閑話〈あの日から続く笑顔〉
レーベル公爵家、夫人の居室。夜会へ向けた準備を終えたフレアは、一日の疲れを癒やすように紅茶を口へ運んでいた。
「お疲れ様でございました、奥様」
静かにティーポットを置いたのは、公爵夫人専属侍女カミラの補佐役を務めるマリだった。
「あなたもお疲れ様。今日は一日中、あなたに任せきりでごめんなさいね」
「いいえ。そのようなお気遣いは無用でございます」
マリは穏やかに微笑みながら首を横に振る。
「カミラが産休から戻るまでの辛抱だから、それまでよろしくね」
「はい。お任せください」
五年前、孤児院からレーベル公爵家へ仕えることになった少女は、真面目な働きぶりと誠実な人柄を高く評価され、今では公爵夫人専属侍女の補佐役という重責を任されるまでに成長していた。
無駄のない所作に細やかな気配り。
その仕事ぶりは使用人たちからの信頼も厚く、フレアも安心して傍を任せられる存在となっている。
「ありがとう、マリ」
フレアは穏やかに微笑んだ。
その笑顔には、かつてのような高圧的な面影は、もうどこにもない。
「今日は一日中、アンジェリカの夜会の準備で大忙しだったわ」
「夜会まで、あと三週間ですものね」
「ええ」
フレアは窓の外へ目を向ける。
「まさか、あの子が社交界へ出る日を、こんなにも楽しみに思えるようになるなんて……昔は想像もできなかったわ」
「恐れながら、私もです」
マリも静かに頷いた。
使用人を見下し、思いどおりにならなければ癇癪を起こしていた少女。
そんなアンジェリカが今では、誰よりも使用人を気遣い、領民の幸せを願う令嬢へと成長している。
「お嬢様は、本当にお変わりになりましたね」
しみじみと呟くマリに、フレアは優しく微笑む。
「ええ。でも、変わったのはあの子だけではないのよ」
「え?」
「私も、ウィリアムも、お義父様も……レーベル家のみんなが、あの子に変えられたの」
思いもよらない言葉に、マリは思わず目を丸くする。
そんな彼女を見て、フレアは小さく笑った。
「私がこんなことを言うなんて、意外でしょう?」
「い、いえ! 決して、そのようなことは……!」
慌てて首を横に振るマリ。
だが心のどこかでは、「確かに」と思っていた。
かつてのレーベル公爵家は、家柄と身分を何よりも重んじる一族だった。
強い選民意識によって傷ついた平民は数知れず、使用人たちの間では『悪魔の一族』と囁かれるほどだった。
もちろん、アンジェリカも例外ではない。
マリの親友――サラが幼いアンジェリカの専属侍女になった頃は、些細な失敗でも叱責され、理不尽な癇癪に振り回される毎日だった。
心身ともに疲れ果て、日に日にやつれていく親友の姿を、マリは何度も見てきた。あの頃の苦しそうな表情は、今でも鮮明に脳裏へ焼き付いている。
だが、その日々は五年前を境に終わりを迎えた。
アンジェリカは少しずつ人を思いやる心を育み、自ら使用人たちへ歩み寄るようになった。
その変化は屋敷全体へ広がり、ウィリアムやフレア、さらには先代公爵オリヴァーの心までも変えていく。今では使用人たちの待遇は大きく改善され、屋敷には自然と笑顔があふれていた。
そしてマリ自身も、公爵夫人専属侍女の補佐役という大役を任されるまでになっている。その変化の始まりは、紛れもなくアンジェリカだった。
(お嬢様は、サラの一件をきっかけに変わられた)
(でも、本当に変わる決意を後押ししたのは……きっと、あの子だったのよね)
マリの脳裏に浮かんだのは、もう一人の親友――いつも冷静で真っ直ぐなレイミの姿だった。
自然と口元が綻ぶ。
「奥様」
「なあに?」
「お嬢様なら、帝都でもきっと大丈夫ですよね」
フレアは迷うことなく頷いた。
「ええ。あの子なら大丈夫よ」
一拍置いて、優しく微笑む。
「もちろん心配はしているわ。でも、不安ではないの」
「不安ではない……ですか?」
「あの子はもう、自分のためではなく、誰かのために努力できる子になったもの」
その言葉には、母としての揺るぎない信頼が込められていた。
「きっと帝都でも、多くの人と出会い、多くのことを学び、また一回り大きくなって帰ってくるでしょう」
「はい。私もそう思います」
二人は並んで窓の外を見上げた。
夜空には、一番星が静かに輝き始めている。
その小さな光は、まるでアンジェリカの未来を優しく照らしているかのようだった。




