閑話〈解けてゆく蟠り〉
レイミに続き、サラがアンジェリカ付きの侍女に任命されてから、しばらく経ったある日のこと。
サラはまだ病み上がりではあったが、医師の許可を得て、仕事に復帰していた。少しずつだが、無理のない範囲で、アンジェリカ付きの侍女として職務をこなしている。
そして当のアンジェリカはというと――。
「はぁ……」
少女が桃色を基調とした自室で、大きなため息をついた。
「毎回、この時間になると憂鬱だわ……」
机の上には、領地経営に関する分厚い参考書が何冊も積まれている。
税制、灌漑、農業、商業、治安維持……。どれも領主には欠かせない知識だ。
今日は週に一度の領地経営の講師である、リヒトがやって来る日であった。
参考書に視線を落としたまま、アンジェリカは肩を落とす。
「週一じゃなくて、月一にすれば良かったかしら」
「そうおっしゃらないで下さい、お嬢様」
「だって、難しいんだもの……」
不貞腐れる少女に、レイミが苦笑混じりに言う。
「リヒト様は、お忙しい中、毎週わざわざ公爵邸までお越しくださっているのですよ」
「……そうだったわね」
その一言に、アンジェリカははっと顔を上げた。
オックスフォード領から公爵邸までは、馬車で片道三時間。往復すれば、それだけで丸一日近くかかる。
しかもリヒトは、アンジェリカの代理として領政を担う文官でもある。
山積みの政務を抱えながら、週に一度、公爵邸まで足を運んでくれているのだ。
そう考えると、贅沢なことは言っていられない。
「リヒト様は、お嬢様が立派な領主になられることを願っておられます」
「……勉強するのは癪だけど、期待に応えられるように頑張らないといけないわね」
アンジェリカは参考書を閉じ、気持ちを切り替えるように息を吐いた。
その姿を見て、レイミはわずかに目を細める。
「講義が始まるまで、まだ少し時間がございます。紅茶を淹れてまいります」
「ええ、お願いするわ」
レイミは踵を返し、部屋を出ようとした。
その時だった。
カラン――。
金属が床へ落ちる乾いた音が響く。
「レイミ、何か落としたわよ」
アンジェリカが音のした方へ目を向ける。
「……え?」
「あ」
床に転がっていたのは、掌ほどの長さの、銀色に輝く一本のナイフだった。
「な、何でそんなもの持ってるのよ!?」
アンジェリカが目を丸くする。
普通の侍女なら、懐からナイフが出てくることなどあり得ない。
だが、当のレイミは慌てる様子もなく。静かにナイフを拾い上げた。
「ケーキを切るためのものです」
「え?」
あまりにも淡々とした返答に、アンジェリカは思考が止まる。
「本当に?」
「はい」
レイミは無表情のまま頷いた。
「お嬢様がお茶会で召し上がるケーキを、食べやすい大きさに切り分けるために携帯しておりました」
「そ、そんな準備までしてるの?」
「以前のお嬢様は、少しでも切り分けるのが遅れるとご機嫌を損ねておられましたので」
「…………」
アンジェリカは何も言えなくなった。
(前の私、本当に酷いわね……)
思わず額を押さえる。そんな主人を見て、レイミは続けた。
「ですが、もう必要ありません」
「え?」
「今のお嬢様は、そのようなことでお怒りになる方ではございませんから」
レイミはナイフを両手で持ち、アンジェリカへ差し出した。
「よろしければ、お嬢様へお譲りいたします」
「……ええ?」
アンジェリカは困惑した表情で、ナイフとレイミの顔を何度も見比べる。
「いや、普通に要らないんだけど……」
そのあまりにも率直な一言に、部屋の空気が一瞬だけ静まり返った。
「そもそも、ケーキを切るためのナイフを懐に入れて持ち歩く侍女なんて聞いたことがないわよ」
「そうでしょうか?」
レイミが首を傾げる。
「私は普通だと思っておりました」
「絶対に普通じゃないわよ! 大体、こんなもの貰ってどうしろって言うのよ」
「お守りにどうですか?」
「ずいぶん物騒なお守りね!?」
アンジェリカが即座にツッコミを入れると、レイミも小さく吹き出してしまうのだった。
(本当は別の目的のためのものだったけれど……もう必要ないわね)
戸惑うアンジェリカを横目に、レイミが静かに微笑んだ。




