第三十四章:「聞き覚えのある名前」
「……でね、すごく綺麗だったんだけど、ブランド物いっぱいで、
声も大きくて……ちょっと怖かった。名前は…咲だったかな。」
杏奈は、ゆっくりと口に含んだコーヒーを飲み込めなかった。
“咲”
その二文字が、頭の中でこだまのように響いた瞬間、
背筋をゾワッと冷たいものが走った。
「咲……?」
「うん、なんか、仁さんの…というよりお店でも“太客”って感じの……」
ひなが気まずそうに言葉を探してる間も、
私の中ではすでに記憶が回り始めていた。
中学のときのこと。
気に食わない子を徹底的に追い詰めて、支配していたあの人。
「……流石にどこの人かまでは分からないよね」
「うん…。でも、私のことすごく睨んでた。
“長続きしないように”って。めっちゃ睨まれて……」
「あー、うん。ごめん……ちょっと考えごと」
私はすぐに言葉を遮った。
“これ以上話させたくない”というより、自分の動揺を見せたくなかった。
咲——
何万人という人が入り乱れる夜の街。
(まさか…違うよね)
「杏奈?大丈夫?」
ひなが心配そうにのぞき込んでくる。
その表情に、私は無理やり笑顔を作った。
「うん、大丈夫。……ただ、あんまり関わらないほうがいいかも、って思っただけ」
「そう…だよね。」
「…ひな」
名前を呼んでから、言葉に詰まった。
“もし私の知るあの人だったら…目を付けられたら絶対にボロボロになる”
“だからやっぱり…仁さんとは距離をおいた方がいい”
——そう言いかけて、でも言葉にできなかった。
だって。
仁さんの話をするときのひなは、どこまでも幸せそうだったから。
その幸せを、私が奪うようなことはできない。したくない。
「……気をつけてね。仁さんが悪いとかじゃなくて、周りがね、ほんとに面倒な世界だから。
あんたのこと守れる人、きっといない場所だから」
「うん、分かってるよ。……でも、会いたくなっちゃうんだ。ダメだね。」
そういって少し悲しげに笑うひなを、私は見守ることしかできなかった。
“私の大事な親友が、危険な目に遭うかもしれない”
“でも、今の幸せを私が奪うことはできない”
止めるべきか、見守るべきか。
私の心の中で、二つの選択肢がぶつかり合っていた。




