私は人を治める難しさを知ったわ!
「お嬢様、本当にご無事で良かったです!」
「わ、分かったから、落ち着きなさいよ」
泣き止まないサラを、アンジェリカは苦笑しながら宥める。
宿場町で起きた一件は、あっという間に使用人たちの間へ広まっていた。
備品の買い出しで別行動をしていたサラも報せを聞くなり、血相を変えて部屋へ飛び込んできたのである。
「本当に、お怪我はないのですね?」
「ええ。ほら、この通り元気よ」
サラは涙目のまま、アンジェリカの肩や腕を確かめるように何度も触れる。さっきから、ずっとこの調子だった。
見かねたレイミが、そっとサラの肩へ手を置く。
「サラ、気持ちは分かるけど、その辺にしてあげなさい」
「レイミ……でも……」
「旦那様にも、あれだけきつく叱られたから。もう危険な真似はなさらないでしょう」
レイミが苦笑混じりに言うと、アンジェリカも気まずそうに笑った。
「ええ、もう十分反省したわ。だから、そんなに心配しないで」
そう言って、アンジェリカはサラの手を優しく握る。その温もりに触れた途端、サラの肩からようやく力が抜けた。
「安心いたしました」
小さく漏れたその一言に、部屋の空気がふっと和らぐ。
(こんなにも心配してくれる人がいるなんて、嬉しいものね……)
アンジェリカは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その時だった。
扉が小さく叩かれる。
「入るぞ」
聞き慣れた低い声とともに、ウィリアムが部屋へ姿を現した。
彼は室内を見渡すなり、静かに告げる。
「ふむ……邪魔をしたかな?」
「い、いえ!」
慌てて距離を取るアンジェリカとサラを見て、ウィリアムは小さく笑う。
「元気そうで何よりだ」
「ご心配をお掛けしました」
アンジェリカは素直に頭を下げた。
ウィリアムも、それ以上この件を責めることはせず、静かに椅子へ腰を下ろす。
「さて……捕らえた者たちについて、衛兵から報告があった」
その一言で、和んでいた空気が引き締まった。
「奴らは宿場町を根城にする盗賊崩れのならず者だ。以前は街道で旅人を襲っていたが、取り締まりが厳しくなり、最近は町で獲物を探すようになったらしい」
「だから市場で……」
ウィリアムは頷いた。
「ああ。市場の混雑を利用し、裕福そうな旅人や貴族を護衛から引き離して金品を奪う。そうした犯行を繰り返していたようだ」
「あの少年も、仲間だったのですか?」
ウィリアムは首を横へ振った。
「いや。あの少年は、この町の孤児院で暮らす子供だった」
「孤児院……」
「男たちは食べ物を与えることを餌にし、逆らえば孤児院の仲間へ危害を加えると脅していたそうだ」
「そんな……」
部屋が静まり返る。
サラもレイミも、言葉を失っていた。
「レイミ、サラ……大丈夫?」
アンジェリカが心配そうに二人を見つめる。
「……はい、少し驚いただけです。ご心配には及びません」
「きっと、あの子も怖かったのでしょうね……」
二人もまた孤児院で育った身だ。少年の境遇が、他人事とは思えなかったのだろう。
「少年は最近になって無理やり盗みに加担させられたらしい。余罪もほとんどなく、衛兵も事情を酌み、保護する方針だそうだ」
「……良かった」
ウィリアムの言葉に、アンジェリカは胸を撫で下ろす。
あの時、怯えの奥に見えた、助けを求めるような眼差し。あれは、見間違いではなかったのだ。
問題が解決したわけではない。それでも、少年が罪人として切り捨てられるのではなく、保護されることになったのは、アンジェリカにとって唯一の救いだった。
しかし、ウィリアムの表情は晴れなかった。
「だが、本当の問題はそこではない」
「え?」
三人の視線が集まると、ウィリアムは苦々しく息を吐いた。
「取り調べの最中、奴らはこう口にしたそうだ。『昔のレーベル公爵家の領地なら、こんな真似はしなかった』と」
「……どういうことですか?」
ウィリアムは窓の外へ視線を向けた。
夕暮れに染まる宿場町では、一軒、また一軒と家々に明かりが灯り始めている。その穏やかな光景を見つめながら、彼は静かに口を開いた。
「以前のレーベル家は、良くも悪くも絶対的な権威で領地を治めていた。法を犯せば必ず裁かれ、逆らえば容赦なく力でねじ伏せられる。その恐れは領民だけでなく、ならず者たちの間にも深く浸透していた」
そこで一度言葉を切り、小さく息を吐く。
「だが近年、我々は力だけに頼る統治を改めた。領民との対話を重ね、暮らしを豊かにし、人々が自ら秩序を守る領地を目指してきた。その結果、領地は発展し、人口も増え、活気も増した」
しかし、とウィリアムは表情を曇らせる。
「領地が広がれば、それだけ隅々まで目を配ることは難しくなる。すべての町や村へ十分な監督を行き届かせることは容易ではない。あの宿場町も、その隙を突かれたのだろう」
静かな声には、領主としての責任が滲んでいた。
「皮肉なものだ。人々を恐怖ではなく信頼で導こうとした結果、『昔ほどレーベル家は恐ろしくない』と考える者が現れた。そして、その変化をあのような者どもが、自分たちに都合よく利用したのだ」
「お父様……」
ウィリアムは窓の外から視線を戻し、アンジェリカたちを見渡した。
「無論、私は昔の統治へ戻るつもりはない。恐怖だけで築かれた秩序は、真の平穏とは言えないからだ。だが、民に安心を与える優しさと、悪を寄せ付けない厳しさ。その両方を備えた領地を築かなければならない。それが、今のレーベル家に課せられた使命だと考えている」
アンジェリカは黙って父の横顔を見つめる。
権威だけでは、人は幸せになれない。だが、優しさだけでも秩序は守れない。領地を治めるということは、善悪だけでは割り切れない、もっと難しいものなのだ。
「……お父様。私、もっと領地のことを学びます。この町で見たことも、この事件も、全部無駄にはしません」
その瞳には、先ほどまでの迷いはもうなかった。
ウィリアムは娘を見つめ、穏やかに微笑む。
「ああ。それでこそ、私たちレーベル家の娘だ」
その言葉に、アンジェリカは力強く頷いた。
この日の出来事は、彼女にとって「人を治めること」の難しさを初めて知る、大切な一日となった。




