私は自分の強みを活かしてみせるわ!
舞踏の稽古を終えた頃には、空はすっかり茜色に染まり始めていた。
「お嬢様、お疲れ様でした」
サラから差し出されたタオルを受け取り、アンジェリカは額の汗を拭う。
「疲れたわ……。領地を一日中視察するほうが、まだ楽かもしれないわ」
「それは言い過ぎです」
レイミが間髪入れずに返した。
「そうかしら?」
「少なくとも視察では、自分の足を踏むことはありませんから」
「……それは忘れてちょうだい」
気まずそうに視線を逸らすアンジェリカ。その様子を見て、サラがくすりと笑う。
「でも、お嬢様。最初に比べれば、ずっとお上手になられましたよ」
「本当?」
「はい。最初は三歩で踏んでいましたけど、最後は十歩ほど続きました」
「それ、褒められている気がしないわ!」
思わず声を上げるアンジェリカ。舞踏室は笑いに包まれたが、当の本人は密かに拳を握り締める。
(これ以上、笑い者になるわけにはいかないわ……! 見てなさい!)
春の夜会まで、あと三週間。
当日までには必ず胸を張って踊れるようになろう――そう固く心に誓うのだった。
◇
いつもより少し豪華な夕食を終えた後、アンジェリカは父に呼ばれ、執務室を訪れていた。
「失礼いたします」
扉を開けると、ウィリアムとフレアが揃って待っていた。
二人の前には、一通の封書が置かれている。
「また招待状ですか?」
「いや。今回は夜会の詳細が届いた」
ウィリアムは封を切り、中の書状をアンジェリカへ差し出した。
「見てみなさい。参加者の一覧も同封されている」
「参加者……」
アンジェリカは書状へ目を通す。
そこには帝国を代表する公爵家、長い歴史を誇る侯爵家、武門として名高い伯爵家など、教本で何度も目にした名門貴族の名がずらりと並んでいた。
「へえ。帝都の夜会なだけあって、さすがの顔ぶれね」
感心したように書状を眺める。
確かに並んでいる名前は錚々たるものだ。しかし、帝国屈指の名門であるレーベル公爵家の令嬢として育ったアンジェリカにとって、気圧されるほどではない。
大きく成長した今も、公爵家の人間としての誇りと矜持は失っていなかった。
その時、一つの名前に視線が止まる。
「……えっ?」
それは帝国で暮らす者なら、知らぬ者はいない名。
「皇太子殿下もご出席されるのですね」
「ああ」
ウィリアムは静かに頷いた。
「春の夜会は、新たに社交界へ加わる若者たちを皇族へ紹介する意味合いもある」
「そうなのですね。では、直接ご挨拶する機会も?」
「その可能性は高いだろう」
アンジェリカは思わず背筋を伸ばした。
皇族と言葉を交わす機会など、一生のうちに何度も訪れるものではない。
「……何だか、急に緊張してきたわ」
珍しく弱気な声を漏らす娘に、フレアが優しく微笑む。
「緊張するのは、みんな同じよ」
「お母様もですか?」
「もちろん。初めて夜会へ出た時は、挨拶の順番を間違えてしまって、とても恥ずかしい思いをしたもの」
「お母様にも、そんなことがあったのですか?」
アンジェリカは意外そうに目を丸くした。
いつも完璧に見える母にも、そんな失敗があったとは思いもしなかった。
「誰だって最初は初心者よ」
その一言で、アンジェリカの肩から少しだけ力が抜ける。
だが――。
「アンジェリカ。一つだけ覚えておきなさい」
ウィリアムが静かに口を開いた。
「夜会で最も恐ろしい相手は、敵意を隠さない者ではない。笑顔で近づいてくる者だ」
「笑顔で……?」
首を傾げる娘へ、ウィリアムが続ける。
「貴族は笑いながら探りを入れ、笑いながら駆け引きをする。相手の言葉だけを信じてはならない。その者が何を望み、何を隠しているのかを常に考え続けるんだ」
「駆け引き……」
「一度社交界へ足を踏み入れたなら、そこは戦場だと思いなさい」
「……はい、お父様」
アンジェリカは真剣な面持ちで頷く。そこには、かつてのように他家を見下す傲慢さは、もうなかった。
その姿を見て、ウィリアムの表情がわずかに和らぐ。
「ただし、お前まで腹の探り合いばかりする必要はない」
「え?」
「今のお前には、お前にしかない強みがある」
「私だけの、強み?」
「領民を思い、使用人を大切にし、誰かのために行動できることだ」
穏やかな眼差しが向けられた。
「その心だけは、決して失ってはいけない。いいね?」
「……はい! お父様。わたし、頑張るわ!」
「うむ」
父娘は互いの言葉を胸に刻むように、小さく頷き合った。
その様子を見つめながら、フレアは胸の奥に温かなものが込み上げてくるのを感じていた。
(アンジェリカ。あなたは私たちに、本当に大切なものを教えてくれた。あなたは私たちの誇りよ)
家柄だけを重んじ、他者を見下していたレーベル公爵家は、もう存在しない。
今ここにあるのは、人を思いやり、人の笑顔を願える家族。そして、その中心には、未来のレーベル公爵となるアンジェリカがいた。
◇
その夜――帝都の、とある屋敷。
一人の青年が、春の夜会への招待状を静かに見つめていた。
「夜会まで三週間か……」
窓の外には、煌びやかな帝都の夜景が広がっている。
幾重にも灯る街明かりは、この国の繁栄を静かに物語っていた。
しかし青年は、その景色には目もくれず、再び書状へ視線を落とす。
「レーベル公爵家の令嬢、か……」
口元には、興味とも期待ともつかない笑みが浮かぶ。
「一度、この目で見てみたいものだ」
静かな呟きは、夜の闇へと溶けていった。
――アンジェリカは、まだ知らない。
この春の夜会で交わされる一つの出会いが、彼女の運命だけでなく、レーベル公爵家の未来さえも大きく動かすことになるのを。




