私は帝都へ行くことになったわ!
「失礼いたします」
レーベル公爵家の執務室。控えめなノックの後、アンジェリカが部屋へ入る。執務机に向かっていたウィリアムは顔を上げると、娘の姿を見て穏やかに目を細めた。
「来たかい、アンジェリカ」
「お父様、お呼びと伺いました」
「ああ。急に呼び立てて悪かったね。そこへ座りなさい」
「失礼します」
勧められるままソファへ腰を下ろす。向かいにはフレアも座っていたが、その表情はどこか神妙だった。
普段とは違う空気を感じ取り、アンジェリカは小さく首を傾げる。
「何かございましたか?」
「今日は、お前に話しておかなければならないことがある」
穏やかな父の表情が、公爵としてのものへ変わる。
ウィリアムは机の上に、一通の封筒を置いた。
「これは……?」
「帝都から届いた招待状だ」
「帝都……?」
アンジェリカは封筒へ視線を落とす。
赤い封蝋には、皇族の紋章が刻まれていた。
(サラが慌てていたのは、このことだったのね)
胸中で納得しながら封筒を見つめる娘に、ウィリアムは静かに告げる。
「今年、お前も十五歳になった。正式に社交界へ参加する年齢だ」
その一言で、アンジェリカはすべてを察した。
「つまり……」
「帝都で開かれる春の夜会へ出席してもらう」
社交界──帝国中の名門貴族が一堂に会し、人脈を築き、政治や婚約について語り合う華やかな舞台。領地とはまるで異なる世界である。
「いよいよ、この時が来たのね」
アンジェリカは静かに呟く。
幼い頃の自分なら、新しいドレスや豪華な夜会、お菓子のことばかり考えていただろう。だが今、胸に浮かんだのは別のことだった。
他領の成功例。
失敗から得た教訓。
新しい農法や交易品。
治水や灌漑技術。
それらを学べば、レーベル領をさらに発展させられる。
(各地の貴族から、領地経営について直接話を聞ける絶好の機会だわ!)
真剣に考え込む娘の姿を見て、ウィリアムが思わず苦笑する。
「……本当に変わったものだな」
「え?」
「普通の令嬢なら、まず新しいドレスや夜会の相手、あるいは婚約者候補のことを気にするものだ」
「婚約者候補、ですか?」
アンジェリカは目を丸くした。
「そのようなお話もあるのですか?」
その一言に、ウィリアムとフレアは思わず顔を見合わせる。
しばらく沈黙が流れた後、フレアが呆れたようにため息をついた。
「……気付いていなかったの?」
「何にでしょう?」
「あなたはレーベル公爵家の一人娘なのですよ」
アンジェリカはなおも首を傾げる。
「帝国でも屈指の名門。その跡継ぎともなれば、縁談の申し込みが山のように届くのは当然でしょう」
「えぇっ!?」
執務室に素っ頓狂な声が響いた。
「そ、そんなに来ていたの!?」
「ああ。毎週のようにな」
「毎週……」
アンジェリカの頬が引きつる。脳裏には見知らぬ青年たちが列を作り、「どうか婚約を!」と頭を下げる光景が浮かんだ。
(む、無理よ……)
領地の視察に勉強、執務だけでも毎日忙しいのだ。そこへ縁談まで加わるなど考えたくもない。
それに──。
(美しく可憐な私に釣り合う殿方が、そう簡単にいるとも思えないわ!)
青ざめたかと思えば、今度は急に真顔になる。
そんな娘の忙しい表情に、フレアは思わず笑みを漏らした。
「安心なさい。これまではすべてお断りしてきましたから」
「そ、そうだったのですか……」
胸を撫で下ろすアンジェリカ。しかし、ウィリアムは再び表情を引き締める。
「だが、社交界へ出れば話は別だ」
室内の空気が、再び張り詰めた。
「夜会では、お前に近づこうとする者が必ず現れる。公爵家の令嬢なのだから当然だ」
「……はい」
「純粋にお前という人間へ興味を抱く者もいるだろう。だが、レーベル家の権威や財産だけを目当てに近づく者も少なくない」
アンジェリカは真剣な眼差しで父を見つめる。
「言葉だけで相手を判断するな。どれほど耳障りの良いことを言われても、その者が何を見て、何を考え、どう行動する人間なのかを見極めろ。それもまた、公爵家を継ぐ者に必要な資質だ」
父の言葉には、公爵として積み重ねてきた年月の重みがあった。
普段は娘を溺愛している父だからこそ、その厳しさが自分を案じてのものだとアンジェリカにはよく分かる。
彼女は真っ直ぐ父を見つめ、力強く頷いた。
「承知いたしました。必ず、お父様の期待に応えてみせます」
「うむ」
娘の成長した姿に、ウィリアムが満足そうに頷いた。
その時だった。
――バァン!
執務室の扉が勢いよく開かれる。
「ウィリアム!」
腹の底まで響く豪快な声。現れたのは、元公爵にして『鉄血公』の異名を持つオリヴァーだった。
「お、お祖父様?」
「おお姫よ! 今日も可憐じゃな」
「どうしてここに?」
「聞いたぞ、帝都へ行くそうじゃないか!」
アンジェリカを見つけるや否や、一直線に歩み寄る。
「護衛騎士を二十人追加しよう!」
「二十人!?」
「む、足りんか? なら三十人だ!」
「十分多いです!」
「ふむ……では四十人――」
「なんで増えてくのよ!」
アンジェリカが即座にツッコミを入れる。
「お祖父様、そんなに必要ないわ!」
「しかし帝都だぞ? 悪い虫が寄ってくるに決まっておる」
「悪い虫って……」
腕を組み、オリヴァーは真剣な顔で頷いた。
「儂の孫娘に指一本触れようものなら、その場で叩き潰してくれる!」
「お祖父様、物騒よ!」
「安心せい。ちゃんと法に触れん程度にだ」
「全然安心できないわ!」
思わず立ち上がって抗議するアンジェリカ。その様子を見て、フレアは肩を震わせる。
「ふふっ……。アンジェリカとお義父様のやり取りは、本当に面白いですね」
一方のウィリアムは額に手を当て、大きくため息をついた。
「父上。護衛は既に十分な人数を手配しております」
「何人だ?」
「八名です」
「少なすぎるッ!」
「十分です」
「最低でも二十五人は必要だ!」
「資金の無駄です」
「無駄だと!? 姫の安全より大切なものがあると言うのか!」
「愛娘だからこそ、過剰な護衛で目立たせるべきではありません」
真顔で言い争う親子。
その光景を横目に、アンジェリカは静かに胸へ手を当てた。
(帝都……)
最後に訪れたのは五年前。帝国で最も栄える都は、今も多くの人と文化、そして様々な思惑が渦巻いているのだろう。
胸は期待で高鳴る。だが同時に、不安もあった。
領地とは違い、帝都には昔の自分を知る者もいるかもしれない。レーベル家への偏見や、自分の悪評が残っていても不思議ではない。
(お祖父様じゃないけれど……気合いを入れて行かなくちゃね)
この帝都への旅が、自らの運命を大きく変える出会いと、数々の試練の始まりになることを、この時の彼女はまだ知らなかった。




