温かい野菜スープの入った木椀を並べた時だった。
温室の外で、激しい風の唸り声とともに、ドサリと何かが重く倒れ込む鈍い音が響いた。
「何の音かしら……?」
クラリッサは眉をひそめ、作業用の手袋を外して温室のガラス扉へと近づいた。
今日は未明から記録的な猛吹雪が吹き荒れており、外の世界は一面の銀世界と化していた。曇ったガラスの表面を手で拭い、外の雪景色に視線を凝らした瞬間、クラリッサは息を呑んだ。
温室の入り口へと続く雪に埋もれた石段の脇に、黒い人影が横たわっていたのだ。
「大変……! 人が倒れているわ!」
クラリッサは迷うことなく分厚い毛織りのショールを羽織り、閂を外して扉を押し開けた。
身を切るような冷風と白い雪煙が顔を打つ。雪に足を取られながら駆け寄ると、そこに倒れていたのは、深い夜色の軍用外套を纏った長身の男だった。外套の肩口や背中にはべっとりと黒ずんだ血がこびりつき、乱れた黒髪の下から覗く顔立ちは、死人のように青白く冷え切っている。
男の腰には、装飾を剥ぎ取られた実戦用の長剣が佩かれていた。どこかの兵士だろうか。だが、その鍛え抜かれた体躯と、意識を失いながらも漂う圧倒的な気迫は、ただの一介の番兵とは思えなかった。
「しっかりしてください! 聞こえますか!?」
肩を揺すっても、男は浅く苦しげな息を漏らすだけで、ぴくりとも動かない。
この猛吹雪の中、ここに放置すれば確実に凍死してしまう。クラリッサは歯を食いしばり、男の逞しい腕を自分の肩に担ぎ上げた。想像以上の重みに膝が折れそうになったが、必死に踏ん張り、雪を引きずるようにして男を温室の中へと運び込んだ。
バタンと重い扉を閉ざすと、温室の優しい暖気が二人を包み込んだ。
クラリッサは男を煉瓦敷きの床に敷いた厚手の毛布の上に寝かせ、すぐさま手当てに取り掛かった。
刃物によって切り裂かれた外套を慎重に切り開くと、左肩から脇腹にかけて、鋭利な刃による深い斬り傷が口を開けていた。傷口の周囲は赤黒く腫れ上がり、かすかに焦げたような異臭が漂っている。
「毒が塗られている……! でも、完全に回る前に身体が冷え切ったおかげで、進行が遅れているのね」
クラリッサは温室の奥へと走り、棚に並べられた乾燥ハーブの瓶を迷わず掴み取った。
解毒作用を持つ銀梅花の粉末、止血効果の高いセイヨウキズタの絞り汁、そして痛みを和らげる野生のミントの油。魔力による治癒魔法は使えなくとも、彼女が独学で極めた薬草の知識は、一握りの宮廷医師すら凌駕する確かなものだった。
すり鉢でハーブを素早く練り合わせ、緑色の軟膏を作り上げると、煮沸した湯で清めた布を使って傷口を丁寧に洗浄し、薬を厚く塗り込んで清潔な包帯を固く巻き上げた。
さらに、竈の火で熱した鉄瓶の湯を布で包み、男の冷え切った手足に当てて温もりを取り戻させる。
手当てを終える頃には、窓の外の吹雪もようやく勢いを弱め、鉛色の空から淡い冬の日差しがガラス屋根を透過していた。
男の荒い息遣いは次第に穏やかな寝息へと変わり、凍りついていた頬に、わずかながらの赤みが戻り始めていた。
クラリッサは床に座り込み、額の汗を拭いながら、静かに男の寝顔を見つめた。
彫りの深い端正な輪郭、長く密集した睫毛、そして固く結ばれた薄い唇。無防備に眠っている今でさえ、どこか孤独で、触れる者を拒絶するような鋭い気品を漂わせている。
「……こんな森の奥まで、どうして手負いで逃げてこられたのかしら」
クラリッサは小さく呟き、男の胸元まで毛布を引き上げた。
竈の上では、温め直された野菜スープが、コトコトと穏やかな湯気を立てていた。クラリッサは小さな素焼きの小鍋に乾燥ヤナギの樹皮とカモミールを放り込み、男が目を覚ました時に熱を冷ますための煎じ薬を作り始めた。
自分と同じように、冷たい風に晒され、傷つき、居場所を失いかけた命。
この静かな温室の片隅で、今だけは誰もが安全で温かい場所に身を委ねてよいのだと、クラリッサは祈るようにそっと男の冷たい額に濡れタオルを載せたのだった。
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