私は具合が悪いわ!
翌朝。宿場町は、昨日の騒ぎが嘘だったかのように、穏やかな朝を迎えていた。
宿の煙突からは朝餉の煙が立ちのぼり、通りでは商人たちが店を開く準備を始めている。昨夜まで事件の話で持ち切りだった市場も、今ではいつもの活気を取り戻し、人々は笑顔で行き交っていた。
レーベル公爵家の一行も、予定通り帝都へ向けて出発する。
馬車が石畳を離れ、街道へ出ると、窓の外には青々とした草原がどこまでも広がっていた。
馬車の中では、ウィリアムとアンジェリカが向かい合って座り、レイミとサラも同席している。
穏やかな揺れの中――。
「……ふむ」
アンジェリカは膝の上に一枚の地図を広げ、真剣な表情で見つめていた。
「お嬢様、何をご覧になっているのですか?」
「ああ、これ?」
隣で覗き込むレイミに、アンジェリカは地図の一角を指差した。
「昨日、お父様から聞いた孤児院の場所よ」
その言葉に、サラが小さく目を見開く。
「孤児院、ですか?」
「ええ。昨日の少年のことが、どうしても頭から離れないのよ」
あの怯えた瞳。助けを求めるように、自分を見つめていた眼差し。
もし、自分があと少し遅れていたら。もし護衛が間に合わなかったら。
そんな「もし」が頭をよぎるたび、胸の奥がざわついた。
「もちろん、少年一人を助ければ終わる話じゃないわ。でも、あの子が脅されるほど困窮していたのなら……孤児院そのものにも、何か問題があるのかもしれないじゃない」
そこまで言うと、アンジェリカは父へ視線を向けた。
「お父様」
「何だ?」
「帝都での社交界が終わったら、この孤児院へ行ってもよろしいですか?」
ウィリアムは娘の表情を静かに見つめる。
「……行くのは構わないが、行ってどうするつもりだ?」
ただ見舞いに行くだけでは意味がない。領主の務めは、一人を助けて満足することではなく、同じ悲劇を繰り返させない仕組みを築くことだ。
だからこそ、ウィリアムは娘の真意を確かめようとしていた。
「実際に見て、話を聞いてみたいんです。何が足りなくて、何に困っているのか。机の上の報告書だけでは分からないことも、きっとあると思うので」
アンジェリカの瞳には、昨日までにはなかった確かな意思が宿っていた。
ウィリアムはしばらく娘を見つめると、静かに頷く。
「ふむ、良い考えだ。許可しよう」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、昨日のように一人で飛び出すことは許さないからな」
「うっ……分かってます」
昨日の失敗を思い出し、アンジェリカは肩をすくめる。
「護衛を伴い、事前に連絡を入れた上で視察する。それが条件だ」
「はい! ありがとうございます!」
迷いのない返事に、ウィリアムは満足そうに頷いた。
嬉しそうに笑うアンジェリカを見て、サラも自然と笑みを浮かべる。
「きっと、あの子も喜びますね」
「そうだと嬉しいわ」
照れくさそうに笑うアンジェリカ。すると、その隣でレイミがさらりと言った。
「まあ、その前に社交界での舞踏の方が問題ですが」
「そ、そっちも何とかするわよ! 一々うるさいわね!」
「私はお嬢様を心配しているだけですよ」
「その割には、いつも楽しそうじゃない!」
「私はいつも無表情です」
「自分で言うんじゃないわよ!」
軽快なやり取りに、馬車の中は笑いに包まれた。
その時だった。
馬車が小さな段差を越え、大きく揺れる。
「きゃあっ!?」
アンジェリカの身体がぐらりと傾き、手にしていた地図がふわりと宙を舞った。
「お嬢様!」
レイミが素早く主人と地図を受け止める。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ……」
そう答えた次の瞬間、アンジェリカは青ざめた顔で額を押さえた。
「あ、あれ……なんだか、気分が……」
「えっ!? どこかお怪我でもなさったのですか!?」
サラが慌てて身を乗り出す。
「アンジェリカ、大丈夫か?」
ウィリアムも心配そうに声を掛けた。
しかし、レイミだけはアンジェリカと地図を見比べ、小さくため息をついた。
「お嬢様」
「……な、なに?」
「馬車の中で地図を広げていれば、酔いもします」
「……」
あまりにも的確な指摘に、アンジェリカはぴたりと固まった。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。そして──。
「……レイミ。膝を貸して頂戴」
「昨日は人を抱き枕代わりにして、今日は膝枕ですか。本当に我が儘なお姫様ですね」
「し、仕方がないじゃない……。うぅ、気持ち悪いわ……早くぅ……」
「承知しました」
レイミは苦笑しながら席を詰め、自分の膝を差し出す。アンジェリカは力なくそこへ頭を預けた。
「昨日、『もっと領地を学びます』と言った翌日にこれとは……」
ウィリアムは呆れ半分、苦笑半分で娘を見つめる。
「お、お父様……今は言わないでください……」
弱々しい抗議に、馬車の中へ再び笑いが広がった。
レイミはアンジェリカの前髪をそっと整えながら、穏やかな声で言う。
「お嬢様。顔は少し上へ向けてください。その方が酔いにくいですよ」
「うぅ……ありがとう。お前って、本当に気が利くのね……」
「ようやく私の有難みがお分かりになりましたか?」
「十分……分かったわよぉ……」
この時ばかりは、いつも言い合っているレイミに頭が上がらないアンジェリカだった。




