私は不満よ!
領地には、馬車で十分ほど揺られただけで到着した。
「やっと着いたわね。お尻が痛くなっちゃったわ」
馬車から降りるなり、アンジェリカは不満そうに腰へ手を当てる。
貴族の移動手段といえば馬車が当然だが、普段ほとんど屋敷から出ない彼女にとっては、たった十分の道のりですら苦痛だった。
「ご足労いただき、ありがとうございます。アンジェリカお嬢様」
出迎えたのは、眼鏡を掛けた黒髪の青年だった。
黒いズボンに黒のベストという簡素な装いながら、身なりは清潔で、穏やかな物腰から知的な印象を受ける。
──確か、リヒトとか言ったわね。
アンジェリカは青年の名前を思い出す。
リヒトは父の部下であり、アンジェリカの領地を代わりに管理している文官だ。
他人に興味のないアンジェリカにとって、名前など本来どうでもいい。
だが、定期的に税の報告へ訪れるため、嫌でも顔と名前だけは覚えてしまっていた。
もちろん、自分から名前を呼んだことは一度もない。
「退屈だったから来てやったわ。さっさと案内しなさい」
「畏まりました。どうぞこちらへ」
リヒトに先導され、アンジェリカとサラは護衛を従えながら領内へと歩き出した。
祖父オリヴァーが彼女へ与えたのは、本邸から最も近い領地の一つだった。
行き来しやすく、管理もしやすい。
孫娘のためを思って整えられた環境だったが、アンジェリカにとっては、それも当然の待遇でしかない。
「ふーん……思ったより栄えているのね」
「そう言っていただけると光栄です」
屋敷に近いこともあり、領地は大きく発展していた。
人々で賑わう通り。活気あふれる商店。
整備された街並みは、帝都にも引けを取らないほどだ。
レーベル家は古くから貿易で財を成した一族である。
鉱山から採れる金銀を輸出し、その後は加工技術を発展させ、美しい装飾品を特産品として売り出してきた。
アンジェリカが定期的に受け取っている宝石も、その一つだった。
「最近は帝都から新たな技術者も派遣されまして、旦那様が考案された『簡易型魔道具』の生産効率も大幅に向上しております」
「あっそ」
リヒトが誇らしげに説明する。
だが、アンジェリカは興味なさそうに聞き流した。
領民がどんな暮らしを送り、どれだけ豊かになろうと関係ない。
彼女にとって領民とは、税を納める存在でしかなかった。
「あっ、リヒトさん! こんにちは!」
繁華街へ入ると、買い物帰りの領民たちが次々と声を掛けてきた。
「この前は差し入れ、ありがとうございました!みんな喜んでました!」
「リヒトさんのおかげで運搬がずいぶん楽になったよ!」
「またお店にも寄ってください。店長が会いたがってましたよ!」
誰もが自然な笑顔を浮かべ、親しい友人へ接するようにリヒトへ話しかける。
文官は貴族出身者が務めることも多く、リヒトもその一人だ。
それでも彼は、身分を笠に着ることなく、領民たちと信頼関係を築いていた。
その様子を見て、アンジェリカは眉をひそめる。
......貴族が平民と馴れ合うなど、見苦しい。
そう思った。
しかし、それ以上に彼女の胸をざわつかせたのは別のことだった。
「み、皆さん。今日はアンジェリカ様もお越しくださっています」
リヒトが慌てて紹介すると、それまで明るかった空気が一変する。
「あ……アンジェリカ様。こんにちは……」
「ど、どうも……」
笑顔は消え、表情は硬くなる。
頭は下げる。だが、その瞳に宿っていたのは敬愛ではない。
怯えと戸惑いだけだった。
──何よ、こいつら。せっかく私が来てあげたのに。
もっと喜びなさいよ。
もっと感謝しなさいよ。
歓迎されているのは私ではない。この文官だ。
その事実が、アンジェリカの癇に障った。
「……帰るわ」
「え?」
「帰るって言ってるのよ! さっさと帰り支度をなさい!」
「し、承知しました!」
リヒトもサラも慌てて頭を下げる。
アンジェリカは二人を振り返ることもなく、怒りに任せて大股で歩き出した。
退屈は紛れた。
だが、その代わりに胸を満たしたのは、燃え上がるような苛立ちだった。
──腹が立つ。誰の領地だと思っているのよ。
「生意気……本当に、生意気だわ」




