第十章:「握りしめるワイングラス」
月末の締めが重なった上に、急なトラブル。
資料の差し替え、上司からの圧、同僚のミスの尻ぬぐい。
私はもう、自分のキャパを超えたまま働いていた。
「今日はもう飲もう!!」
そう声をかけてくれた杏奈に、思わず「うん」と頷いた。
珍しく断らなかったのは、心のどこかで限界が近いと自分でも感じていたから。
二人で入ったのは、職場から少し離れたバルだった。
仕事帰りの人たちで賑わってはいたけれど、私にはその雑踏すら心地よく感じた。
「ひな、最近ちゃんと寝てる? 顔色、悪いよ。」
杏奈の一言が、心に刺さった。
気遣ってくれるその優しさが、涙腺を緩ませた。
「……ねえ杏奈。私、ほんとはずっと我慢してたんだ。」
「うん、知ってたよ。」
杏奈はすぐにそう言った。
私はグラスを手に取り、少しだけワインを口に含んだ。
苦味と酸味が舌の奥を刺激して、喉の奥が熱くなった。
「仁さんに会いたいって思うと、息が苦しくなるの。今日も、何回スマホ見たかわかんない。LINE送ろうとしてやめて…その繰り返し。」
杏奈は黙って頷いていた。
私の言葉を遮ることなく聞いてくれるその優しさが、更に感情的にさせる。
「お金がある人のお遊びみたいなもので、会えないのが普通なのに、“会えない”ってだけで不安になって…。でも“ホストに恋してる”なんて、馬鹿みたいでしょ?言っちゃいけない気がしてた。」
杏奈が静かに言う。
「ちゃんと言葉にしてもいいんだよ。恋って、そういうもんでしょ?」
目に涙がにじむのを感じながら、グラスを両手で握りしめた。
「でも、どこかでわかってるの。向こうは“仕事”なんだよ。優しくするのも、微笑んでくれるのも、名前を呼んでくれるのも、全部…お金払ってるからなんだって。」
震える声が、少しずつ涙に変わっていく。
「でも、あの人、たまに私物くれたりするの。香水だったり、服だったり。お揃いの指輪も実は貰ってて…。部屋に呼んでくれたりもしたの。私、それで期待しちゃって…。本当は他の人にもしてるかもしれないのに。馬鹿だよね?」
杏奈は首を横に振った。
「馬鹿じゃない。誰だって期待するよ。だって好きなんでしょ?」
「うん…好き。すごく、好きなんだ。」
声に出した瞬間、涙が止まらなくなった。
好きって言葉が、こんなに苦しいなんて知らなかった。
「なのに、何も言えない。伝える勇気もない。だって、それで嫌われたら…もう、会うことすらできないかもしれないから。」
そのとき、杏奈はそっと手を伸ばして、私の手を握った。
「ひなは、ちゃんと好きになれる人を見つけたんだよ。ホストとか関係なく、ちゃんと心で恋してる。私、それってすごいことだと思う。」
その言葉に、少しだけ息をつき、ワインを一口飲んだ。
「…私、いつまでこの気持ち抱えていられるのかな。」
答えは、どこにもなかった。
今はただ、誰かに「わかるよ」そう言って欲しいだけだったのかもしれない。
ワインの残りを見つめたまま、私はただ、静かに息を吐いた。この気持ちの行き場を、まだ知らないまま。




