第三十二章:「勝手に。」
ドアが閉まったあとも、
あの女の人の強い香水の匂いが、まだ空気に残っている。
仁さんは何も言わずにグラスの水を飲み干して、「ごめん」とだけ呟いた。
でも私は、それにどう返せばいいか分からなかった。
(その「ごめん」には、どういう意味が含まれているの…)
心の奥がざわざわしてる。
動揺してないフリをしているけれど、
手のひらがじんわり汗ばんでいるのが自分でも分かる。
”あれが、彼の世界”
頭では分かってた。
分かってたはずだったのに、
目の前に突きつけられた現実は、想像よりずっと鮮明だった。
「……ああいう人、多いの?」
静かに聞いてみると、仁さんは一瞬だけ目を逸らした。
「少なくは、ない」
その答えが、正直すぎて余計に胸が苦しくなった。
「そっか」
私は頷いたけど、
その言葉の意味が、自分でもよく分からなかった。
私はあの女の人と何か違うのだろう。
何か違うって、胸を張って言えるのだろうか。
私はただ、
そばにいたくて、名前を呼ばれたくて、
笑ってくれるだけで嬉しかっただけなのに。
それが“他の誰か”と同じでしかないのなら、
私は、何のためにここに来たんだろう。
目を閉じると、
あの頃の仁さんとの時間が、いくつも蘇ってきた。
何気ない会話。
急に渡された香水。
夜中に呼ばれて行ったあの部屋の温度。
ひとつひとつが、私だけに向けられたものだと思ってた。
そう、信じたかった。
でも今は、分からなくなった。
(私にしてくれたことは、他の人にもしていたのかな…)
(仁さんにとって私は…どんな存在なんだろう)
そんな考え、思いが、私の心と頭を支配し始めていた。
「……ひな」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
仁さんの表情は、少しだけ柔らかくなっていて、
でもその瞳の奥にあるものは、相変わらず読めなかった。
「今日は、来てくれてありがとう」
その言葉に、
なぜか涙が出そうになった。
「ううん、私こそ。……なんか、勝手にごめんね」
“勝手に期待して”
“勝手に傷ついて”
“勝手に動揺してる”
情けなくて、悔しくて、でもそれでも——
やっぱり、私は一緒にいたいと強く願ってしまった。




