私のペンダントを返しなさい!
盗人は人混みを器用にすり抜け、そのまま細い路地へ飛び込んだ。
「待ちなさい!」
アンジェリカも迷わず後を追う。
幼い頃から庭を駆け回っていたおかげか、その足取りは意外なほど軽い。
あと十歩。
この距離なら追いつける――。そう確信した、その瞬間だった。
盗人は角を曲がり、その姿を消した。
「すばしっこいネズミね!」
アンジェリカもすぐに角を曲がる。
しかし、その先に広がっていたのは、薄暗い袋小路だった。
「あ、あれ……?」
逃げ場などない。それなのに、人影はどこにも見当たらない。
「どこに消えたのよ?」
静まり返った路地に、アンジェリカの呼吸だけが響く。
嫌な予感がした。
「──お嬢ちゃん」
背後から低い声が響いた。弾かれたように振り返る。
そこには、三人の男が路地の出口を塞ぐように立っていた。
中央にいるのは、先ほどアンジェリカへわざとぶつかってきた男。その隣では、小柄な少年が公爵家の紋章入りペンダントを大切そうに握り締めている。
「これを返してほしいのか?」
男は指先でペンダントをくるくると回し、下卑た笑みを浮かべた。
アンジェリカは一歩も退かず、真っ直ぐ睨み返す。
「それはレーベル公爵家の物よ。返しなさい」
一瞬、静寂が流れる。
そして――。
「ぶはっ! 聞いたか?」
「レーベル公爵家だってよ!」
三人は腹を抱えて笑い始めた。
「嘘じゃないわ。本当よ!」
頬を膨らませて言い返すアンジェリカ。だが男は肩をすくめるだけだった。
「本当でも嘘でも関係ねぇさ」
男は一歩、二歩と距離を詰める。
「それより笑えるのは、公爵家のお嬢様が護衛も連れず、一人で飛び込んできたことだ」
その言葉で、全てが繋がった。
財布を盗まれたという怒鳴り声。人混み。わざとぶつかってきた男。そして、この袋小路。
(全部……仕組まれていたのね)
市場の混乱を利用し、裕福そうな旅人や貴族を護衛から引き離す。そのための、手慣れた罠だったのだ。
アンジェリカは静かに息を吐き、素早く周囲へ視線を走らせる。
出口は一つ。だが、その前には男が三人。
(逃げるのは難しいわね……)
そう判断した、その時だった。
「アンジェリカーーーッ!!」
父の怒声が町中へ響き渡った。
男たちの表情が一変する。
「ちっ……もう来やがったか!」
舌打ちした男は、ペンダントを持つ少年へ怒鳴った。
「おい! 行け!」
少年は小さく頷き、路地の奥へ駆け出そうとする。
「逃がさないわ!」
その瞬間、アンジェリカは一直線に飛び込んだ。
「なっ!?」
男たちが反応した時には、もう遅い。
アンジェリカは少年へ体当たりするように飛び付き、その細い足へ両腕でしがみついた。
「離して!」
「嫌よ!」
少年が必死にもがく。アンジェリカも負けじと力を込めた。
護身術など習ってはいない。それでも、この手を離せばペンダントは奪われたままになる。ただ、その一心だけで食らいつく。
「このガキが!」
苛立った男の一人が駆け寄り、大きく拳を振り上げた。
(まずい……!)
思わず身を固くした。その瞬間――。
「そこまでだ!」
雷鳴のような怒声が路地へ轟いた。
銀閃が走る。抜き放たれた剣先が、男の喉元でぴたりと止まった。
「一歩でも動けば斬る」
レーベル公爵家の護衛騎士だった。
「くそっ! 早く逃げ──」
最後まで言い切ることもできない。
さらに数名の騎士が雪崩れ込み、男たちは逃げる間もなく包囲された。
「ぐああっ!」
護衛騎士が男の腕をねじ上げる。別の男も地面へ押さえつけられた。
決着は、ほんの数秒だった──。
「お嬢様!」
レイミが駆け寄り、アンジェリカを強く抱き締める。
「ご無事ですか!? お怪我はありませんか!?」
「わ、私は平気よ……それより、この子を……」
そう答えながらも、アンジェリカは少年の足を離さない。
レイミが素早く少年を拘束すると、少年は観念したように抵抗をやめた。
その小さな手から、ペンダントが音を立てて石畳へ転がる。
アンジェリカはそれを拾い上げた。
「良かった……」
「何も良くない!」
路地に鋭い声が響いた。
ウィリアムだった。
娘の無事を確認した安堵は一瞬で消え、その瞳には父としての厳しさだけが宿っている。
「アンジェリカ。なぜ護衛を置いて飛び出した」
怒鳴ってはいない。だからこそ、その一言は胸へ重くのしかかった。
「ペンダントを……取り返したくて」
「それだけか?」
「……」
答えられない。頭に血が上り、何も考えず駆け出した。
それが紛れもない事実だった。
「護衛が間に合わなければ、お前は今どうなっていた」
男たちに囲まれた光景が脳裏によみがえる。思わず背筋が震えた。
「……ごめんなさい」
震える声で謝る。
ウィリアムは小さく息を吐き、娘の頭へ静かに手を置いた。
「ペンダントを守ろうとした気持ちは分かる」
その声は、先ほどより少しだけ優しい。
「だが、お前の命より大切な物など、この世には存在しない」
アンジェリカは目を見開く。
「お前はレーベル家の跡継ぎである前に――私の大切な娘なんだ」
その言葉が胸の奥へ深く染み渡る。
「……はい、お父様」
今度は迷うことなく頷いた。
ウィリアムも静かに頷き返し、護衛騎士たちへ命じる。
「全員、衛兵へ引き渡せ。背後関係も徹底的に洗え」
「はっ!」
男たちは次々と連行されていく。
だが、一人だけ──。ペンダントを盗んだ少年だけは、何度も振り返ってアンジェリカを見つめていた。
その瞳に宿るのは、怯えだけではない。
罪悪感。後悔。そして――誰かに救いを求めるような、かすかな光だった。
その眼差しは、アンジェリカの胸に小さな棘を残した。




