私は踊りの練習を始めたわ!
春の夜会まで、残り三週間。レーベル公爵家では、帝都行きに向けた準備が着々と進められていた。
荷物の確認。馬車の整備。護衛騎士との打ち合わせ。
社交界には帝国中の名門貴族が集う。それだけに、入念な準備は欠かせない。
そして──。
「痛っ!」
甲高い悲鳴が舞踏室に響き渡った。
「お嬢様。十四回目です」
淡々と回数を告げるレイミの前で、アンジェリカは顔をしかめながら足を押さえる。
「い、今のはノーカウントよ!」
「いいえ。右足で左足を踏みました」
「事故よ!」
「事故でも、踏んだことに変わりありません」
「むぅ……生意気よ」
頬を膨らませるアンジェリカ。その向かいでは、フレアが扇子で口元を隠しながら苦笑していた。
「アンジェリカ。夜会では必ず舞踏会があります」
「分かっています、お母様」
「分かっていて、その結果なのだけれど……」
フレアの視線が床へ落ちる。
そこには何度も踏み直した跡が残っていた。
練習を始めて一時間。アンジェリカは一曲たりとも最後まで踊り切れていない。
「領地視察なら、一日中歩けるのに……」
ぼそりと漏らすと、レイミが即座に返した。
「当然です。畑でワルツは踊りませんから」
「そんな正論はいらないわ!」
思わず叫ぶアンジェリカ。その様子を見ていたサラが、小さく吹き出した。
「サラまで笑うの?」
「も、申し訳ありません……」
慌てて頭を下げるサラだったが、肩は小刻みに震えたままだ。
「味方が誰もいないじゃない……」
「あら、ここにいるわよ」
フレアが優しく微笑む。
「ただし、甘やかす味方ではありませんけれど」
「お母様まで……」
アンジェリカは力なく肩を落とした。
その様子を見かねた舞踏教師が、一歩前へ進み出る。
「お嬢様」
初老の男性だった。帝都でも指折りの実力者として知られ、公爵家がわざわざ招いた舞踏教師である。
「アンジェリカお嬢様は、姿勢も重心も大変美しい」
「本当!?」
アンジェリカの表情がぱっと明るくなる。
「ええ。事実でございます」
教師は穏やかに頷いた。
「ですが」
「ん?」
続く言葉に、アンジェリカの笑顔が止まる。
「踊ることよりも、相手を引っ張ろうとなさっています」
「え?」
教師はゆっくりと言葉を続けた。
「お嬢様は領主として考える癖が身についております。常に『自分が先導する』という意識があるのです」
アンジェリカは目を瞬かせる。
「ですが、舞踏は違います」
教師は一歩踏み出し、滑らかな足運びを見せた。
「互いに呼吸を合わせ、一歩ずつ歩み寄るものです」
その動きは、水が流れるように自然だった。
「導くことと、相手に合わせることは、似ているようでまったく違います」
アンジェリカは真剣な眼差しで見つめる。
(合わせる……)
領地では、自ら決断し、人々を導く立場だった。
だからこそ、無意識のうちに舞踏でも相手を引っ張ろうとしていた。
だが、舞踏は違う。互いの呼吸が合って初めて、美しい踊りになるのだ。
「もう一度……もう一度、お願いします」
自然とその言葉が口をついて出た。教師は満足そうに微笑む。
「ええ。その意気です」
再び音楽が流れ始めた。
一歩。二歩。三歩。
先ほどよりも、足取りはずっと滑らかだ。
教師も思わず頷く。
(飲み込みが早い)
──しかし。
「痛っ!」
数秒後、再び悲鳴が響いた。
「十五回目です」
「まだ数えてたの!?」
「本日の最高記録を更新しました」
「更新したくないわよ!」
レイミの冷静な返答に、舞踏室は笑いに包まれた。
◇
その笑い声は、廊下の外まで聞こえていた。
「楽しそうですね」
隣に控える執事が微笑む。
ウィリアムも小さく目を細めた。
「ああ」
短く答えると、静かに舞踏室の扉へ視線を向ける。
「だが帝都では、あの笑顔のままではいられない場面もあるだろう」
社交界。そこは、笑顔の裏で思惑が交錯する世界。
娘がどんな試練に直面するのか、父にも分からない。
それでも──。五年前とは違う。
娘は人を思いやり、人のために努力できる人間へと成長した。
だからこそ、安心して送り出せる。
「お前なら、きっと乗り越えられるよ。アンジェリカ」
その頃、当のアンジェリカは──。
「いたっ!」
「十六回目です」
「レイミぃぃぃ!」
今日も今日とて、舞踏室には賑やかな声が響き渡っていた。




