第四十章:「これ以上、見ていられない」
夜の繁華街。
ネオンの明かりが、ビルの谷間を染めている。
杏奈はその光の中を、迷いもせずに歩いていた。
心の中ではずっと迷っていたくせに。
それでも今、足取りはしっかりしていた。
「このままじゃ、ひなが壊れてしまう」
ドアの前で、深呼吸をする。
この場所に、自分一人で来るなんていつぶりだろう。
そして、こんな気持ちで来るなんて思ってもみなかった。
「いらっしゃいませ——」
中に入った瞬間、スタッフが声をかけてきた。
杏奈は首を横に振り、少し声を潜めて言う。
「仁さんに…伝えてください。杏奈です。
ひなのことで、どうしても話したいことがあるって」
スタッフが目を見開き、すぐに奥へと消えた。
店の照明が妙にまぶしくて、杏奈は目を細めた。
ひなのことを話すと決めていたのに、今になって緊張が全身を襲ってきた。
——数分後、バックルームに通された。
仁さんがソファに座っていた。
彼の表情はいつも通り、冷静で飄々としていた。
でも、その目がわずかに険しくなったのを、杏奈は見逃さなかった。
「…ひなのことって何?」
杏奈は呼吸を整えて、ゆっくりと話し始めた。
「最近、ひなの周りでおかしいことが起きてる。最初はポストに妙な手紙が入っていたり、誰かに見られてる感じがするって言ってた。でも、今はもっと…。ひと目で“危ない”ってわかるレベルの嫌がらせをされてる」
仁さんの目が鋭くなる。
「会社のロッカー壊されたり、玄関前に生ゴミ置かれたり…。ストーカーまがいのこともされてる。
ひなは仁さんに心配かけたくないって…必死に隠してる。…でももう限界を超えてるよ」
杏奈は、息を飲み込んだ。
ここから先を言うか、ずっと迷っていた。
でも、言わなきゃいけない。
仁さんが“知るべき”ことだった。
「たぶん、やってるのは咲さん。実は地元の先輩なんだ。
お金で誰かを雇って、ひなを攻撃してる。
もう、偶然とか嫉妬ってレベルじゃない。明らかに、狙われてる」
仁さんは、一瞬だけ視線を外した。
その沈黙が、逆に答えを語っていた。
「…仁さん」
杏奈は、いつになく真剣な目で彼を見た。
「ひなが本当に壊れる前に守ってあげて。お願い。
仁さんしか、あの子を救えないの…!」
感情を押し殺した声だった。
仁さんの顔から、一切の余裕が消えていた。
静かに、そして深く、自分の中に落とし込んでいるような…そんな眼差しだった。
杏奈は立ち上がった。
もう伝えることは全部伝えた。
これ以上、店に長くいるつもりはなかった。
「…よろしくお願いします」
それだけ言い残して、扉を閉めた。
その背中には、親友としての愛と、恐怖と、祈りが詰まっていた。




