私は反省したわ!
夕暮れ。宿場町の視察を終えたレーベル公爵家の一行は、宿へと戻ってきていた。
先ほどまで騒ぎがあったとは思えないほど宿の中は静かで、廊下には夕食の支度を知らせる香ばしい匂いが漂っている。
だが、アンジェリカの部屋だけは重たい空気に包まれていた。
「……」
窓辺の椅子に腰掛けたアンジェリカは、膝を抱えたまま俯いている。
いつものように町の話をすることも、お菓子の話をすることもない。
ただ静かに、自分の膝を見つめていた。
そんな主人の様子を見たレイミは、温かな紅茶をそっとテーブルへ置く。
「お嬢様。紅茶をお淹れしました」
「……」
「早くお飲みにならないと、冷めてしまいますよ」
声を掛けられても、アンジェリカは小さく首を振るだけだった。
「今は飲む気分じゃないわ……」
今にも消え入りそうな声だった。
レイミは無理に勧めることなく、静かに主人の隣へ立つ。
しばらく沈黙が流れたあと、アンジェリカがぽつりと呟いた。
「ねえ、レイミ」
「はい」
「私……お父様に、あんなふうに怒られたの、初めてだったの」
どこか寂しげな声だった。
「昔は我が儘ばかり言っていたけれど、お父様が本気で怒ったことなんて、一度もなかった」
もちろん叱られたことはある。だが今日のように、あれほど厳しい眼差しを向けられた記憶はない。
「……私、お父様を悲しませちゃった」
肩が小さく震える。レイミはそんな主人の横顔を静かに見つめた。
「旦那様は、お嬢様を嫌って怒られたのではありません。お嬢様を心配されたのです」
「うん……分かってる」
アンジェリカは力なく笑う。
「頭では分かってるんだけど……衝撃が大きくて」
そのまま、膝を抱えたまま唇を噛むと、
「私って、本当に愚かよね。市場調査だって浮かれて、一人で飛び出して……みんなに迷惑を掛けた」
自嘲するように笑い、続ける。
「こんな軽率な女が、誉れあるレーベル家の次期当主だなんて……笑っちゃうわ」
「……お嬢様」
部屋に静寂が落ちた。
窓の外から聞こえる町の喧騒だけが、静かに耳へ届いている。
──やがて、レイミが小さく口を開いた。
「お嬢様。今更ですか?」
「……へ?」
あまりにも予想外の返事に、アンジェリカは間の抜けた声を漏らす。
「お嬢様がバ──……ごほん。少々抜けていらっしゃるのは、昔からです」
「今、バカって言おうとした?」
「…………いいえ」
「その間は何よ!」
「気のせいです」
「絶対違うわよね!? 絶対『バカ』って言おうとしたでしょ!」
「まさか」
レイミは涼しい顔で言い切る。その様子に、アンジェリカは思わず頬を膨らませた。
「ひどい侍女だわ。主人が本気で悩んでいるっていうのに」
「お嬢様は昔から少し抜けていて、よく転び、よく失敗もされました。正直に申し上げれば、『こんな貴族令嬢がいて大丈夫なのだろうか』と思ったこともあります」
「うぅ……」
追い打ちを掛けられ、アンジェリカは情けない声を漏らす。
しかし、レイミの声はそこで少しだけ柔らかくなった。
「ですが、お嬢様はそのたびに立ち上がり、以前より少しずつ前へ進んでこられました」
穏やかな微笑みを浮かべながら続ける。
「だから私は、お嬢様が今日失敗されたことよりも、それを悔やんでいらっしゃることのほうが嬉しいのです」
「レイミ……」
アンジェリカは目を見開いた。
「昔のお嬢様なら、きっと誰かのせいにして終わっていました」
「……否定できないわ」
「ですが、今のお嬢様は違います。自分の過ちを認め、反省することができます。それだけでも、お嬢様は昔とは比べものにならないほど成長されています」
アンジェリカは何も言えなかった。ただ、胸の奥に溜まっていた重苦しいものが、少しずつほどけていくのを感じる。
「だから、お嬢様。今日の失敗を、明日の糧になさってください」
「……うん」
アンジェリカは小さく頷く。その瞳からは、先ほどまでの暗さが少しずつ消えていた。
「ありがとう。お前のおかげで、少し元気が出たわ」
「それはようございました」
そう答えたレイミだったが、その表情にはまだ僅かな陰りが残っていた。
「……レイミ?」
「私も……心配したんですからね」
「え?」
アンジェリカが不思議そうに首を傾げると、レイミは一度目を伏せてから、静かに口を開いた。
「路地へ駆け付けた時、お嬢様が男たちに囲まれている姿を見た瞬間……心臓が止まるかと思いました」
「……ごめんなさい」
「謝っていただきたいわけではありません」
レイミは静かに首を横へ振る。
「ただ、もう二度と、あのような危険な真似だけはなさらないでください」
その声には、主人を案ずる真心が滲んでいた。
「旦那様だけではありません。お嬢様に何かあれば、悲しむ人は大勢おります」
「……うん」
アンジェリカはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐレイミを見つめる。
「約束するわ。もう二度と、一人で飛び出したりしない」
「絶対に?」
「絶対によ」
迷いのない返事を聞き、レイミはようやく安堵したように微笑んだ。
「そのお言葉を聞けて、安心いたしました」
部屋を包んでいた重苦しい空気は、少しずつ和らいでいく。
アンジェリカはテーブルへ手を伸ばし、先ほどの紅茶を口へ運んだ。
「あら、この紅茶……少し温くなっているじゃない」
「ですから、早くお飲みにならないと冷めてしまうと申し上げたのです。淹れ直してまいります」
「ううん、いいわ」
アンジェリカは首を横に振る。
「今は、この紅茶が飲みたい気分なの」
そう言ってもう一口飲み、小さく笑う。
「やっぱり、ぬるいわね」
その笑顔を見たレイミもまた、つられるように小さく笑みをこぼした。




