私の市場調査の邪魔をするのは誰よ!
宿を出たレーベル公爵家の一行は、大通りを中心に宿場町の視察を始めた。
夕暮れの宿場町には、商人たちの威勢の良い呼び声が響き、焼き立てのパンや甘い菓子の香りが風に乗って流れてくる。
その香りに誘われるように、アンジェリカの足がぴたりと止まった。
「お嬢様」
「……まだ何もしてないわよ?」
「ええ。ですが、視線は完全に屋台へ向いております」
「少し見ただけよ」
「ちゃんと前を向いて歩かないと危ないですよ」
「……」
何も言い返せず、アンジェリカはそっと視線を父の背中へ戻した。
ウィリアムを先頭に護衛騎士たちが周囲を警戒し、その後ろをアンジェリカとレイミが並んで歩く。
公爵家の一行だけあって道行く人々の視線を集めていたが、アンジェリカはそんなことなど気にも留めず、きょろきょろと辺りを見回していた。
「お父様、あちらは何を売っているのでしょうか?」
「染料に使う薬草だ」
「では、あちらは?」
「香辛料だな」
「その隣は?」
「……」
さすがのウィリアムも返事が短くなる。しかし、アンジェリカは気にしない。
大通りには、帝都や公爵領では見かけない品々が所狭しと並んでいた。
地方の特産品、遠方から運ばれた香辛料、色鮮やかな布地、精巧な木工細工――。まるで様々な土地の宝物が、一か所に集められたようだった。
「宿場町というのは、商人同士が売買をする場所でもあるのですね」
並べられた商品を眺めながら、アンジェリカが呟く。
「そうだ。ここで仕入れた品を別の町で売る者もいれば、この町でしか手に入らない品を求めて訪れる者もいる」
「なるほど……」
リヒトの授業で学んだ知識と、目の前の光景が一つに繋がる。
「旅人が休むだけの場所ではないのですね」
「その通りだ」
アンジェリカは感心したように頷いた。
「……面白いわ」
「何がだ?」
ウィリアムが問い返す。
「領地経営というと、税や農作物の管理ばかりを想像していました。でも、人や物の流れを知ることも同じくらい大切なのですね」
その言葉に、ウィリアムは静かに娘を見つめた。
以前のアンジェリカなら、興味を示すのは食べ物や装飾品ばかりだった。
だが今は違う。目に映る物を楽しむだけでなく、その裏側にある仕組みを知ろうとしている。
「……成長したな」
「え?」
「いや、何でもない」
ウィリアムは微かに口元を緩めた。
その時だった。
ふわりと甘く香ばしい香りが漂ってくる。
「……」
アンジェリカの足が、再び止まる。
視線の先には人だかりのできた屋台。鉄板の上では丸い生地がこんがりと焼かれ、仕上げに琥珀色の蜜がたっぷりとかけられている。
「……あれは何?」
「お嬢様」
「これは市場調査よ」
「まだ何も申し上げておりません」
レイミは淡々と返す。しかし、アンジェリカの視線は屋台に釘付けだった。
「本当に市場調査なの」
「先ほども同じことを仰っていましたね」
「本当に市場調査なんだから!」
胸を張るアンジェリカに、レイミは苦笑する。
「では、旦那様に許可をいただいてください」
アンジェリカは恐る恐るウィリアムを見る。
「……お父様」
「何だ」
「あちらの商品を調査してもよろしいでしょうか?」
ウィリアムは屋台へ視線を向け、小さく息をついた。
「一つだけだぞ」
「やったわ!」
アンジェリカの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし、食べ歩きはするな。人混みでは危険だからな」
「はい!」
嬉しそうに屋台へ向かうアンジェリカの背中を見送りながら、レイミはぽつりと呟く。
「……市場調査」
「何か言った?」
「いいえ」
屋台には数人の客が並んでいた。
アンジェリカは客層や待ち時間、売れ行きを真剣な表情で観察する。
――もっとも、その視線は何度も焼き上がる菓子へ吸い寄せられていた。
「今のは焼き時間を見ていたのよ?」
「ええ、存じています」
やがて、アンジェリカの順番が回ってくる。
「お嬢さん、一つでいいかい?」
「ええ! 一つちょうだい!」
受け取った焼き菓子は湯気を立て、甘い香りを漂わせていた。
「いただきます」
一口かじる。
「……!」
外は香ばしく、中はふんわり。濃厚な蜜の甘さを、ほんのりとした塩味が引き立てている。
「んん〜〜! おいしい!」
思わず頬を押さえながら、アンジェリカは満面の笑みを浮かべた。
「お嬢様、声に出ています」
「だって、本当に美味しいんだもの!」
幸せそうに頬を緩めるアンジェリカを見て、店主も目を細める。
「気に入ってくれたかい?」
「ええ、とっても! これはどんな材料を使っているの?」
店主は少女の身なりを見て、小さく目を丸くした。
「その身なり……もしかして貴族様かい?」
「ええ、そうよ!」
アンジェリカは胸を張って答える。
「これは市場調査なの!」
「はははっ! 市場調査かい。それは熱心なお嬢さんだ」
背後では、レイミと護衛騎士たちが揃って額に手を当てていた。
(堂々と言ってしまわれた……)
しかし店主は気を悪くするどころか、楽しそうに笑いながら話し始める。
「この菓子は隣領で採れた小麦を使っていてね――」
小麦の産地、仕入れ値、一日の販売数。店主は商売のことまで包み隠さず教えてくれた。
最初は食べ物への興味だった。
「なるほど……人が集まる町だからこそ、利益が出るのね」
「ああ。それが宿場町ってもんさ」
だが話を聞くうちに、アンジェリカは商売そのものへ強く惹かれていく。
その時。
「――おい!」
鋭い怒鳴り声が通りに響き渡る。
振り返ると、人混みの中で男二人が激しく掴み合っていた。
「俺の財布を盗んだだろ!」
「違う! 俺じゃない!」
ざわり、と周囲が騒ぎ始める。
「お嬢様、こちらへ」
異変を察したレイミが、アンジェリカを庇おうと手を伸ばした。
しかし、その瞬間――。
「きゃっ!」
誰かが勢いよくアンジェリカにぶつかった。体勢を崩し、手にしていた焼き菓子が地面へ落ちる。
「ああっ!」
反射的に視線を落とした、その一瞬。
小柄な人影が、すっと脇を駆け抜けた。
アンジェリカは咄嗟に顔を上げる。
「待ちなさい!」
逃げ去る人影の手には、公爵家の紋章が刻まれたペンダントが握られていた。
「……あれは!」
レイミが目を見開く。アンジェリカの胸元にあったはずのペンダントが、いつの間にか消えていた。
「追うわ!」
考えるよりも先に、アンジェリカは地を蹴る。
「お待ちください、お嬢様!」
「待て、アンジェリカ!」
レイミとウィリアムが同時に制止の声を飛ばす。
しかし、その声が届くよりも早く――。
「返しなさい!」
アンジェリカは人混みをかき分け、盗人の背中を追って駆け出していた。




