私は市場調査に行くことにしたわ!
レーベル公爵家の一行は、宿場町で最も格式の高い宿へと到着した。
石造り三階建ての建物は重厚な造りで、落ち着いた風格を漂わせている。
(へえ……宿場町だからもっと質素な宿を想像していたけれど、思ったより立派なのね)
アンジェリカは感心したように宿を見上げた。
街道沿いの宿とはいえ、帝都へ向かう貴族や有力商人が利用するだけあり、建物の造りから調度品に至るまで一流だ。旅の疲れを癒やすには十分すぎるほどの宿である。
使用人たちが荷物を運び込む中、一行はそれぞれ案内された部屋へ向かった。
アンジェリカに用意されたのは、二階の角部屋だった。
大きな窓からは宿場町の大通りを一望でき、行き交う旅人や商人たちの姿が目に映る。
「思っていたより賑やかな町ね」
窓辺へ歩み寄ったアンジェリカが、小さく呟く。
「帝都へ向かう街道沿いでも有数の宿場町ですから」
荷物を整理しながら、レイミが答える。
「各地から商人や旅人が集まります。物流の要所でもありますので」
「なるほど……」
アンジェリカは静かに頷く。
リヒトの授業でも聞いたことがある。
街道が交わる町には、人だけでなく物も情報も集まる。だからこそ、商人たちは宿場町を何より重視するのだと。
「……少し町を見てみたいわね」
「旦那様のお許しがあれば、ですが」
「分かってるわ」
そう答えながらも、アンジェリカの視線は窓の外へ釘付けだった。
焼き立ての菓子を並べる屋台。
色鮮やかな布を広げる露店。
大道芸を披露する旅芸人。
活気あふれる町並みに、胸が自然と躍る。
(行ってみたい……)
その時だった。
――コンコン。
部屋の扉が軽く叩かれる。
「失礼いたします」
入ってきたのは、公爵家の護衛騎士だった。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
「お父様が?」
「はい。夕食まで少し時間がありますので、町を視察されるそうです」
アンジェリカの瞳がぱっと輝く。
「視察?」
「お嬢様も同行するように、と」
「本当!? すぐ行くわ!」
思わず声が弾む。
だが、その直後。
「お嬢様。視察、です」
レイミが静かに釘を刺した。
「……分かってるわよ」
「買い物ではありません」
「分かってるってば」
「甘味巡りでもありません」
「だから分かってるって! 私は次期領主として町を見学するだけよ」
胸を張って言い切るアンジェリカ。しかし、その心の中では――。
(焼き立てのお菓子、一つくらいなら食べても怒られないわよね……?)
「お嬢様」
「ひゃいっ!」
レイミの一声に、アンジェリカはびくりと肩を跳ねさせた。
「な、何よ! 別に一つくらい食べたっていいじゃない!」
「……まだ何も申し上げておりませんが」
「……あっ」
しまった、と口を押さえるアンジェリカ。
レイミは小さく息をつき、静かに微笑んだ。
「どうやら、ご自分で白状なさったようですね」
「は、図ったわね……!」
「これに懲りたら、お顔に出やすい癖を少しは直されたほうがよろしいかと」
「うっ……」
耳まで真っ赤に染めたアンジェリカは、両手で顔を覆った。
そんな二人の微笑ましいやり取りを見ていた護衛騎士は、思わず口元を緩めるのだった。
◇
「それでは、お嬢様。旦那様がお待ちです」
「ええ、すぐ行くわ」
アンジェリカは軽く咳払いを一つすると、気持ちを切り替えるようにドレスの裾を整えた。レイミも襟元や髪の乱れを手早く直し、小さく頷く。
「問題ありません」
「よし。それじゃあ行きましょう」
二人は部屋を出る。夕日が差し込む廊下には長い影が伸び、階下からは夕食の支度をする香ばしい匂いが漂ってきた。
その瞬間。
――ぐぅ。
小さく、それでいて妙によく響く音が鳴る。
「……」
レイミは無言で隣を見る。アンジェリカは何事もなかったかのように天井を見上げていた。
「……お嬢様」
「ち、違うわよ?」
「まだ何も申し上げておりません」
「……あっ」
またしても墓穴を掘る。
レイミは静かに目を閉じた。
「今回はお腹でしたか」
「……聞こえた?」
「ええ。廊下中に」
「……忘れなさい」
顔を真っ赤にしながら俯くアンジェリカ。幸い、近くにいた使用人たちは必死に笑いを堪えているだけで、誰も口には出さなかった。
階段を下りて玄関ホールへ向かうと、そこには既にウィリアムと数名の護衛騎士が待っていた。
「待たせたかしら、お父様」
「いや、ちょうど今集まったところだ」
ウィリアムは娘の姿を見て穏やかに頷く。
「今回は、ただ町を歩くだけではない。宿場町がどのように人と物を集め、利益を生み出しているのか、自分の目でよく見て学びなさい」
「はい!」
今度は真面目な顔で返事をするアンジェリカ。
(せっかくの機会だもの。しっかり勉強しなくちゃ)
力強く心に誓う。
そして──。
(宿場町で人気のお菓子も、ちゃんと調査しないとね。市場調査は領主の大切なお仕事だもの!)
都合よく理由を付け足した。
その横顔を見たレイミは、小さくため息を漏らす。
(……市場調査ではなく、味見の間違いでは)
もちろん、その言葉は胸の内にしまっておく。
「では、参るぞ」
ウィリアムを先頭に、一行は宿を後にした。




